真冬の光  第一部 晩夏 序章 真冬の光 目次 1章-2
 
第一部 晩夏
一章 夏の終わり - 1


 イワウツギの低いしげみが山の斜面をおおっていた。
 このところの朝晩の冷え込みで、あらかた葉をもぎとられてしまった枝々。その間、風にはためいていたのは奇妙なしろものだった。なめした革帯、蔓。その先はひきちぎられて無くなっている。
 そのかたわらに若者が膝をつき、手をのばした。
 年は十五か六、木の枝のような手足ばかりが目立って、背がひどく高く見える。考え深げな目が年の割には落ち着いた様子を見せていた。背とくらべて重さの足りない身のこなしだが、狩衣も背中の矢筒もよく使いこまれている。
 狩人は自分がしかけた罠のなれの果てを手にとった。蔓の先につけられていたはずの餌はなく、むろん獲物の影もかたちもない。
「……ウサギか」
 彼は苦々しくつぶやいた。
 その時、バサリと羽音が頭上に響いた。若者をかすめるように影が横切る。彼はあわてて立ち上がり、空をふり仰いだ。クロ鷲だった。
 目にあざやかな青を背に広げられた大きな翼。勇壮な姿に目をうばわれて若者は思わず弓を握りしめた。だが、山鳥はツルギの峰へむかう風をとらえたところだった。
 力強いはばたきひとつ、それで人間の手から逃れるには十分だ。狩人が矢をつかんだときには、すでに次の気流をみつけて高く舞い上がってしまった。
「……」
 若者は手びさしして万年雪をいただく峰を見上げた。
 だが、さほどがっかりした様子でもなかった。クロ鷲はめったに見られない。仕掛けた罠は無為に終わったが、天運はまだこちらにある。そんな気さえしたのだ。
 彼は手にした罠――の跡形――をていねいに畳んで、腰の袋に押し込んだ。そうしながらも、目は山の斜面を下り、次の仕掛けを探していた。
 山は晩夏の色あいだった。
 岩にこびりつく野草の群生は、ちいさな花を枯らして、その下に赤い実をつけていた。夏の間、肉厚の花びらに水分をたくわえていたフルギクは生きながら朽ちようとしている。そして、その横を地リスがかけぬけた。ほんの一瞬だったが、狩人の目はほおぶくろの膨らみを見て取っていた。
「――――」
 遠い呼び声に、若者は我にかえった。見れば、ガレ場を駆け下ってくる姿がある。
「――セディム! どうだった?」
 息を切らして来るのは年嵩の若者だった。
 彼がくるのを待って、セディムは腰にくくりつけた貧相な獲物を示した。
「地リスが一匹だけだ。そっちは? ノアム」 
 駆け下りてきた方もため息をついた。「こっちもだめだ。餌も残っていなかった」
 彼の手にも罠の残骸がにぎられている。二人は黙って顔を見合わせ、ふいにふき出した。
「ちくしょう、失敗だな」
 失敗は失敗なのだ。だが、山の獣の出し抜きっぷりがあまりに見事だったから、そして自分たちが滑稽に思えて、つい笑ってしまったのだ。
「……そろそろ戻るか」
「うん。腹がへったな」
 二人はガレ石を踏んで歩き始めた。
 手ぶらで帰る狩などめずらしくもない。だが、セディムが新しい罠の仕組みを考え、しかけたのは五日まえのこと。これには期待していた。
「あーあ。二十も罠を仕掛けて、捕らえたのは一つだけか」
 ノアムもくやしそうに空を仰いだ。
 獲物を撥ね上げてとらえる仕掛けは、少々複雑にすぎたようだ。大方はちゃっかりと餌だけ持っていかれ、罠は動いた様子もない。三つにはかかったようだが、うち一つは何とか逃げだし、二つは別の獣が奪っていったらしい。
――割にあわない。
この点は二人ともわかっていた。かけた労力に見合う獲物を得なければ、狩の意味がないのだ。
「……なあ、セディム」
 ノアムは足をとめた。「やっぱり、よくないんじゃないのかな?」
「何?」
 石の重りやら餌のことで頭がいっぱいになっていたセディムは、うわの空の返事だ。
「罠、さ」
 ノアムはためらいがちに答えた。
「確かに、放っておいても獲物がとれるのはありがたい。でも、それも罠に『かかったら』の話だろ」
 と、ひきあげてきたばかりの空の罠をぶらさげて見せる。
「これまでどおり矢で一匹ずつ、まちがいなく仕留める方がいいんじゃないか?」
「いや、うまくいく」
 セディムは言い切った。
「仕掛けの問題なんだ。毎日見てまわるわけにはいかないから、他の獣にいくつか横取りされるのは仕方ないとして。せめて、五か六は捕らえられるようになれば、やるだけのことはある」
「だけど。城臣たちは取り合ってくれないんだろ。第一、長もいい顔しないそうじゃないか」
 ふいに、セディムは不機嫌になった。
「父上の言うことはばかげてる」
「おい」
 ノアムはぎょっとした。いくらセディムがレンディアの後継でも、長というのは格別の立場だ。少しばかり敬意がなさすぎる気がしたのだ。
「どうして、罠を使うことを恥じなければいけないんだ?」
 セディムは憤然として言った。「ハールが獲物を与える、というなら、人間が何を使ってもいいじゃないか。実際、平原では罠も使うらしい」
「それは、そうなんだが。でも……」
 ノアムは複雑な顔つきで言葉を探した。
 自分はどう思うかといえば、確かに弓矢を持つ狩の方が晴れがましい。しっくりくる。だが、その理由をうまく説明できないのだ。
「……平原より、山の方がハールに近いから、かな?」
 しかし、セディムは聞いていなかった。
「そうだ。もっと大きい獲物を捕らえられれば割りに合うな」
 ノアムは目を回すしかなかった。
 午後の陽にほどよく温められた地面から、ついっと褐色の頭がのぞいた。二人は足をとめて顔を見合わせた。そして、セディムが指さす潅木の後ろに身を屈めた。
 地リスは黒い瞳をすばやく辺りにめぐらせ、何もないことを確かめると穴から飛び出し、跳ねるようにして山の斜面を下っていった。
「セディム、捕まえないのか?」
「うん」
 そして、手近の枝を折りとってリスの巣穴に挿しいれた。枝はすぐに見えなくなり、肘あたりまでが穴にすっぽりと飲み込まれてしまった。
「ずいぶん念入りに掘ったな」
 セディムはつぶやきながら立ち上がり、腕についた乾いた土を払った。あらかじめイバ牛の毛で腕をこすっておいたから、巣穴の中に人の匂いは残らないはずだ。冬ごもりの支度をととのえている獣を怯えさせまいと思ってしたことだった。
「どうして、追わないんだ」
 ノアムはやきもきと尋ねた。しかし、セディムは首を振った。
「ここは見逃してやろう。教えてくれたんだから」
「教えた? 何を?」
 しかしそれには答えず、セディムは岩場からはるか下を見下ろした。
 遠くの斜面にはうすい黄色がゆれている。レンディアのヒラ麦畑だ。白っぽい軽い色は、麦がまだ実りきっていない証しだ。
(やっぱり、父上が言うことは早すぎる)
 ようやく心を決めると、彼は指笛を鳴らした。すると、近くで草を食んでいた灰色牛がやってくる。その背にセディムはひらりと乗った。まだ少年のような細い肩に肩布をはね上げ、しっかりと頭を振りたてた。
 父の決定に逆らうなど初めてだ。やはり、それなりの決意が必要だった。

 レンディアの村が近づくにつれて、風の中に歌が混じるようになった。ヒラ麦を刈りとり、運んで、牛に踏ませて殻を取るのだ。
 イバ牛が駆け下ってくる蹄の音に、段々畑で麦を刈っていた男たちが身をおこした。
「セディム様」
「山はどうでした? 獲物はありましたかの」
 若者二人は牛をとめて顔を見合わせた。どちらの鞍も寂しいままだ。セディムは首をふった。
「麦はどうだ?」
 村人がさし出した麦をセディムは手にとった。思ったとおり、軽かった。
「今少し、刈入れを待ちたいところなんですが……」
 答えた村人の表情は複雑だった。
 いつもの年なら、刈り鎌を握るのは半月も先のはなしだ。だが数日前、レンディアの長は畑の刈り入れを命じた。まだ早いという意見も承知の上での命で、これはレンディアでは珍しいことだった。こうなれば、村人には異を唱えることは許されない。
「まあ、あと十日やそこら置いたところで、さほど変わることもないでしょう」
 男はさっぱりと笑ってみせた。
 セディムは手のひらの細い麦穂を、そして遠い山並みを見た。明るい色の空には雲ひとつ見当たらない。確かに、この季節にしては風が冷たいが、陽の光は力強い。まだ夏と言ってもいい。
 その横で、ノアムは牛の背から滑り降りた。
「――それじゃあ、俺はここを手伝っていくから」
 そう言い残して、穂をかきわけながら畑へ入って行く。村人らも麦刈りの歌の中へ戻っていった。
 彼らを見送りながら、セディムは口元を引きしめた。イバ牛に声をかけ、首を軽く叩くと牛は城へ向かって駆け出した。
 小道の傍らでは山葡萄が小さな実をつけようとしていたが、若者の目にはとまらなかった。






 

序章 真冬の光 目次 1章-2






inserted by FC2 system