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1 |
「国王陛下、万歳!」 「新王の御世に幸あれ!」 城下の町は、歓声と熱気にあふれていた。 その只中へ馬を進めながら、私の目は懐かしい町角を探す。かつて私はこの町にいた。 母が亡くなり、顔も知らなかった父に呼ばれるまで、ここが私の故郷だったのだ。こうして冠を戴き、貂の縁取りのマントで帰ってくるなどと誰が考えただろう? 沿道の手を振る人波、その笑顔。彼らは新王の即位を待ち望んでいた。 先の王が亡くなられてから二年。誰が王冠を戴くべきか、そして、それを支えるのはどの大臣であるべきなのか。いわば、民とは関係のないところで、国は揺れていたのだ。 その時、人垣の中から幼い少女が進み出て、私を見上げた。 「こくおうへいか、おめでとうございます」 小さな手が差し出すものに、私の目は吸い寄せられた。あでやかな、紅こぼれる花冠。それに、私は見覚えがあった。 身じろぎもしない私を、少女は不安げに見上げる。その目に気づいて私は馬を降りた。 「小さな私の民よ」 そして、幼い手の下に膝まづく。 「そなたの授けるもうひとつの王冠を、謹んでお受けしよう」 そう口にしたとたん、周囲からひときわ大きな歓声が上がった。 「我らが国王陛下だ!」 「万歳!」 降りしきる花と歓声の中。私は再び馬を進める。 だが、その時、私の心を占めていたのは、祝いの声でも歌でもなかった。 何故? その言葉だけが、繰り返し胸に浮かぶ。あの日。何故、私は拒んだのだろう。憧れを湛えたまなざしを。差し出された、あの心を……。 |
2 |
父上が御呼びだから。 そう言われて城へ上がったのは、私が五つの歳のことだった。 母が亡くなり、町に一人になった私のところへ、立派な身なりの男たちが現れてそう言ったのだ。 呼んでいるのが王その人であると聞いて、私は驚いた。父は遠い所にいるのだ、と母に聞かされて育ったから、それがいつも見上げる城壁の中のことだとは思いもしなかったのだ。 だが、母の言葉は正しかったのかもしれない。狭い町角、脂の匂いのしみついた裏通りから来た私にとって、そこは別世界のようにも思えたのだから。 「あれは何?」 初めて目にする城壁の内側。庭園に並ぶ丈高い石像、どこまでも続く回廊。私はそれを見回したり、指差したりしながら、先を歩く侍従の背に尋ねた。 「先代の国王陛下の像です」 「その隣は?」 「先々代のお方です」 「じゃあ、今の王様は?」 侍従はそれには答えず、立ち止まって頭を垂れた。 「国王陛下」 見れば、そこに立つ姿があった。 長いマントに飾り石。堂々とした姿のその人を、私はぼんやり見上げた。 「そなたがエリドか」 その声に、懐かしさを覚えたのは気のせいだろうか。 口もきけず、立ちすくんだ私を見て王は小さく笑った。そして、侍従に何事かを言いつけて立ち去った。 その日から、私は見知らぬものばかりの世界に暮らすことになったのだ。 城壁の中の新しい生活。 それまで慣れ親しんだ町との違いに、私はとまどうばかりだった。塵ひとつない長い回廊。どこからかいつも漂う甘い香り。 また、食事のたびに卓からあふれるほどの皿が運ばれてきた。隣の皿からどうやって掠めてやろうと考えていた私は、それもそもそも自分の分なのだと聞かされ、驚いた。 唐突に与えられた庇護に、私はまず途惑った。そして、次には何をひきかえに寄越せと言われるかと怯えもした。 何故なら、この身とみすぼらしい服の他には何も持っていなかったからだ。 「陛下はお優しい方だ」 何故と尋ねた私に老侍従は話してくれた。私を身ごもり何も言わずに去った母を、父は忘れずにいてくれたのだという。 しかし、父は一国の王でもあった。住む所は与えよう。食べ物も与えよう。 「だが、お声を望んではいけない」 城へ上がった最初の日、侍従は私にはっきり告げた。王と親しく言葉を交わすことはならない、と。 「陛下には既に王子が居られる。双子のお子で、いずれかが次の国王になられるからだ」 もし決まるものなら、と呟いて、侍従は苦い顔をした。 「そなたは妾の子だ。正妃の王子たちと並び立ってはいけない。宮廷の諍いの種となることを、陛下は望んではおられない」 「じゃあ、どうして?」 しかし、私は納得がゆかずにつめ寄った。 「何のために、ここに呼ばれたの? どうして食べる物をくれて、革の服を着せて、剣を覚えろなんて言うのさ」 老侍従は、ふと困ったような顔をして、 「王のお役に立つために」 答えはただそれだけだった。 だから、ずいぶん後になるまで、私は父王と言葉を交わしたことはなかった。 長い回廊での出会い。あのひとことだけを胸に抱いて、私はそれからの日々を過ごすことになった。 |
3 |
王の、双子の王子とともに、私は馬に乗り剣を振るうことを学んだ。 彼らは仲睦まじいとはいえなかった。美しい馬や剣。彼らはいつも何かを取り合い、自分こそが持ち主にふさわしいと言い合っていた。老侍従のため息の理由はそこにあったのだ。 だが、そんな彼らも諍いを止める時があった。私に命じる時だけは、二人は並んで嗤っていた。 「エリド。お前は僕達のために働くんだ」 ある日、彼らはそう言った。 「お前の鎧着は誰のためのものだ? お前の馬は?」 「僕の馬は、僕のものだ!」 与えられたばかりの美しい栗毛の馬。それを奪われまいと、私は思わず引き綱を握りしめた。 だが、兄王子は勝ち誇ったように言い切る。 「いいや、違う。お前の物なんてない。何ひとつない。お前の馬は僕のものだ。お前の鎧着は僕の盾だ」 そうして、胸をそらして見せた。 「何故って僕は次の国王だから。お前の命は……」 それを最後まで聞いていられず、私は相手に殴りかかっていった。 だが、年かさの少年二人にかなうはずもない。殴りかかったはずが小突き返されて、私は地面に転がった。 土にまみれた私を見下ろし、彼は言った。 「お前の命は、僕のためにあるんだ」 そして、彼らは何か面白いことでも思いついたのか、笑い転げながら城の奥へと姿を消した。 それを、私は立ち尽くして見送っていた。 二人が上っていったのは、決して入ってはいけないと念押しされた王の私室への階段。 その奥から聞こえくる笑い声に背を向けて、私は木立の中へ走り込んだ。 深い影を宿す木々の間を抜けながら、どこへというあてもないまま、私は走るしかなかった。 そのためだろうか? 走り疲れて、一人になって。そう考えて、私は目をぬぐった。 あの笑い声を守るために、父は自分をここへ呼んだのか? その時初めて、喉の奥から嗚咽がもれた。 人に聞かせるまいと、こぶしを噛んだ。だが、思いついてしまった言葉はのどを刺す。 飲まなければならないのか、吐いてしまうべきなのか。何が何だか訳がわからなくなった時。 「どうしたの?」 知らない声がした。 涙に汚れた顔をあげた私は、目の前の姿に息をのんだ。見知らぬ幼い少女がこちらを覗きこんでいた。 「お腹が痛いの?」 首を傾げると、少女の銀の髪が揺れる。 「あなた、お名前は何というの? どうして泣いているの?」 その緑の瞳を見たとたん、私の目はまた別の涙にかすんだ。それはあの日、回廊で見上げたきりの父のまなざしとよく似ていたからだ。 普段なら、泣き顔を見知らぬ人間に見せるなど、弱みを握られるようで居心地が悪かったろう。 だが、その時の私は涙をぬぐうので精一杯だった。優しい声が心地よくて、何よりもう一度、名を呼んで欲しかったのだ。 「こちらへ来て。いいものを見せてあげるわ」 そう言って少女は私の手をとり、庭の奥へと連れて行く。 濃い木陰を踏み、蔓の揺れる花棚をくぐり、そして不意に開けた景色に私は息をのんだ。 光あふれる緑の庭。その陽だまりの真ん中で、少女は両手をいっぱいに広げてみせた。 「エリド。ここがわたくしのお庭よ」 その日から、私たちは一緒に遊び回るようになった。少女の名はセアラ。王の末娘だった。 |
4 |
夢のように美しいその庭で、セアラは私にいろいろなことをねだった。 梢の先の花房を、夜啼鳥の住む枝を欲しい。 時にわがままな願いもあったが、どれも甘くて罪のないもの。それをかなえてやるのは、私にも楽しいことだった。 私が花枝を差し出す。するとセアラの顔は輝いて、それを見ると胸が温かくなった。そして不思議なことに、そんな私を見てセアラも笑顔を返したのだ。 晴れた日には日なたに座り、セアラはよく歌が聴きたいと甘えた。 町で育った私が知るのは、せいぜい滑稽な節の曲ばかり。どう見ても、この庭には似合わない。 だが、それを拙い草笛で奏でると、セアラはひどく喜んだ。鳥も詩人も知らない曲だと喜んだ。 また、月の宵には城の外の話をしてくれとせがんだ。 町の食べ物や暮らしのさまは、王女には珍しかったのだろう。私は注意深く言葉を選び、今では思い出すことも稀になった町の楽しく、きれいなものばかりを数え上げた。 海まで続く石畳の道、市場で買う甘いパン。町にあふれる、ともしびと歌……。 私はセアラを好きだった。 愛らしく生まれ、慈しまれて育ち、汚れも傷もつけまいと周りが守る。そうして、いっそう柔らかい笑顔を花開かせるのだ。 どうして、こんな子供がいるのだろう。私には不思議でならなかった。 春から夏のこと、庭中に花が咲き誇っていた。 その名前などは知らなかったが、セアラが私に与えてくれた何かのように、明るくきれいなものがあふれていた。そして、その中心にセアラはいた。 ちょうど、城へ上がったあの日。初めて目にする世界に父が立っていたように、セアラもまた、私の胸の奥庭に住むようになった。 |
5 |
兄王子たちと並び立ってはならない。その言葉の意味は、城に暮らすうちに次第にわかるようになってきた。 王子の住む奥棟に、私は入ることを許されなかった。良い弓は彼らの手に握られ、駿馬は彼らの厩へ引いて行かれた。 父王はそうしなければならなかったのだ。 王の跡を継ぐのは双子のどちらであるのか。それを見守る大臣たちの意見も二つに分かれていた。そこに私が妾腹とはいえ、王の男子を名乗ることはできなかった。 その事情は王子たちも知っていたのかもしれない。 貴族の子供らが馬場に集う時は、彼らの先導を務めるように私に命じた。 他の子供ならば誇らしく務める役目を命ずることで、王子らしい温情をかけたつもりだったのだろう。 だが、気まぐれに見せられる憐れみのような親切心は、私にとっては悔しいばかりだった。 時に心無い、時に悪気はない兄王子たちの言葉を聞くたびに、私はセアラの庭を訪れるようになった。 セアラは自分の庭のことをよく知っていた。 次に咲くのはどの花か、水を欲しがる葉はないか。そうして時おり、顔を上げては離れて立つ私を手招きした。 「エリド、こちらへ来て。見たこともないお花が咲いているわ」 奥庭の、豊かな緑のさらに奥。そこに赤い花を見つけたことがあった。濃く、淡く移りかわるその色を、私はいつまでも覚えていた。 「このお花のことはきっと誰も知らないわ。ねえ、わたくしたちだけの名前をつけましょう」 朝やけのような色、とセアラは夢中になって言った。その真剣な横顔を私は黙って見守っていた。 園丁が手をかけているこの庭に、彼が知らない花が芽を出すとは思えない。 だが、セアラにそう言うつもりはなかった。また、兄王子たちの口にする私へのどんな言葉も、彼女に聞かせることはしなかった。 それが私の幼いなりの誇りだった。 飲み込んだ言葉、答えのない疑問。 それを忘れようと、私は朝から夜まで剣のけいこをするようになった。兄王子たちのように武芸に秀でれば、父は私を誇らしく思ってくれるかもしれない。そう考えもしたからだ。 やがて私は十になり、背が伸び腕も強くなった。師たちも私が腕をあげ、兄王子たちと一緒に学べると認めてくれた。 慌しくも穏やかな日々。だが、その中で、忘れようとした胸のつかえは大きくなっていった。 |
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