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現代小説 1

ドクター・ヘリオットの 生きものたちよ」 集英社
J・ヘリオット 著  大熊栄 訳  

   生きものたちよ ドクター・ヘリオットの


原題Every Living Thing」。時代は1950年頃。イギリスの架空の村ダロービーの獣医ヘリオット先生の回想録。この本はヘリオットの結婚後の時代の話が書かれており、妻へレンと二人の子供、診療所の助手たちが登場する。

 あとがきによれば、著者は他の著作出版から10年ほどの時間をおいてこの作品を執筆したとのこと。モデルとなった人物たちが亡くなってから話を作品化したかったようで、時間が経ち作中の時代から遠ざかったこともあいまって、一篇の物語としての味わいが深まっているように思いました。
 今回は診療所の新しい助手たちが魅力的です。獣医としての腕と経営手腕に恵まれて、のちにイギリス獣医師会の会長となるジョン・クルックス。あなぐま同伴でダロウビーに登場した変わり者のカラム・ブキャナン。どちらも突出した才能を持って個性的であるために、平凡で、ある意味地に足のついたヘリオット先生の生き方が際立って心に残ります。
(2003.10.25)

「愛犬物語 上」「下」 集英社文庫
J・ヘリオット 著  畑正憲 訳  

   ドクター・ヘリオットの愛犬物語(上) (ドクター・ヘリオットシリーズ) (集英社文庫)

   ドクター・ヘリオットの愛犬物語(下) (ドクター・ヘリオットシリーズ) (集英社文庫)


原題「James Herriot's Dog Stories」。獣医である著者が、さまざまな性格のペット(特に犬)とつきあった話を綴った本。気が荒くて飼い主にも吠えつく犬、世話好きの犬、甘やかされて成人病もちの犬などが登場する。時代は1940年頃。イギリスの片田舎ダロービーののどかで美しい風景と、そこで暮らしている動物、家畜、人間とヘリオット先生との親密なつきあいぶりが楽しめる。

 話は穏やかで地味だけれど、思わずくすりとしてしまうようなユーモアがあって楽しい本でした。動物だけでなく登場する人たちや暮らしぶりにも心ひかれます。人間の忠実な友だちとして、時には人間よりもはばをきかせている犬にむけるヘリオット先生の愛情や観察眼に驚きました。
 夢中で読んでいると、時折「この時代はこうだった」という文に行きあたります。そこで「ああ、この本は思い出の話なんだ」と我に返るのですが、その瞬間何とも暖かい気持ちになります。いつか未来の自分が「こんなこともあった」と現在の自分を思い出すことがあるかもしれない、という予感を味わわせてくれるのです。

(2006.12.3追記)
 久々に読み返してみて気づいたのですが。全体にほのぼのとユーモアにあふれているのですが、それだけの本ではありません。
 毒薬を混ぜた餌を置いておく悪意の人間、自動車にひき逃げされた犬、また、犬を失ったことが引き金となって命を絶ってしまった飼主の話など、悲しいエピソードが差し挟まれているのが印象的。
 生きている動物、死んでしまった動物、傷を負いながら生きている動物たち。著者が彼らへ深い親しみを抱いていたことを、あらためて強く感じました。
(2003.6.11)

「Dr.ヘリオットのおかしな体験」 集英社文庫
J・ヘリオット 著  池澤夏樹 訳  

   Dr.ヘリオットのおかしな体験 (ドクター・ヘリオットシリーズ) (集英社文庫)


原題「All Things Wise and Wonderful」(米国で出版時の題名)。世は第二次大戦下、ジム・ヘリオットは英国空軍に入隊した。慣れない訓練の合間に、ジムはダロウビーの人々や動物たち、そして我が家で待つ妻と生まれたばかりの息子ジミーのことを思い出す。

 ダロウビーの思い出と訓練所の出来事が交互に語られています。
 思い出されるエピソードの中で気に入っているのは、社交好きでヨガの講習会だのバザー会場をほっつき歩く猫の話。家畜の治療方法に関して上司のシーグフリードと意見を戦わせる話。豪快獣医、グランヴィル・ベネットとの外出(結局は出かけられなかった)の話。

 また、訓練所ならではのエピソードもあります。
 妻の出産の知らせを待ちきれずに脱走を試みる話。懲罰は免れないだろう、という危機をグラスゴーなまりで乗り越える……のですが、緊張の中にどこかほのぼのとした切なさが漂うのが好きです。
 また、近所の農場に手伝いに行く話。農場とは縁があるとはいえ、空軍の訓練でかなり逞しくなったとはいえ、ジムの農作業は農場主の目からすれば要領の悪いもの。しかし、ジムの本領発揮できるような出来事がおこります。なるほど。「正しいやり方を知っている」のが大事なのです。
(2006.11.29)

「ヘリオット先生 奮戦記 上」「下」 集英社文庫
J・ヘリオット 著  大橋吉之輔 訳  

   ヘリオット先生奮戦記 上 (ハヤカワ文庫 NF 76)

   ヘリオット先生奮戦記 下 (ハヤカワ文庫 NF 77)


原題「All Creatures Great and Small」(米国で出版時の題名)。資格をとって七ヶ月の新米獣医師ジム・ヘリオットがダロウビーに職を見つけ、やがて妻ヘレンを迎えるまでの物語。

 ジムが見知らぬ土地に馴染み、村人の信頼を得ていく日々、また同僚ファーノン先生のちょっと風変わりな性格に振り回される様子がほほえましい物語です。この本の他にも、小動物(犬や猫)の話ばかり集めた本もあるのですが、私はこの一作が特に好きです。ダロウビーの農家にとって大切な財産である牛や馬といった患畜を治したり、治せなかったり、諦めていたのに何故か治ってしまったりする。そうするうちに村に腰を落ち着けていく姿に、いつも励まされます。

 現実は希望とは違うけれど、そこにも良い物、美しい物はある。ファーノン先生の台詞「さあ、丘へ出かけようじゃないか」は、いつ読んでもしみじみといい言葉です。
(2005.10.24)

「ヘリオット先生の動物家族」 ちくま文庫
J・ヘリオット 著  中川志郎 訳  

   ヘリオット先生の動物家族 (ちくま文庫)


原題「All Things Bright and Beautiful」(米国で出版時の題名)。ダロウビーにはいろんな人間と家畜がいる。酔っ払うと夜じゅう歌い続ける老人、巨大な牡牛と緑色の小さなインコ、診療先に道具を忘れてくる獣医たち。小さな町の祭りであるダロウビー・ショーで行なわれるペットコンテストには近隣の人たちが自慢の動物を連れてやってくる。

 ヘレン・アルダーソンへ求婚していたころから、彼女と結婚して空軍に入隊する直前までのお話。
 この一冊でヘリオット先生の本は全部読んだことになるので、もったいなくて取ってあったのですが(笑)、ようやく読みました。

 ダロウビー・ショーのお話は部分的には他の本で既読でしたが、割愛されたエピソードも入っていました。こちらの方がいいです。ヘリオット先生の話はほのぼのと心あたたまるものが多いですが、この一話はめずらしく九割がた嫌なこと、落ち込むことが書かれています。
 コンテストに出る動物を調べる時には自分の良心&事実と飼主の不満との板ばさみに、会場では思いを寄せるヘレンが他の男と歩いているのを見つける。子供のペットショーでは飼主の世話の良さを評価して点をつけたのに、地元の有力者に媚びたのだと誤解を受ける、賞をうけた農作物は盗品で、審査は八百長……。
 のどかに見える田舎町のいやらしさが遠慮なく書かれてます。ここまで書くか、と驚きまして。失望と冷めた視線、でもかえって笑うしかないような気分になるのが面白かった。乾いたユーモア感覚、ですね。

 ヘリオット先生の本では、ときどき獣医の仕事からすっと離れた視点があらわれるのがいいです。この本でいえば、乳しぼりの下手な農夫のプライドを傷つけずに乳しぼりをやめさせることを考えたり、捨てられた犬を可愛がってくれる飼主を見つけるエピソードなど。
 「病気を治す」だけではなく動物と人間の幸せな関わり方を深く考えている――きっと著者も治療以上の治療を行なった獣医さんだったのだろう、と思いました。
(2007.6.10)

「ドクター・ヘリオットの毎日が奇跡 上」
「下」
集英社文庫
J・ヘリオット 著  大熊 榮 訳  

   ドクター・ヘリオットの毎日が奇跡(上) (集英社文庫)

   ドクター・ヘリオットの毎日が奇跡(下) (集英社文庫)


原題「The Lord God Made Them All」。第二次世界大戦が終わり、ヨークシャーへ帰ってきたヘリオット先生を迎えたのは、戦前と変わらない農場と動物たちの営み、そしてヒースが一面に広がる荒野の風景だった。戦争終結後の家族や同僚との幸せなスリルに満ちた毎日と、1960年代に獣医として同行した家畜輸送の二つの旅の様子が語られる。

 この著者の作品を初めて知ったのは、雑誌に連掲載されていたもの。どうやらその連載の元になった本らしく、いくつか覚えのある話が入っていました。何年も探していたので、嬉しかったです。
 また、「ヘリオット先生」本は同じ話が複数の本に収録されることが多いのですが、この本の話はどれも初めて読むものばかり。何となくお得な感じがしました(笑)。

 久々に読むと、頑固でのんびりしたダロウビーの人々の姿にほっとしました。動物の話も良いのですが、この本は周辺の人間の姿が印象的です。風変わりな農場主たち、ヘリオット先生がロシアへの船旅で出会う品格あふれる船長やコック、そして往診についてくるまでに成長した二人の息子と娘との会話が楽しいです。
「もし、私が学校に行ってしまったら、パパは一人で往診に行かなければいけないのよ」と、心の底から心配するロージー。そして、ヘリオット先生に「親になるには鋼の神経が必要」と実感させたやんちゃな息子ジミー。初めてダロウビーにやってきた時の獣医さんの生活とはずいぶん変わったものだな、と笑ってしまいました。

 気に入っているのは、ゴミ箱漁りを愛する犬の話。そして、ヘリオット先生の治療が効かなかった仔犬が、怪しげな民間薬と飼主の介護で回復していったエピソードです。
 ヘリオット先生は「獣医としていかに役に立たなかったか」という苦しさを覚えるのですが、彼を責めなかった飼主夫婦の姿にも穏やかな気持ちにさせられます。結局、犬は無事に回復し、先生は飼主と一緒に乾杯します。生き物の力と飼主との絆に奇跡のようなものを感じる場面でした。

 こんな風に幸せなエピソードが多いですが、やはり社会情勢や戦争の落とした影が感じられるものもあります。
 訳者あとがきにも書かれていますが、冷戦時代に東側ロシア(描かれているのは現在のリトアニア)へ羊を輸送する旅は、今の想像以上に緊張感あるものだったのではないかと思います。
 また、戦後に祖国へ送還されるのを待ちながら、ヨークシャーの農場で働いていた捕虜たちも登場します。治療の上で彼らの手助けを受けたり、挨拶を交わすこともあります。しかし、彼らの中には祖国へ帰った後に捕らえられ、処刑された者もいたということを、後になってヘリオット先生は新聞で読むことになるのです。
(2006.8.8)

ドクター・ヘリオットの 動物物語」 集英社文庫
J・ヘリオット 著  大熊 榮 訳  

   動物物語 ドクター・ヘリオットの (ドクター・ヘリオットシリーズ) (集英社文庫)


原題「James Herriot's Animal Stories」。獣医に休日はない。クリスマスでも、真夜中でも診療を頼む電話はかかってくる。レズリー・ホームズによるモノクロ挿絵、カラー口絵も収録されている。

 お話は他の本でも読んだものばかりでしたが(記憶があいまいですが『クリスマス、クリスマス』は初読のような気がする)、イラストが載っていたので、迷わず買ってしまいました。できれば、ダロウビーの町並みやヨークシャーの風景もカラーで見たかったです。
 イラストつき、ということが嬉しかったのは『みなしご羊ハーバート』のお話。何故かというと、特に気に入った一文がありまして。

不思議なことに羊たちは、年間で十ヶ月にもなる期間、私たちの業務計画に入ってくることがなく、丘にいるただの毛むくじゃらの生きものにすぎない。しかし残り二ヶ月で他のすべてを帳消しにする。五月の終わりまでには問題はほぼ片づき、羊たちは丘にいるただの毛むくじゃらの生きものに戻る。

 ここ、なんだか好きなんです。「丘にいるただの毛むくじゃらの生きもの」がイラストで見られて喜んでおります。
(2007.8.11)

 

「きよしこ」 新潮文庫
重松清 著  

   きよしこ (新潮文庫)


加藤くん――友達の名前は呼べない。「か」で始まるから。吃音のために、いつも言いたいことがうまく言えず、悔しさともどかしさを抱いて成長する少年きよしを主人公にした七つの短編集。

 子供に語っているのを横で聞いているような、飾らない穏やかな言葉で綴られたお話でした。

 吃音でなくても言いたいことをうまく言えない、ということは多い。私は子供時代は、つい「どうせうまく言えないのだから」となげやりになったり「口には出せないのだから忘れよう」などと考えていたので、きよしのもどかしさが胸に痛くて、何度も本を閉じたり開いたりしていました。

 「か」「た」行ではじまる言葉をうまく言えないきよしは、別の言葉で言い替えて作文を書いたり、友達としゃべろうとします。そうして言い替えるたびに、きよしの気持ちとは微妙にずれたものしか伝わらない気がして、切ない気持ちになりました。
 いつも周りの友達とどこかしっくりいかない彼の気持ちを支えていたのが、他の人なら気づくことのないような小さなことだったのが印象的でした。
歌の歌詞を勘違いして生まれた空想の友達「きよしこ」、きよしがどもって歌ったのを聞いてくれたおっちゃん。
「どんぐりのココロいうて、おもろいなあ。どないなこと思うとるんやろなあ」
 そんな言葉が温かです。

 少年時代から大学に入るまでを描いていますが、きよしはいつでも何かを言おう、伝えようとしてします。「どもってもいいから」と、喫茶店で自分でオーダーしようとするきよしの姿がよかったです。たとえ「紅茶」一杯でも、「自分が欲しいのはコーヒーではなくて紅茶なんだ」。
 そう言い続けることが大事なのだ、とあらためて思いました。
(2006.9.16)

「嘘をもうひとつだけ」 講談社文庫
東野圭吾 著  

   嘘をもうひとつだけ (講談社文庫)


隣の家や友人の職場など、身近なところにおきた事件を追う現代ミステリー。短編5つが収録されている

現代ミステリーはほとんど読んだことがなかったのですが、短編だと気軽に読み始められて嬉しい(実は出張してきた上司が「来る間に読み終わったからあげるわ」といってぽろっとくれた本なのでした)。犯人がどのように行動したか、会話の中で段々形になって見えてくるので、短時間に集中して読むのがいいと思いました。
(2003.5.25)

「貝紫幻想」 河出文庫
芝木好子 著  

  貝紫幻想 (河出文庫)


圭子は夭折の画家、川瀬真樹の友人であった画家と知り合う。川瀬は圭子の伯父で、山奥の家にひっそりと暮らす圭子の母、雪子の生活に、今なお影を落とす人物だった。その母娘二人の前に雪子の異母弟、泰男が現れる。染色家で、幻の染料「貝紫」に打ち込む泰男に、圭子は惹かれるようになる。

 主人公は圭子なのだけれど、貝紫に魅せられ許されない恋をするのは圭子と泰男なのだけれど。しかし、既に亡く、文中に姿を現さない夭折の画家の才の輝きこそが、この物語の芯だと思います。
 そのほとばしるような光は今も生き残った登場人物たちの中に様々な形で残っています。土蔵に仕舞われたまま息づく遺作の色あい、友人であった画家を今なお縛る軛(くびき)として、兄の死後は抜け殻のように生きてきた雪子の記憶に、そして泰男の染め出す布の中に。
 「色は命」という言葉が、読みながら頭から離れませんでした。画家の残した油絵は色褪せることなく世に残り、いつか生気が尽きるまで人々を支配し続ける。それを思うと泰男の染める布の紫はうつろいやすく儚げとすら感じられます。
どちらの色が、芸術家にとって夢であるのかはわかりません。また雪子と圭子、どちらの愛が幸福であったのかもわかりません。
 それでも画家と雪子の暗い情念の前では、圭子と泰男の許されない関係すら穏やかで明るいものに見える。それがラストシーンの救いになっています。
(2005.4.20)

「インディオの道」 晶文社
A・ユパンキ 著 
 浜田滋郎 訳

   インディオの道


アルゼンチンのギタリストであり、詩人でもある著者が描くアンデスの山の民の愛情と生活。
ある夜のこと、コージャ族の若者イスマーコの前にセンダという女が現れた。笛の呼ぶ声に惹かれて来たという女とイスマーコは恋をする。しかし、ひとつ土地にしがみついて生きてきたイスマーコの母は、鉱山を渡り歩いてきたという、道(センダ)という名の女を受け入れることができない。『道から来るのは良くないものだ』……。

 センダもイスマーコも実在の人物で、後書きによれば、著者は彼らそれぞれから話を聞いて「その場で書くわけにはいかないから、宿へ帰って夜通し書き記した」そうです。
 特に気に入っているのは風景の描写。著者作詞の歌と同じで、何ともいえず美しいのです。小説というより、いくつもの詩や歌があらわす風景を見ているような本です。
 これらの風景は、少し距離を置いたような静かな目線で描かれています。イスマーコたちの物語や詩をつくるのが好きなサンティアゴ少年、草原……。また、文中ではよく「石っころ」に譬えられてコージャ族の人々が描かれています。「石っころみたいに生きてる貧乏者」「黙っていることを知っている石像のような姿」の彼らがどこから来てどこへ行くのか、見守ろうとするかのような心遣いが強く感じられて、好きな作品です。

 巻末の訳注では日本人に馴染みのない習慣や事柄が簡単に説明され、読み進むのに困らないようになってます。ですが、言葉遣いが時々気になりました(以前に読んだ時には気づかなかったのですが)。コージャ族の説明の「高い知能を必要とする職につく者を出すこともある」などと、まるで意外とでもいうようなニュアンスを感じるのは私だけでしょうか。ラテン音楽や文学の研究で知られる浜田さんとも思えない……ここはちょっと不満です。
 この本の原題は「Cerro Bayo(イスマーコの住む地の名)」ですが、訳者によって邦題がつけられています。この変更は著者も了承しておられて、邦訳に寄せられたメッセージでも「物語の内容をたやすく悟らせるためにふさわしい表題をつけた」と語っています。
 インディオという言葉は蔑称なので、彼らは自分たちを「○○族だ」と名乗る方を好む、とこれまで聞いてきました。それにしては、フォルクローレの曲名にはよく使われている言葉なのですよね(もっとも、作中にも批判を込めて出てきますが、演奏者がみんなその血を引いているとは限らないです)。

 侮蔑を込めて使われてきた言葉だという事実は歴然としていますが、そこにある感情は私が想像するより複雑なのだろうと感じました。
(2006.3.16)

「レッド・バイオリン」 徳間文庫
D・マッケラー&F・ジラール原案 
人見葉子著  

  レッド・バイオリン (徳間文庫)


同名の映画のノべライゼーション。17世紀イタリアで作られたひとつのバイオリン。製作者が息子のためにつくった楽器は、その子供の手に握られることなく姿を消した。その伝説のレッド・バイオリンは18世紀にオーストリア、19世紀のイングランド、20世紀の上海と時と場所を変えて歴史の中に現れる。

 時間の流れや、バイオリンの色、音の表現はさすがに映画にはかなわない、と思いました。しかしイングランドの青年音楽家のエピソードに関しては、手紙という形式をとったことが効を奏して、映像より文章の方が美しいと思いました。
 また現代の鑑定シーンでは、測定器の上の楽器に痛々しさを感じた鑑定士の言葉が文章になると、楽器に命があってその運命を選んで辿ってきたのではないかと印象が強くなって眩暈を感じます。映像の意味をさらに掘り下げようとする文章がいいと思いました。
(2003.12.28)

 

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