真冬の光  第一部 晩夏 2章-1 真冬の光 目次 2章-3
 
第一部 晩夏
二章 兆し - 2

 
 斜面いっぱいをなぶるように風が吹き抜ける。
 その岩場をセディムとイバ牛は下っていった。乾いた灌木の葉がざわめき、ときおり小石の転がる軽い音が混じる。合図をよこしたノアム、あるいは獲物の姿を探してセディムは辺りを見回した。しかし、聞こえるのは風だけだった。
 そのとき、何かが動いた気がして、セディムは目を細めた。
 少し離れた岩の合間に灰色の斑点が見え隠れする――それは小柄の鹿だった。
 すぐさま、ルサを岩陰に導いて身を隠した。斜面を見上げると、かなり遠くにノアムの黒毛の牛がいた。そして、その身振りが示す渓筋向こうに、スレイの姿も見えた。
 一方、当の鹿は自分のおかれた立場をまだわかっていないようだった。
 つややかな毛皮にはくっきりとした斑点が散っている。おそらく、ひと夏を越したばかりのまだ若い鹿だろう。
 茂みに鼻面を突っ込んで、木の実を食んでいる。ときどき耳をぴくりと立ててはあたりを窺うが、すぐに食事に戻った。身のこなしは俊敏で、自分の足どりの力強さに何の疑いももっていない。
 それが命とりだ、と考えた若者の目の方がよほど老練だった。
 風向き、互いの位置、そして地形――いずれも狩人たちに有利だ。
(これは、いける)
 緊張と興奮がはしって、セディムは唇をかるく噛んだ。
 冷たい山の空気をふるわせて、セディムは狩笛を鳴らした。巧みに山ヒタキを真似た音だが、幼馴染たちにはそれでわかる。
 まず、ノアムが走り出した。鹿もついと首を起こしてすぐに駆け出した。
 ノアムは乾いた茂みを叩きながら、獲物めがけて駆け降りていく。鹿は身を翻しながら逃げ下った。それと並行するように、セディムはルサを駆った。獲物をはさんで向こう側にいるスレイとはさみうちにするつもりだ。
 やがて、セディムは渓筋向こうを見て眉をひそめた。スレイの斑模様の牛の姿はまだ小さく、遠かった。出遅れたのだ。
 セディムは身を伏せるとイバ牛の脇を軽く蹴った。思いがけない動きにルサはとまどったようだが、すぐにあるじの意図を察して、今度は斜めに走った。
「ルサ、行け。このまま行け!」
 スレイが間に合わない。となれば、このまま獲物と並んで走っても仕方ない。こうなったら、獲物の前方へ回って自分が射るつもりだ。
 だが、鹿も必死だった。
 尖った岩をしっかりと蹄に掴み、体勢を崩すこともない。追っ手の目をくらませようと右に左に跳ねていく。同じ条件なら、イバ牛よりも鹿の方が動きはすばやい。
 セディムは舌打ちすると、思いきって身をおこした。
 諦めるつもりなどさらさら無かった。ルサがこちらの考えをつかんだと見ると、手にした矢を番えた。
(届くか、届かないか)
 微妙な距離だが、機会は今しかない。
 弓弦を引き、獲物を睨む。するどい音が閃いて矢が放たれた。と、同時に、もうひとつ風を切る矢音が聞こえて、獲物が倒れるのが見えた。
 そのとき、ルサが身をひねった。セディムは振り落とされまいとあわてて鞍端を掴んだ。見れば、すぐ横は鋭く切り立った崖だった。
「……お前でよかったよ」
 セディムはほっと息をつき、牛の首を叩いてねぎらった。ルサはあるじに応えながら、まわりにも気を配っていたのだ。
 その時、スレイの高い声が降ってきた。
「セディム! どうだった?」
 息をはずませて駆け寄ってくる。
 獲物を見れば、矢は二本刺さっていた。後ろ脚に一本、しかし、とどめとなったのは胸を深く貫いたもう一本だった。矢羽を括った赤い糸が目に鮮やかだ。スレイの矢だった。そこへ、ノアムも追いついてきた。
「やったな」
「――ああ」
 セディムは岩に倒れた鹿を指し示した。
「ふた矢でしとめた。無駄な傷のない毛皮だ」
 そして、目を丸くしている幼馴染をふりかえると大きく笑った。
「ハールからの贈り物だ」
 ぽかんとして言葉も出ないスレイを、兄貴分二人は上機嫌でこづいた。


 その日、狩人たちが粗末な狩小屋におさまったのは、とっぷりと日も暮れてからだった。
 初日にしては獲物は多かった。その中で、若者たちがしとめた鹿はもっとも目をひいた。
 艶やかな毛皮にはおおきな傷もなく、肉は言うまでもない。年長者からのねぎらいの言葉は、悪くない、という程度だったが、言う顔をみればそれは随分控えめであることがわかる。
 男たちは肉の保存のための下始末まで終えてから、ようやく食事にありついた。冬まで取っておけない内臓は鍋に放り込まれて、力のつきそうな汁物になる。狩人たちは車座になって杯を交わし、笑い声を上げた。
「初日から幸先がいい」
「よい狩人が育っている」
 その言葉が肴になった。
 今朝は緊張のあまり白かったスレイの頬は紅潮していた。そんな仲間を見て、セディムとノアムも一緒になって声をあげて笑った。
 いくども酒壺が行き交い、酔いがまわれば口も軽くなる。
 そうして語られるのは女の話と決まっている。仲間どうしの冷やかしや、武勇伝すれすれの逢瀬の顛末。相当に卑猥な冗談も飛びかって、スレイや他の新参の少年たちは呆然としていた。
「おう、ノアム!」
 矛先はすぐに若者たちへ向いてきた。
 杯を手に、上機嫌で声をかけてきたのはローシュだった。ノアムの横に胡坐をかくと、ろれつの回らない声を張り上げた。
「お前は今年こそ嫁さんをもらう!」
 勝手に断言されて、ノアムは口ごもってしまった。
「……いや、そうはならないと思うな」
「祭りで会ったっていう娘のことか?」
 セディムも面白がって幼馴染の顔をのぞきこんだ。
 去年の秋祭りの折、ノアムともう一人の若者がエフタを訪れた。一応、レンディアからの祝いの品を届けるという名目だが、花嫁探しの意味もある。そして、おくてのノアムには珍しく、気の合う娘がいたという噂がセディムたちのもとへ届いていた。だが。
「あの娘はエフタから離れたくないらしいんだ」
「情けない!」
 ローシュはおおげさに腕をふり上げ、膝を叩いた。
「お前、それで引き下がってきたのか」
「ちょっと呑みすぎなんじゃ……」
 ローシュの手から杯が落ちそうになるのを、ノアムはあわてて抑えた。
「甘いぞ、ノアム。それでも男かあ」
「そこらへんにしておけよ、ローシュ」
 ひょいと後ろから手が伸びて、年嵩の男が酔漢の襟首をつかむと、そのまま引きずっていった。
 酒はいいが、さすがに翌日の狩にさしつかえるほど呑むのは止められる。ローシュはいつも真っ先に杯を取り上げられるのだ。ノアムはその姿をほっとしたように見送った。
 だが、セディムは酒壺を置くとあらためて身を乗り出し、幼馴染の目をのぞきこんだ。
「……ノアム。それだったら、お前がエフタへ行けばいい。いい娘だったそうじゃないか」
 だが、ノアムは首をふった。
「秋の刈入れが済んだら、姉貴が帰ってくるんだ」
「リアが?」
 ノアムの姉は、もう何年も前にエフタへ嫁いでいた。
「この間、だんなが亡くなったんだ。エフタには他に身内はいないし。家を片づけたら、子供を連れて帰ってくることにしたらしい」
 ふとノアムは眉を寄せ、大人びた表情になった。
「うちもじいさんとお袋だけだろう? 俺も、レンディアから離れたくないんだ」
 そして、杯を一気に干した。
 セディムは黙って酒壺を傾け、ノアムに注いでやった。
 言葉を選びながら話す幼馴染の横顔に、セディムは複雑な気持ちだった。
 自分よりも二つばかり年上なだけなのに、昨年父親を亡くしたノアムはその代わりをつとめようとしている。だが、好きな娘をそう簡単に諦めることもないだろうとも思う。
 しかし、当のノアムはもうさっぱりとしているらしい。
 セディムと、事情をうすうす知っていたスレイは顔を見合わせた。






 

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