Novel

はじめての宿題 3

 

5.
 だが、セディムはまったく気づいていなかった。
「みんな、ついてこい」
 そう叫んだケリン・ドゥールは誇らしげに腕を振り、ときどき道を阻もうとする緑の枝と戦いはじめた。「急げ、夜は近い。ぐずぐずしている時間はないぞ」
 半ば飛ぶように駆けおりながら、セディムは本当に見知らぬ地を目指すような気がしはじめた。
 言い伝えのケリンが民を連れて落ち延びるのは、山ではなく平原の話なのだが。いや、それを言うなら牛ではなく連れていくのは人間なのだが、セディムにとってはかまわないことだった。
 この約束を果たしたら。牛たちを無事に暖かいところに落ち着かせることができたなら。
 その時には王に会える。
 そう考えて、セディムの胸は思わず熱くなった。それが城で待つ父のことなのか、それとも別の道を旅立っていった親友アレイオス王のことなのかはわからない。そのどちらと言えることもまた嬉しかった。
 しかし、歩き始めて半刻ばかりたつと、セディムの足取りは次第に重くなってきた。伝説の英雄と同じように襲ってきた疲れに、セディムは汗をぬぐって足を止めた。
「暖かくなったら岩の陰か、どこかいい場所を見つけてから帰ろうと思ったけど」
 そう考えていたけれど、一年じゅう雪を頂く峰から吹く風の冷たさは、なかなか緩む様子はない。
「夕ごはんまでに父上に教えてあげなきゃいけないのにな」
 そう思うとセディムは見知った顔が恋しくなってきた。
「どれくらい歩けばいいか、シスカに聞いてから来ればよかった。それともトゥルクに聞けばよかったかな」
 しかし、小さく呟いたとたんにセディムには、それはどちらでもいいことに思えてきた。あの二人の腹の底から湧くような笑い声を思い出して、急に胸のあたりが詰まって痛んだからだ。セディムはあわてて首を振った。
 何故、ケリンが泣いたりするのか。そんなことより大事な約束を果たすことを考えなければ。しかし伝説の勇者ケリンだってこんな難問を抱えたことがあったろうか?
 痛む胸をこぶしで抑えて、それでもなお歩き続けながら、セディムはシスカの顔を思い出した。
 ――うかつ者は空を見ているうちに靄が出ているのを見落とす。のんき者は花に見とれて雲行きをうかがうのを忘れる。
 レンディアの昔からの諺を、彼は口癖のようにセディムに聞かせたものだった。子供には難しい言葉ばかりだが、その意味は夏までも消えない雪のようにセディムの胸に残っていた。
「シスカ、どうしたらいいと思う?」
 心細さに呟くと、彼の仕草を思い出す。左目を見開いて肩は少し引き、次にはその野太い声が聞こえた気がして、セディムは耳を傾けた。
 牛を連れて雨に降られて、夕方になったって? そりゃあ、決まっておりますよ。
 セディムは立ちすくんだ。
 とたんに風の音が大きく聞こえた。どこか遠くで鳥の声がする。
 その答えを、セディムはもう一度口の中で繰り返した。シスカならきっとこう言うだろう。しかし。
 それは、セディムが父に喜んで伝えたいような答えではなかった。
 それどころか父は嘆くだろう。がっかりして肩を落とす姿が見えるような気がした。それでも言わなければいけないだろうか?
「どうしよう」
 前にも後ろにも動けない。その時、あたりがさっと暗くなった。
 セディムがあわてて振り返ると、いつのまにか空には雲が立ちこめていた。ツルギの峰の背後は夜のように黒々としている。
 もう、立ち止まっていてはいけない。
 セディムは手にした枝を投げ捨てた。ツルギの峰の後ろに黒雲がかかったら、ぐずぐずしてはいけない。すぐに城へ帰らなければ。
 セディムは今下りてきたばかりの道を登りはじめた。
 牛を連れていながら、こんな風に急に曇ったら……。
 セディムはせっせと石だらけの道を登っていく。あの黒雲が辺りを覆う前に……それにしても降りて来るときは、こんなに長い道のりだったろうか?
 自分の荒い息ばかりが耳について、村の気配は一向に近づいてこない。
 答えはこれしかない。
 シスカなら、いや他の誰でも同じ事を答えるに違いない。ケリンでなくとも、答えは明らかだ。
 今はもうはっきりと信じていた。答えは見つかったのだ。だが、胸には何の喜びも湧いてこなかった。
 こんなことを父上に言わなければならないなんて。
 セディムは歯をくいしばって、一段と大きな岩をよじ登った。
 内緒にしてはいけないだろうか。こんな相談など忘れているといいのだけど。しかし、思い直して首を振った。
 いや、父上は忘れたりしない。それに隠し事も嘘も嫌いだ。
 木の根をよけて時々よろけながら坂道を辿り、セディムはこの世の何もかもが終わってしまったような気持ちだった。
 やがて、濃く立ち込めた靄は雲を呼び下ろし、ぽつぽつと落ちてきた雨にセディムの頬が濡れた。
   雨になってよかったと、セディムは思った。

 その晩、ユルクは珍しい仕事を仰せつかった。
 夕飯の席に来ようとしないセディムを部屋から連れてくるというものだった。
 いつもなら食事の合図を聞くや転がるように走ってくるはずなのに、今日に限って声もしない。ユルクが迎えに行くと、セディムは夜具をかぶって寝台の上で小山のようになっていた。
 どうやらさんざん泣いていたらしい顔と手を洗わなければ夕卓につくことができなかった。


6.
 夕食が済むと長はいつものように炉のそばに座り、セディムを膝に抱き上げた。ユルクや他の城臣たちも杯を手に談笑している。
「何故、そんなに泣いていたのかね」
 ケルシュは幼い息子の顔を覗き込んだ。
 食べ物が腹に入ったおかげで多少はましな気分になったようだが、それでもセディムは唇をひき結んで答えない。
「どうしたら牛を死なせずにすむか、考えついたかね」
 セディムはひどくみじめな気持ちだった。到底、父を喜ばせるような考えではないと判っていたからだ。
「雨が降る前に」
 しかし、ようやく心を決めるとセディムは父の袖を握りしめながら渋々口を開いた。
「雨が降る前に、牛を連れてかえらなきゃいけなかったんだ。雲が出たのにも気づかなくて草を食べさせてた。雨が降るかも知れないのに、そんなことしてちゃいけなかったんだ」
 一度口を開くと、セディムはほとばしるように喋り続けた。
「もっと早く気づかなくちゃいけなかった。雨が降ってからじゃ、もう遅いんだ。間に合わなかったから牛は……」
 そこまで言うと我慢できずに、セディムの目から涙があふれだした。「牛が死んじゃうんだ」
 あれだけ考えたというのに、大事な牛を死なせることしか思いつかないなんて。涙があとからあとからわいてくるのをどうしようもなくて、なおさらみじめだった。
「ごめんなさい、父上」
 長、ケルシュは力尽きたようにうなだれた息子を見た。長い指でセディムの涙を拭ってやると、その顎に手をかけて泣き顔を上げさせた。
「よく考えたな。それで正しいんだ」
 セディムは一瞬息をのみ、父の顔を見返した。長は相談をもちかけた時と同じ真摯な目で息子を覗き込んだ。
「セディム、山の生活は厳しい。手遅れが命に関わることを忘れてはいけない。気がつかなかったり、悩んで決めるのが遅くなることが皆を死なせてしまうことになるかもしれない。そのことをよく覚えておきなさい」
「父上?」
 ケルシュのまなざしは厳しかった。セディムを抱く腕は温かく大きかったけれど、何でも受け止めてくれる母のものとは明らかに違っていた。
「雨が降ってからでは、もう遅い」
「それじゃあ牛は……」
「イバ牛が大事ならば雨が降り出す前に帰ってくることだ。お前の言ったことが正しい」
 ようやくその時になって、セディムは父の言葉が飲み込めてきた。父上は怒ってはいなかった。
 がっかりしたわけでもなく、それどころかよく考えたと言ってくれたのだ。
 そのとたんに喉がつまって、セディムは父の首にかじりついた。嬉しくて、そして何故だかとても悲しいような気持ちになって大声で泣き出してしまった。
 まわりにいた城臣達は若君を慰めようとしたが、セディムは頑として父から離れなかった。
 しっかりと抱きかかえられているのが幸せで、セディムは父の肩に顔をこすりつけた。おかげで長の肩は涙だか何だかわからないものでぐちゃぐちゃになったのだった。


 その晩、このことで長は妃からひどく怒られていた。セディムが泣き疲れて眠ったずいぶん後のことだった。
「まったく、あなたときたら」
 妃はあきれ顔を隠しもしなかった。
「子供をあんなに泣かせてどうするんです? あんな質問、答えようがないじゃありませんか」
「しかし、大切なことだ。やがて長になる身にはな」
 その厳しい顔に、妃は思わず言葉を飲み込んだ。しかし、長はすぐに明るい顔に戻って、
「でも、セディムはちゃんと答えて見せたよ」
 長はくすくす笑いながら妻の前で身を縮めて見せた。
「そりゃあ必死で考えたんだろうね。顔を真っ赤にして、ぽろぽろ涙をこぼして……なかなか可愛いものだったな」
「でも……あんなに泣かせることはないじゃありませんか」
 まったく、と、夫の忍び笑いに腹が立つやらあきれるやら、妃は同じ文句を繰り返しながら出て行った。
 長は傍らのユルクを見て尋ねた。
「そんなにひどい父親だったかな、私は」
 ユルクは何と答えていいかわからず、目を白黒させた。
「まあ、皆そんなものでしょうな」
 それから二人はもう一度、杯を交わしたのだった。

 

Novel
inserted by FC2 system