2 Novel 4

 
  8

 城壁に守られた、緑の庭園。
 それが、幼いわたくしの世界全てでした。父王と母宮、双子の兄。そして侍女と園丁と庭の鳥。それが世界の住人でした。
 そこは色鮮やかで、光あふれる幸せな場所。そう話すと、父は目を細めて、
「セアラよ」
 そう呼びかけてくれました。
「小さきセアラよ、それでいい。美しく温かいもので、そなたの世界は満ちあふれるだろう」
 あの穏やかな声を、微笑み見つめる母の姿を今でも思い出す。
 首を傾げ、覗き込むその仕草を、わたくしはこの上もなく愛していました。
「父上、お願いがございます」
 優しい父に甘えたくて、そうすると父はもっと優しくなると知っていたので、
「わたくしにお庭を下さいませ」
 そう、せがみました。城壁に守られた奥庭の、更に深まった小さな一角を自分だけの庭にしたいと願ったのです。
 父は微笑み、わたくしを抱きしめました。
 それが答えと知っていましたから、わたくしも父を抱き返したものです。
「セアラよ、花を咲かせなさい」
 耳元で、父は言いました。
「世界で一番美しい庭で、何より香り高い花を咲かせなさい。それが、そなたにふさわしい」
 それを聞くと、母宮は笑いました。
「何とまあ、甘くていらっしゃる」
 それでも父はわたくしを膝に乗せて言いました。
「くもりなき目が映すのは、美しいものがふさわしい。晴れ渡った空やこぼれる花、揺れる梢が似つかわしい」
 こうして父は庭と、そこを守る園丁をわたくしに与えて下さったのです。

 セアラ、美しい庭をつくりなさい。
 あの父の言葉のために、幼いわたくしは頭を悩ませました。立ち働く園丁の後ろをついてまわり、いくつも花の苗を選んだものでした。
 あの角にはお陽さまの色の花を。噴水の横には雪のような花枝を植えて下さい。それから鳥は? ここにはどんな鳥がふさわしいでしょう。
「セアラ様」
 考え込むわたくしを見て、園丁はよく笑いました。
「むずかしい顔をなさってはいけません。この庭の花一輪がしおれたようなものです」
 そうして、あでやかな色の異国の鳥たちを示してくれました。
「さあセアラ様、お選び下さい。どの鳥がよろしいですか。どれをこの庭へ放しましょう」
 その羽の美しいこと。わたくしはすっかり嬉しくなって、その中の一羽を選ぶ。籠から放たれた鳥は梢にとまり、涼やかな声でさえずりました。
 父の言葉どおり、途切れることなく花を咲かせて美しい庭をつくる。それがわたくしの務めでした。

  

  9

 ですから、ある日。木陰にうずくまる姿を見た時には、とても驚きました。
 草のついた上着とくしゃくしゃの髪の毛。汚れた顔の子供など、わたくしのまわりには居りませんでしたから。
 そして何より、この庭で涙を流しているものなど見たことがなかったのです。
「どうしたの?」
 おそるおそる近づいて、そっと尋ねてみました。
「あなた、お名前は何というの?」
 影のような姿はわたくしを見上げ、怒ったように顔をそむけました。それでも彼は、エリドと小さく呟きました。
 枝の小鳥に手をのべるように、父や母がそうしてくれたように、わたくしはその子の手をとりました。
「エリドというの。よろしくね」
 名前を呼ぶと、その顔は明るく輝きました。

「わたくしのお庭に知らない子供がいました」
 この出来事に驚いて、わたくしは母宮のところへ駆けていきました。
「名前はエリドというのですって」
 それを聞くと、母は刺繍をする手を止めました。
「どんなお子でしたか?」
「……泣いていました。家へ帰る道に迷ってしまったのかしら」
 その前の冬、群れからはぐれた渡り鳥が城へ迷い込んだことを思い出したのです。
 母は刺しかけの上布を傍らに置き、わたくしを抱き寄せました。
「セアラ。エリドはここに住むのですよ。父上がそうお決めになりました。優しくして、いたわってあげなさい」
「いたわってって、何ですか?」
 母はわたくしの髪を撫ぜ、言いました。
「お花がしおれていたら、あなたはどうなさいますか?」
「……お水をあげて、と園丁にお願いします」
「それと同じことですよ。エリドが悲しい顔をしていたらお話をして、きれいなものを見せてあげなさい。そうすることがあなたの、王女の務めですよ」
 そこで母はわたくしの顔を覗き込み、
「しおれた花が、もう一度咲いたらどうでしょう?」
「とても嬉しいわ」
「それも同じことですよ。誰かが笑うと、あなたも嬉しいでしょう。そうして、あなたが微笑むと、まわりの人も喜ぶのですよ」
 きっとお父さまも喜んで下さるでしょう、と母は優しい瞳で言いました。わたくしも出会った時の彼を思い出し、大きく頷いたのでした。
 この庭で、わたくしとエリドは一緒に遊ぶようになりました。
 花を、珍しい鳥を見てエリドが笑う。すると、わたくしも嬉しくなりました。そして、わたくしが笑うと彼の目はいっそう和らいだのです。
 それは、陽の光を見るような温かな気持ちでした。庭の花、大好きな小鳥を見る時と同じ思いでした。

 

  10

 城壁の外から来たエリドは、いろいろなことをわたくしに教えてくれました。
 雲の作るさまざまな形、その名前。それを見て、夕方のお天気を教えてくれました。
 また、庭に茂る葉を摘んで、草笛を聞かせてくれたこともありました。その音の何と面白いこと。
 風のような笛の音に、わたくしは夢中になりました。父の宴の詩人たちも、こんな曲を奏することはありません。
 何でも知っているエリド。彼はわたくしの憧れだったのです。

 エリドが賢い子供だということは、誰の目にもわかるのでしょう。
 ある宵、父を探していた時のことです。王の間からは父の問いと、それに答える侍従の声が聞こえておりました。
「あの子供はどうしている?」
「エリドですか? 毎日馬に乗ったり、落ちたりしておるようですな」
 大好きなエリドの話を聞きたくて、わたくしは柱の影に足を止めたのです。ですが、言い継ぐ侍従の声は明るくはありませんでした。
「なかなかに聡い子供です。身をわきまえるように言いましたが、果たしてそれで済むものでございましょうか」
「聡いのならば良いことではないか」
 父は笑って、けれどどこか寂しげな声でした。
「賢く、よく剣を振るい、馬に乗ればよい。国の役にも立とうし、いずれ良い家柄を婿として継いでくれ、と言われる日も来るだろう」
 難しい話はわたくしにはわかりません。ですが、エリドがどこかへ行ってしまうのだろうか、と心配になったのです。
 わたくしは、なお一層たくさんのことを彼にせがむようになりました。
 城壁に守られた小さな庭。その泉のほとりで、たくさんの願い事をしたのです。
 梢の先の花房を、夜啼鳥の住む枝を欲しい。また、城壁の外の話を聞かせてもらったこともありました。
 海へと続く白い石畳、市場で買う甘いパン。夜ともなれば、町にはともしびと歌があふれ、星が消えるまで続く……。
「なんて、素敵なのでしょう」
 ほっとため息をついて、わたくしは隣に座るエリドを見上げたものでした。彼の話はまるで古い唄か、物語のよう。
「わたくしも見てみたいわ。ねえ、エリド。町へ、市場へ連れて行ってくれる?」
 エリドは困った顔をしました。ですが、わたくしはきっと聞いてくれると信じて疑いませんでした。彼はいつでもわたくしの願いをかなえてくれたのですから。

 この庭に、もっとたくさんの花を咲かせましょう。そうすればエリドは喜んで、いつまでも一緒にいてくれるでしょう。
 そう考えたわたくしの庭は、城の皆の目を楽しませるようになりました。
 侍女も侍従も、ここを通るたびに顔をなごませました。父も毎日のように訪れては、新しい花の名をわたくしに尋ねました。
 父と同じように、エリドもきっと喜んでくれることでしょう。
 そう考えて、そして詩歌のような花の名を口にしては、わたくしは幸せで胸がいっぱいになりました。

 

  11

 過ぎる春、そして夏。
 咲きこぼれる花が、その香りがわたくしの庭にあふれました。木々は秋には豊かな実をつけて、その後、眠りにつきました。
 そのまどろみは長くはなく、春には再び新しい芽が生まれます。幾たびも繰り返す季節の中で、庭はいっそう鮮やかに彩られました。
 ですが、いつの頃からでしょうか。その風景の中にエリドの姿を見ない日が続くようになったのです。
 思いつくかぎり美しいものを集めたのに、何故、エリドは来てくれないのでしょう。
 尋ねても首を振り、エリドは顔をそむけました。
 枝から葉の落ちるような、突然陽が翳るような、そんな切ない表情はわたくしの知らないものでした。
 何故でしょうかと母に聞いても、ただ静かに目を伏せて、いたしかたないこととしか答えてはくれません。
 おつとめに忙しい父や兄に尋ねることもできず、わたくしは庭のあずまやに一人座って考えました。
「何故、エリドは遊びに来てはくれないのでしょう」
 すると園丁は言いました。
「男の子はそんなものです。馬や弓が好きなのですよ」
「では、エリドはわたくしのことを忘れたのでしょうか」
 泣きそうになったわたくしを見て、園丁は花を切ってくれました。
「案ずることはございません。男の子もきれいな花のことは決して忘れるものではありませんよ」
 そして、泣いて難しい顔をしてはいけない、と昔のように言いました。
「あなた様はこの国の花なのですよ。お優しく、可愛らしいセアラ様が喜ぶ顔を、皆が望んでいるのです。エリドもそう思っておりましょう」
 花を絶やさず咲かせましょう、と園丁は言いました。
 わたくしは勧められるままに花を選び、庭に植えさせました。
 遠い異国から来た木は見たこともない実をつけました。そこに遊ぶ鳥が欲しいと言うとそのとおりになりました。
 こうして、エリドのためにと考えたすべてが庭を飾りました。そうできることが嬉しく、それはわたくしの誇りでもありました。
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