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第一部 晩夏 |
一章 夏の終わり - 4 |
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夜もふけて、明日の支度が整うと狩人たちは村下の家へ帰っていった。 眠りについた城は、峰々と同じように星空を背に黒くそびえていた。その中に、ひとつだけ明かりのともる窓がある――長ケルシュの私室だった。 「亡くなったとは……思いもしなかった」 呟いたラシードはあとに続く言葉をなくして、杯を一気に飲み干した。 かつて、よくそうしたように、ケルシュとラシードは酒壺をはさんで座り込んでいた。かたわらの炉の中では、粗朶がはぜるひそかな音がしていた。 ラシードがレンディアを出た頃、長ケルシュはまだ若かった。幼い長子トルムが跡を継ぐことになっており、妃も若くて二人目の子を身籠っていた。レンディアの未来は安泰と思われたのだ。まさか、その三人ともがハールに呼ばれてこの世を去っていようとは。 ケルシュは静かに目を伏せた。 「そなたが山を降りて数年後にトルムが、その翌年にローシュが死んだ。ああ、ローシュを知っていたか?」 ラシードは首を振った。 「俺が出て行った時には、まだ生まれていなかった」 「末の子のセディム……そうはいっても、もう一人っ子とかわらないのだが」 ケルシュはぽつりと言った。炉に照らされて半身は影に沈んでいた。 「セディムが三つの時に、母親もハールの庭へ還っていった。もう十二年にもなるのだな」 夏とはいえ、山の夜の空気は冷たい。しんと静かな杯の表面に波をたて、ラシードは故郷の酒をすすった。久方ぶりの味は、しかしどこか苦く舌を刺した。 「何故、後添を選ばなかったのだ?」 ケルシュはしばらく杯をてのひらに温めていた。 「――あれの他に妃はいらない。それだけは、我侭を言いたかったのだ」 「だが……」 ラシードは言いかけて、口をつぐんだ。 跡を継ぐ子がたった一人では、先が不安であったろう。だが、周囲の者たちがそれを許したのだ。その場にいなかった者に何か言えることではなかった。 「末息子、か」 沈んだ気持ちを持ち直そうと、ラシードはつとめて明るい声で言った。 「頭も気もまわりそうな若者だ。お前にしては上出来ではないか」 しかし、長は考え込むように窓の外を眺めたままで、再びの問いにようやく我に返った 「うむ」 「何だ。浮かぬ顔だな」 「あの子は村の者にも慕われている。狩の腕も悪くない」 その横顔を見ながら、ラシードはいぶかしげに目を細めた。「では、何が不満だ?」 ケルシュは手にしていた杯をことりと置いた。注ぎ足してやろうと酒壺にのばしたラシードの手は遮られた。 「セディムは……傲慢だ」 「何?」 ラシードは思わず息をのんだ。それほどに長の声音はきつかった。 「山に生きる知恵はある。勇気もある。挑むこともおそれない」 「いいことではないか」 「ハールにさえ、だ」 「……」 ようやく旧友の心痛が見えたような気がして、ラシードは杯を置いた。 「若者には信心がない、と俺もしじゅう嘆かれたものだが?」 「それとは違う」 長は苦い笑みをうかべた。 炉に細い薪を足そうとして、ふと手をとめる。そして、言い出しかねていた不安を断ち切るように、勢いよく炎に放り込んだ。 「古いものへの敬意が足りない。代々、守ってきた祭儀に何の意味があるのかと言う。狩の仕方を変えたいと言う。ハールの定められたことをないがしろにする。この間など、穂摘みの祈りの言葉を忘れたと言って、すっぽかそうとしたのだぞ」 「忘れた……」 「笑いごとではない」 長ににらまれて、ラシードは肩をすくめた。 「それにしても、傲慢とは言いすぎではないのか」 「かもしれん。だが、長とは村人の信心を束ねる役割も担っている。いずれその立場に立つ者にふさわしい言動と思うか? わが息子が――」 長は一気に杯を干して、身震いした。 「あの子はいつか、ハールの怒りを招くのではないか。そう思うと堪らないのだ」 ラシードはそろりと杯をすすると、目をすがめて長を見た。 「……まるで、人の親のようだな」 たしかに、二十余年という時間がここにも流れていたのだ。 長年、故郷を離れていた身からみれば、山は何もかわっていない気がしていた。覚えていたとおりに清清しく、温かく、そして相変わらず暮らしぶりはつましい。だが、久しぶりに会う友人の言うことは――。 「親父さまも板についたらしい」 くっくっとのどで笑っていると、長は渋い顔をした。ラシードは友人の杯に酒を注いだ。 「ケルシュ、そう嘆くな。お前は真面目すぎるのだ。ハールはけっこう懐が深いぞ。こんな俺でも生きて故郷へ返してくれたのだからな」 「――ともあれ。あの子には、ハールの寛容を試すようなことをして欲しいとは思わんよ」 ケルシュは杯をぐいとあおった。ラシードは黙ってそれを見ていた。 「ラシード、出立の前夜を覚えているか」 「ああ。この炉の前で、こんな風に座って話したな。あの晩と何も変わらない。違うのは、互いの白髪の数だけだ」 「それだけか?」 ケルシュは目を細めて尋ねた。「欲しかったものは、手に入れたのか?」 だが、ラシードは答えなかった。 古い酒壺を傾け、旧友の杯を満たす。ケルシュはあふれる酒を啜ろうと身をかがめ、ふいに顔をしかめた。 「何だ、怪我か。肩か」 そのしぐさに目をとめて、ラシードは壺を置いた。 「みせてみろ」 「いいや。もうあらかた治っているのだ」 ケルシュは断り、あらためて杯に口をつけた。 「先日、狩に同行したときに岩場から落ちたのだ。なに、大したことはない。もう、ウリックが薬草を煎じてくれてる」 「あいつはうまくやっているのか?」 ウリックはラシードのいわば弟弟子だった。親をなくした二人は薬師にひきとられ、ともに育てられたのだ。 「会っていないのか?」 と、ケルシュは目を瞠った。 「薬師の婆が亡くなったあと、たった一人で村じゅうを見てくれている。大変なことだぞ」 「わかってる。だから、うかうか顔を出せんのだ」 お前でも負い目があるか――そう言って、からかおうとしたケルシュは口をとざした。ラシードの目が笑っていなかったからだ。 |
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