12.
セディムはそれから何日もの間考え続けていた。
メルを誘いに行こう。一緒に遊ぼうと、そして秋の祭りには一緒に踊ってくれるかと聞いてみよう。こんなに物事を迷ったことはなかった。
だが、ようやく決心がついた朝も、一日はそううまくは始まらなかった。城臣がノアムに大きな書物を持たせて使いに寄越したのだ。
他の子供達は自分の勉強がすめば遊びに行ってもよい。だがセディムだけはこれも読んで覚えなければならないという。いずれ長となるのだからそのための準備、というのだ。
伝言を聞いたセディムは萎れた葉のような、いかにもぱっとしない様子だった。
分厚い書物は開くより踏み台にした方がよさそうな代物だし、何より朝一番、誰もまだやってこないうちにメルと話したかったのだ。
伝えたノアムも幼馴染の不運を思って、言葉もなかった。
しかし、メルが踊りが好きかどうか、アルドムに確かめておいてやると請合ってくれた。セディムは書物の重みに肩を落としながら、親友の好意にすがることにした。
大昔、とセディムには思えたのだが、レンディア建国の長たちが残した言葉をおさめた書物。
それを目の前に開きながら、セディムの頭は今の世界のことでいっぱいだった。
塔にあるセディムの小さな部屋からは村の畑が見下ろせた。夏らしい緑がそよぐ一角ではユルクとアルドムが何やら相談しているのが見える。
畑の向こうの岩地にまばらに散らばる点はイバ牛と子供たちだろう。すると、ぽつりと離れた点はメルの姿に違いなかった。
「メルはどうして笑わないんだろう」
セディムは窓辺に腕を乗せて頭をもたせかけた。
笑うときっと、とても可愛いだろうに。
そして、初めて会った日のメルの柔らかい表情を思い出した。小王国の岩陰の白い花。メルはあの花と何となく似ている。
「秋の祭りでは一緒に踊ってくれるといいな」
その時にはきれいな赤い飾り石を贈ろう。大きくなくてもいいから、平原に行く大人に頼んで手に入れてもらって……。
そこまで考えて、セディムははっと顔をあげた。だめだ。どうしよう。
「代わりにするものがない」
そう呟くと呆然とした。
平原で買い物をするなら金がいる。それは何かを手放さないと手に入らない、ということは知っていた。セディムは泣きそうな気持ちになった。自分には何もなかったからだ。
壁にかかった帽子も小さな弓矢も、何もかもがもらったものばかりだ。父や城臣たちが苦心して手に入れたり作ってくれたものを、どうして手放すことなどできようか。
「どうして今年なんだろう」
悔しさにセディムの胸は痛んだ。
――もしもメルと会ったのが来年だったなら。
来年ならもう大人になって狩に出ていただろう。そうすればウサギの一羽や二羽は仕留められたはず。
獲物の肉は村全体のものだが、少しの毛皮ならセディムのものになるはずだった。
自分が贈った飾り石を身につけてメルが笑ってくれたら、どんなに素敵だろうか。しかしそれも大人にならなければ叶わない。
セディムはふいに腹が立って、乱暴に書物を閉じた。
「こんなの読んだって、大きくなれない」
メルは何が好きで、どんなことを楽しいと思うのだろう。とうの昔に死んでしまった人の言葉より、メルのことを知りたかった。その方が大昔の根菜の出来不出来より、余程大事ではないか。
城臣の言いなりになんて、なっていられない。
セディムは頭をまっすぐに上げ立ち上がった。誰に見つかってもかまわない。
そう考えて階段を一気に駆け下りた。
13.
幸い誰にも見咎められることなく、セディムは外へと滑り出た。
麦の穂ざわめく畑を通りすぎ、村はずれの岩地へと急ぐ。やがて大きなガレ石が続く斜面にセディムは辿りついた。
長年かけて高い峰から崩れてきた岩が、今はレンディアの村はずれに積み重なる。いつか悪天候か、ハールの気まぐれでさらに崩れ落ちていくのかもしれない。
その中の、ひときわ大きな岩の上には子供たちの姿が見えた。
上機嫌らしく、力いっぱいわめき声を上げる子供たちの只中で、ノアムが一人奮闘している。
落ちないように気をつけろ、という言葉が風に乗って空しく聞こえてくる。
そして、その岩の下ではメルが皆を見上げて立ち尽くしていた。
「つまらないもの読まないで、早くくればよかった」
セディムは腹立たしげに呟いた。
多分きっかけは、何にでも登りたがるあの双子に違いない。二人が岩を登れば、ノアムはきっと止めようと後を追う。
そして、その様子を見ていたライナは、大人しく下で待つ、などということは考えなかったのだ。
結局、気がつけばメル以外の全員が岩に登ってしまった、というわけだろう。
やんちゃ揃いの子供達をノアム一人で仕切れ、というのはどだい無茶な話だ。
「メル、無理するなよ。登れないって」
セディムはメルに声をかけながら続く岩を乗り越えていった。
よりによって他よりも険しい岩場だ。双子やお転婆のライナでなければ、到底登りきれるとは思えない。
セディムがそう考えた時だった。双子たちが岩の下を見ながら歓声をあげた。
「メル、がんばれ」
「もうちょっと右がいいよ」
セディムもノアムもぎょっとして立ちすくんだ。
見ればメルが手がかり足がかりを探りながら岩を登りはじめたところだった。
「危ないって、やめなって」
セディムは叫んだが、当人は聞こえた風もない。
書物が好きだと聞き及んでいた少女は岩登りなど不慣れな様子だった。リスのように身軽なライナとは比べ物にならないぎこちなさだ。
おっかなびっくり、用心深く、しかしメルの足場選びが間違っていないことはすぐに見てとれた。
身軽に登れなければそれでもいい。足を乗せる岩さえ間違えなければ必ず上まで辿りつける。それでいい、というのが岩登りの基本なのだ。
メルはその点をはずしてはいなかった。
幼い子供たちのはしゃぐ声に迎えられるように、やがてメルの手が岩の上に届いた。
「すごいよ、メル」
「こんな急なところ、僕たちだって大変なのに」
メルはもうひとつ上の岩を見上げて一瞬悲しそうな表情をした。しかし、賞賛の言葉が続く中で、少女は頬を紅潮させた。
相変わらず恥ずかしそうに目を伏せたが、それでも大変な冒険をやり遂げたことに満足したようだ。
ライナは厳かな面持ちで一歩前に進み出た。
「ゆうしゃのせいかんをいわって」
ライナは草を編んで作った首飾りをメルに差し出した。
祝い事に女には首飾り、男には冠を。
これは小王国の昔話に出てくる習慣だ。エフタ生まれのメルもよく知っている。メルは頭を下げてライナからの贈り物を受けとった。
夏草の芳しい首飾りが少女の胸元を飾ると、幼い子供達はあらためて歓声をあげた。
セディムとノアムは、といえば、心配と続く安堵のあまり力がぬけたらしい。手近の岩の上に座り込んだまま立てなくなっていたのだった。
14.
「よかったじゃないか、セディム」
ノアムは黙々と歩き続けるセディムを追いかけた。
幼い子供たちが遊び疲れて草地でごろごろし始めた頃。セディムは散らばった牛を集めようと歩き回っていた。
「メルももう俺達の仲間だよ」
「うん」
「何でそんなに黙ってるんだ?」
「うん」
セディムは考え事に沈み込み、生返事しか返さなかった。
「そうだ、セディム。アルドム爺さんに聞いてやったぞ。メルは踊るのはあんまり好きじゃないってさ。良かったな、誘わなくて」
セディムはぴたりと足をとめ、幼馴染の顔を見つめ返した。
「ありがとう、ノアム。聞いてくれて」
そのまっすぐな物言いにノアムは驚いた。
「いいさ、別に大したことじゃない。それよりどうするんだ? メルのこと」
セディムは大人びた目をして微笑んだ。
「大丈夫。メルが何が欲しいか、わかったんだ」
「本当に? すごいじゃない」
それは、と問いかけたノアムはセディムの答えに仰天した。