15.
その朝、ノアムは城の戸口の石段に腰かけて、祖父が現れるのを待っていた。
段々畑には、すでに忙しく立ち働く村人の姿がある。靄の名残が斜面を這うように降りていき、やがて陽の光にとけて見えなくなった。
ユルクは毎朝食事をすませた後、畑を見てから城へやってくる。するとちょうどセディムが勉強を始めるべき時間に、塔の階段を上がって行くことになるのだ。
それを今日は城に入る前に、ノアムがうまく呼び止めることになっていた。
今朝はセディムが長である父に呼び出されて叱られているらしい。昨日書物を途中で放りだして遁走したのが見つかったからだ。
長に連れられていくセディムを見たヤペルが、通りかかったノアムに祖父への伝言を頼んだ。今朝の勉強はなし、ということになったらしい、と――。
そういう算段になっていた。
ノアムは深呼吸して、もう一度その筋書きを頭の中で繰り返した。
「それはまずいよ」
その前の日のこと。
セディムとノアムは夕暮れの色に染まる回廊の柱にもたれて座っていた。
普段は何かと気の合う二人だが、ノアムは珍しく首を横に振った。
「やっぱりだめだ、セディム。岩雪草を取ってくるって、あれだろう」
そう言ってノアムは崖っぷちに揺れる白い野花を指差した。
城の塔の回廊からは手を伸ばせば触れられそうなほど近くに見える。しかし実際に摘んで来ようとすれば、急な崖を下から登ってこなければならない。
それでもセディムは諦める様子はなかった。
「メルが欲しいのはあの花なんだよ」
メルが初めて自分から動いた。子供達の仲間に入って岩を登った。
それは岩の上に咲いていた白い花に惹かれたからだ。そのことに気づいたのは、下から見上げていたセディムだけだった。
「もっと高く登らなきゃ取れないとわかったから、メルはがっかりした顔をしたんだ」
「だめだ。危なすぎるぞ」
ノアムは珍しく年上らしい、厳しい声をした。
「シスカの額の傷だって、昔あそこから落ちてついたんだ。傷ですむならいいけど……」
ノアムは唾を飲み込んだ。それですまなかった場合の、その後の騒動のことは考たくなかった。
「俺が代わりに行く」
「それじゃだめなんだよ」
セディムは頑固に首を振った。
「僕が行かなきゃメルにはあげられない」
「セディム!」
セディムは唇を固く結んで、幼馴染を見返した。
「ノアム、お願いだよ」
後にはひかない。何がどうあっても。
セディムのそんな様子にノアムは何も言えなくなってしまった。
花の咲く崖は城の塔のそばにある。
回廊からもセディムの部屋からも、そして城臣が集まる部屋からもよく見える。
だから、ノアムは何としても祖父をつかまえなければならなかった。書物でも取りに塔の部屋に入れば最後、崖を登るセディムの姿が目に入ってしまう。
ノアムは冷や汗を拭った。
そしてヒラ麦の実り具合を見ながら、ゆるゆると坂道を上がってくる祖父の姿を見つめた。
16.
あのでっぱりと、あの尖ったところ。それから斜めに登って手を休めよう。
城の塔の陰で、セディムは急峻な岩場を見上げて手がかりを探していた。
目をつけた岩が自分の重みに耐えてくれるかどうか。ごく単純な問題だが、失敗を重ねないことには身につかない判断だ。
そして、レンディアの子供達は、それぞれがその年なりの経験を積んでいた
危険な賭けをするつもりはなかった。
セディムはじっくりと岩を見上げて、そこを登る自分の姿を思い描いた。落ちて無様な姿をメルの前に晒す気はなかった。
「あそこが駄目なら右にいく。そこから手を伸ばす」
その時、セディムは傍らの潅木の枝が揺れるのを感じた。
見れば灰色の羽を休めて、山鳥が枝に止まっている。多分この春孵ったばかりの若鳥だろう。好奇心に立ち去り難くなったのか、枝を揺らしながらセディムの方に何度も首をかしげている。
羽があればあんなところ、ひと飛びなのに。
一瞬そう考えて、セディムは首を振った。自分にはこの手足しか無いのだ。
もう一度見上げると張り出した高い岩の上に、ほの白く揺れるものがあった。ここからではまだ花かどうかもわからない。
しかし昨日のうちに塔から目星をつけた岩を見間違えることはない。
もっと近寄ればいくつの花が咲いているかわかるだろう。そしてもっと登っていけば、花弁の形もはっきり見える。
そうしたら、一番きれいなのを折り取ろう。
セディムは手近の岩に足を掛け、ゆっくりと登り始めた。
17.
「とうとう長殿の小言が出たか」
ユルクは難しい顔で鬚を絞った。
「多分、結構長くかかるんじゃないかな」
ノアムはさりげない風を装おうと苦労しながら、祖父の顔色を窺っていた。何せ時間を稼がなければならない。
今頃はもう半分も登っているといいが、と思いながら、ノアムは背中を伝う気持ち悪い汗に身震いした。
「何じゃ、夏風邪か」
「い、いや、違うよ。あんなに分厚い書物を読まなきゃならないなんて、俺は長の子でなくてよかったなって思ったんだ」
「お前が長の子でなくてよかったよ」
ユルクは首を振った。
「こんな勉強嫌いではどんな長になるか、知れたものではないからな」
それはセディムも同じ、といつもなら言い返すところだが、今日ばかりはその気になれなかった。名前も口に出したくなかった。どれ、若君の様子でも見に行くか、などと思われては困るのだ。
「爺ちゃん、俺、聞きたいことがあったんだ」
ユルクの足を城から遠ざけようと、ノアムは段取りを思い浮かべた。
「畑のことなんだけど……」
「おお、そうだ。わしも大事な話がある。いかんな、最近忘れっぽくていかん」
どん、とユルクは孫の背を叩いた。
「ちょっと来い」
「話って……それより畑を……!」
ノアムの言葉の後ろ半分は叫び声に近かった。ユルクの足が城の中へ向いたからだ。
「祖父たるわしの話が先じゃ」
ユルクは年老いたとはいえ、昔は豪腕で鳴らした大男だ。
背中を否応無く押され歩きながら、ノアムは必死にハールに祈った。城臣たちの部屋は頼むからやめて下さい、と。
しかし、ユルクは通い慣れた通路から逸れる様子はなかった。階段を上がり狭い通路を抜け、台所へ急ぐ女たちと言葉を交わしながら、二人は城臣の間へ入っていった。
18.
足元で小石が転がり落ちた。
セディムは一瞬ひやっとしたが、歯を食いしばって次の岩に手を伸ばした。セディムの予想よりも崖は険しかった。
最初に目をつけた岩は思ったより小さく、次に目指すつもりの足場は実際はかなり上の方にあった。
岩登りに慣れたセディムには珍しい誤算続きだった。ここに登るな、と大人たちが止めるのも理由ないことではなかったのだ。
しかし、戻るわけにも行かなかった。
いまさら、足場を探りながら崖を降りるのは無理だ。上へ行くしかない。
花を取ったらそのまま登り詰め、更に高い山道に出るしか、城へ戻る術はない。
慌てるな。
その言葉だけ思い浮かべて、セディムは手を伸ばし続けた。
昨日のメルもこんな気持ちだったのかもしれない。そう思うこと、そのことだけがセディムの頼りだった。
セディムが城の窓のそばを登り過ぎた後、そこを通る人影があった。
しかし、彼らは窓の外に目をやることはなく、そのまま奥の間へと立ち去って行った。