1 Novel






弧空の下 2
 街道はもはや途切れた。
 見渡す限り草のうねりだけになったのは、ある夕暮れのことだった。
 行く先には闇があるばかりだ。
 私はひとり苦心して火を起こし、馬をその辺りに放った。
 夜風に草が波打ち、細い月が天空に昇るのが見えた。馬は飽かず草を食み続ける。
 私は、といえば剣を抱き固い肉を食いちぎり、そうして夜が更けていくのを耐えていた。眠ればどこからでも襲ってくるものだと知っていたからだ。
  案の定、灯りに寄ってくる虫のような影があった。私はうんざりとしてため息をついた。
 何もこんな見るからに貧しい薬師を狙わなくてもよさそうなものだ。
「言っとくが、何もないぞ」
 影はぴくりと立ち止まった。
「最後の肉も、今、食ってしまった。残念だったな。まあ、あっても馳走してやったとは限らんが」
  その途端に黒い物が飛びかかってきた。一人ではなく、右、斜め後ろと左から。
  かっとして、私は剣で影を払った。
「いったい何が欲しい!?」
  そんなことを聞いて何になったろう。
 何を持っている訳でなし、欲しがるからとくれてやる訳もない。ただ、尋ねずにはいられなかった。
 その時、野盗の一人がせせら笑って、仲間に目配せするのが見えた。
 埃まみれの黒い指が、私の腰を指差す。
  振り下ろされる剣を夢中でかわしながらそれに気づいて、私はたぎるような怒りを覚えた。
  薬草袋だ。
 ここまで旅してきた証、この先、生きてゆく頼りだ。これだけは何があっても渡すまいと思った。
 知恵を手に、さらに南へ。そして、もっと多くの薬草を得るのだ。
「貴様らなどが持っていても、役に立たん」
  そう叫んで、真横に影をなぎ払った。

   何故、奪おうとするのか。
   何故?

   剣を振り、突き上げる声が口からあふれる。
   あとは言葉になどならなかった。
   叫びと怒りとで私の顔も黒く染まった。


 薪のはぜる音に我に返った。
 私は立ち尽くして野盗だった物を見下ろしていた。
 動かない姿は尽きかけた焚き火に照らされている。なめし革の上着、濃い色の肩布。野盗の意外なほど上等な身なりは、黒く血に染まり無残だった。
 どこかで呻き、すすり泣く声がした。
 振り返れば残る一人が涙を流している。顔は歪み、血だか反吐だかわからないものにまみれて哀れだった。彼は自分の切り落とされた右腕を拾うと、泣きながら立ち去って行った。
 荒い息を押さえてそれを見送る。
 そして、自分の腕を見下ろして、私は叫び声を上げた。
 二の腕まで黒く染まっていた。
 黒の源はあの剣だった。
 思わずたじろぐと、剣が炎を映す。

   赤。

   濡れてぎらぎらとした色は、私が見てきたどの血よりも醜かった。
 私は馬に飛び乗り、しがみつくとそのわき腹を激しく蹴った。
 血の匂いに怯え、無体に扱われた馬は怒って闇に向かって走り出す。
   ――その背で、私は何度も吐いた。



   何故、殺したのか?


   今度は私が問われる側だった。

   何故命を、あの腕を
   薬師であるこの身が奪わねばならなかったのか。
   わからなかった。

   ただひとつだけ。
   あの夜、馬の背にしがみつきながら思い知った。

   私もあの野盗と同じだ、と。

   知恵も薬草も、できることなら名声も手に入れたい。
 望みのため、欲の果てに、奪った。
 風の音に、一瞬懐かしい光景が思い浮かぶ。
   輝く雪の峰。揺れる花――。
 しかし、それはすぐに消え去った。
 前にあるのは闇と草。黒々と口を開けた夜空だけだった。
 この血が見えなくなるのなら、どんな闇の中へも走り込んで行きたかった。

 こうして私は帰る道を見失ってしまったのだ。







「長い、長いこと。こうして旅してきたのだ」

  ラシードはひんやりとした音をたてて、剣を鞘に収めた。
「まあ、よくここまで生き長らえた。この剣のおかげだな」
  頭目は酒の壺に手をのばし、ラシードは促されるまま杯を受け取った。縁までなみなみと注がれた酒に、天空の月がゆらいで映る。
「あとは死人と縁が切れれば、薬師としての名も上がるだろうよ」
  杯を啜り、ラシードはうっすら嗤った。
 見知らぬ空の下、こうして昔語りなどする自分が可笑しかったのだ。
 あの若造は望んだものを手に入れた。生きるために走ってきたことを、悔いてはいない。
  それなのに。
「何故、夢に見るのだろう」
   ぽつりと、こぼすように呟いた。
 あの雪の峰を、いつになれば忘れられるのだろう。
 そして、目覚めれば一人、夜の中に立っているのだ。
 その時、押し黙っていた頭目がラシードの顔をのぞき込んだ。
「何故帰らんのだ?」
  遠慮もないその言葉に、ラシードは驚いて目を上げた。
「何故、だと?」
   頭目がいかにも不思議そうなのが、気に障った。
「この血に染まった手で雪を掴め、と? この身の上を故郷にさらせというのか」
「行きたいところへ行けばいい」
   そう言って頭目は呵呵と笑った。
「本当は帰りたいのだろうが?」

  杯の月が揺れた。

   帰りたいのだろうが。
 その言葉を、ラシードは何度も胸の内で繰り返した。
「……今さら、わからんよ」
   突き放すように言って、ラシードは月が再び丸く映るのを待った。
「長いこと、忘れようとしたきたのでな」

  昼は喧騒にまぎれて
  夜は泥のように眠って

  望みなど見えなくなってしまった。

  果てない草の波が、走り越えてきた河が、夜の闇が
 故郷をさらに遠ざける。
「あの地へ帰りたいなどと、どうして願える?」
  揺れる炎を二人してみつめた。歌だけが風に聞こえた。
  やがて頭目が口を開いた。
「互いに夜を行く身に、慰めになるかはわからんが」
   彼はゆっくりと何かを探すように熾きを突いた。
 その言葉につられるように目を上げると
 天には白く、一人佇む月があった。
  それを風渡りはいとおしそうに仰ぎ見る。
「風渡りは大方が故郷に帰れない者ばかりだ。だが、この空も故郷の上に続いていることを知っている。そう思うことが行く道の灯火だ」

  闇を照らす光がある。

  昼には陽にまぎれて見失っても
  静かな夜には、姿を現してくれる。

  夜行く者にしか見えない明かりもあるのだ、と。

  語っているのは頭目なのか、遠くの歌い手なのか
 ラシードはわからなくなった。
「月が行く道を照らしてくれる。だから帰れ」

  だから帰れ。
 帰れる国があるのなら。そう願うなら。
「あの月は彼の地でも天にかかり、お前の心を映してくれる」

  その願いを伝えてくれる。
  だからあの月の照らす道を辿れ。


  ラシードは頭目の黒い目をみつめ、やがて口を開いた。
「何故そんなことを教えてくれるのだ?」
  頭目は微笑んだ。
「いい剣を見せてもらった礼だ」
  いつまでも  続くかのような風の音。歌は月が薄れても続いた。
 それはやがて差す陽の光に、溶けるように消えていった。



 やがてラシードは商人たちに別れを告げ、道連れもない北への旅に戻った。
 あの風渡りとは二度と会うことはなかった。
 それでもあの言葉と風にのって聞こえた歌は、
 その後、いつまでもラシードの耳に残っていた。



Novel 掌編  「野営にて
inserted by FC2 system