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弧空の下  1 
 見知らぬ空を見たかった

 異国の言葉を覚えて、どこまでも行くつもりだった。
 ――いつでも帰れるはずだった。



 瞬く星の下で、ラシードは目を覚ました。
 どこまでも続く平原を、商人の一群と旅をして幾日にもなる。旅の仲間を起さないように、ラシードはそっと寝床を抜け出した。
 あたりは一面の草の波、草の影、なぶる風。天空を飾る、冷たく冴えた星の光。
 まだどこかで宵を惜しむ風渡りたちの歌が続いていた。
 その静けさに、ふと足をとめる。
 何故、幾度も夢に見るのだろう。おそらく二度と踏むことのない、雪と輝く峰の姿を。



「眠れぬのか、仲間よ」
 その時、問う声がした。
 見れば夜営の焚き火の向うに座る姿がある。
 闇に沈むような深紅の布を頭に巻いて、その下で煌めく目は星のようだ。商隊の護衛を務める風渡りの若い頭目だった。
「夜はまだ長い。歌の果てるまではここへ来て座るといい」
 彼はそう言って、熾きを突いた。

 頭目は興味深げにラシードの粗末な身なりを見た。
「そなたは商人のようには見えないな」
 それを聞くとラシードは火の傍らに腰を下ろして笑った。
「私はただの薬師だ」
「それにしてはいい剣を持っている。それを使える腕なら薬師にしておくのは惜しい」
 重い鉄の剣。アルセナへ行くという商人から買ったものだ。
 あの頃、まだ若く世慣れぬ風のラシードに、これを見立ててくれたのだった。
 これは良い品だ。これを使えるようになりなさい。そうすればきっと生きてゆけるから。
「奇妙なことだ」
 その鞘に指を滑らせながら、ラシードは一人ごちた。
「盗むな、嘘をつくな、無闇に殺めるなと言われて育った山の民に、これほど不似合いな物はあるだろうか」
 剣は炎に照り映えた。彫物の蛇が赤々と染まり、それは不思議と美しかった。ラシードが故郷を後にしたのは二十と余年も昔のことだ。
「あの頃はとても若かった」
 そう呟くと、炎の向うで頭目のうなづく姿がゆらめいた。
「見知らぬ世界を知りたかった。どこまでも行きたかった」


 薬草や花、山にはない木の根を得たい。
 そう考えて私は故郷を後にした。しかし、平原で最初に手にいれたのは、そのどれでもなかった。

 山から降りた若者を、まず迎えたのは野盗だった。
 レンディアの珍しい毛皮が目を引いたのに違いない。だが、その他には何もないことがわかると、彼らは上着に食料、あげくに靴まで、剣で脅して剥ぎ取って行った。
 傷を負い草の上に転がっていると、商人が通りかかって尋ねた。
 お前は何者で、ここで何をしているのか、と。
 だから、私は、自分は薬師で薬草を求めているのだと答えてやった。
 そのようだな、と彼は笑って私を連れ帰り、傷の手当てをしてくれた。さぞ可笑しかったことだろう。いかにも若造のやりそうなことだ。
 やがて、傷の癒えた私は薬師らしく働いて、いくらかの金を手に入れた。それでこの剣を買ったのだ。

「剣などいらない。弓がある」
 最初、私は憮然として断った。
 しかし、商人は取り合わなかった。
「おうさ、逃げるウサギでも追うなら弓もいい。だが野盗は向かってくるのだ」
 矢に手をのばす間に二歩、番える間に一歩。
「引いた時にはばっさりやられてるってわけだ。悪いことは言わない」
 商人はきっぱりと言った。
「いつも命を残していってくれるとはかぎらない」
 剣の持ち方、構え方から彼は私に教えてくれた。そして、ようやくものになったかという頃。
 私達は草原の道の分かれ目に着いた。
 商人は荷をアルセナで売りさばき、その後は来た道を北へ戻るのだという。
 ――私は?
 私はどうしようか。
「南へ」
 その言葉は知らず口をついて出た。
 新しい世界を見たかった。

 彼は私のためにハールに祈ってくれた――決して道を間違えることのないように護りたまえ、と。
   あの時。私は彼のためにも祈ったろうか?
 今となっては思い出せない。
 私の心はすでに新しい地平に向いていた。


 アルセナより南へ下る。
 遥かに煙る地平線。青い空。くっきりと弧を描く丘と木立。
 途中で出会った薬師たちは異国の若い同業者を珍しがった。
「小王国だと? 聞いたこともない」
「いったい誰を王に戴くのだ。鹿や鳥ではあるまいな」
 そこで、遥か昔、平原から落ち延びた王族が住まった土地だと説明すると、何故か男達は笑った。
「だが、聞いたことがあるぞ。北のはずれの村に時々山の民が降りてくるとな」
「いいや違う、そのあたりに賢者が隠れ住む地があるのだ」
   男達は野営の炉を囲んで、あやふやな噂話に興じた。
「何しろ賢者だ。古き文字で書かれた書物を携えて、命の秘密を明かそうと日夜思索に耽っているのだ」
「では、そなたはその弟子?」
   期待に満ちた薬師たちの視線はいっせいに若造に注がれた。
 私は呆れて手を振った。いかにレンディアが辺境であるか、つくづく思い知らされた。
 賢者でも弟子でもないことは、私の腕前を見ればすぐに明らかになった。私が故郷で学んだ癒しの技は、彼らに言わせれば古風なのだそうだ。
 私は夢中で草の名を覚え、彼らから学ぼうとした。傷に当てる見知らぬ花、折れた足には枝を添える。一生一度、見ることができるだろうかという見事な癒しの技の数々。
 こうして私の知識も増え、薬草袋には新しい草が入れられていった。

 平原の旅。
 どこまでも南へと続く街道を、私は商人たちと共に辿った。一人で護衛の風渡りを雇う金などなかったからだ。
 その商人たちが行く先々で市が立つ。その賑わいに、同行の私も心躍らせた。

   呼び声と笑い声。並べられる果物や珍しい織物。
 市はまるで平原に咲く花のようなあでやかさだった。
 奇妙な髪飾りをつけた女たちとも会った。
 頭からはずれそうだというと、こういうものだと笑われた。それでも優しい女たちは、私にあたたかい思いをさせてくれた。

 やがて馬を手に入れて乗り方を覚えた。

 重いひづめの音。
 さらに遠くを見遥かし、走り出す。

    南へ。

 果てない草の波が、風の音が、商人たちの声が。
 こぼれ降る星が、宿場の灯りが。
 何もかもが美しかった。

 見知らぬすべてが鮮やかに立ち現れ、私はそれに夢中になった。
 どこまでも行こう。薬師としての腕を上げ、もっとたくさんの知識を得よう。賢くなりたかった。そしてできれば名も欲しかった。
 そのためには何でもしようと心に決めた。

 やがて、私はこの地と故郷での日々とを比べ見るようになった。
 この平原に溢れる活気は、レンディアにはなかった。あの訪れる者すらない忘れられた国。
   レンディアはいかにも貧しかった。

「パンが足りないのではないか?」
 ある日、市場で私は商人に尋ねた。
 渡した銅貨からすれば、もう二つや三つは買えるはずだと思ったのだ。しかし、商人は笑って手を振った。いったい何年前の話かと。
 私は途方に暮れて手の中の銅貨を見つめた。
 私が故郷を後にしたのは、長い冬の終りだった。何かの足しになればと、痩せた手の友人達はわずかな毛皮を渡してくれた。
 まる一日かけて獲った毛皮。
 それは麓で銅貨十枚と引き換えられて、一回の食事にしかならなかった。
 五枚でパンを二つ買えたのに、一年もたてば一つとしか引き換えられなくなった。
 こうしてレンディアは自分達も知らない間に、更に貧しくなっていくのだ。

 居たたまれなかった。

   私は更に馬を変え、一人、南を目指して走った。
 薬草を求めて旅をするのか、帰らないために草を探すのか。いつしかわからなくなった。
 私はその痛みに耐えられず、故郷を忘れようとした。


 河を渡ると、やがて平原の様子は変わった。
 にぎやかな宿場は姿を消し、街道はしばしば草の波に飲み込まれた。あの頃、アルセナとバクラの戦は激しさを増していた。
 南から運ばれる高価な香料や飾り物など見向きされるはずもない。道は行くほどに荒れていった。
 野盗と時おり見かける商人。
 どちらの所業も、よいとは言いかねた。
 荷を奪われた商人は、次に通った商人に剣を振り上げた。奪った荷を手にもう一度商人の顔に戻るのだ。
 野盗どもは彼らに手を貸して謝礼を受ける。ある者は金を受け取ったその手で、仲間だった商人の背に太刀を浴びせた。
 町ではこざっぱりとした身なり、赤い頬の少年がはした金を無心する。腹をすかせた子の手を引きながら、女達は刺繍の上布を欲しがる。

 山に育ったこの身から見れば、夢ともいうべき豊かな地で
 人々はそれでも喰い足りないと騒ぐ。

 あとどれだけあれば満足できるというのだろうか?
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