真冬の光  第一部 晩夏 2章-2 真冬の光 目次 2章-4
 
第一部 晩夏
二章 兆し - 3

 
 座から少し離れたところでは、ラシードがひとり杯を傾けていた。
 彼も苦労の末に山鳥二羽をしとめて、それなり面目をほどこした。最初は他の男たちとともに炉を囲んでいたが、いつのまにか引っ込んでしまったようだ。セディムが干した酪乳と酒を持って行くと、ころころと乾いた酪乳を見て懐かしいと喜んだ。
「皆と会うのも久しぶりでしょう。こんなに端に座らなくてもいいのに」
 セディムはにぎやかな炉辺を示す。誰もがほどよく酔い、話に興じている。しかし、ラシードは首を振った。
「聞いていたのです」
「え?」
「風の音を、聞いていた」
 セディムは杯を持つ手を止めた。確かに風の音はする。明日も今日とおなじ穏やかな天候が続きそうだ。狩人にとっては良いことだ。だが――。
 若者の不思議そうな顔つきに気づいて、ラシードは笑った。
「風など珍しくもないでしょうな。だが、長年ここを離れていると、こんなものさえ懐かしくなるものだ。この地は美しい。吹く風も、容赦ない寒ささえも」
 これにはセディムも眉を寄せた。
「飢えて、寒さで命を落とすことがあっても?」
「ここではすべてが明快だ。生死も、苦労と充足も、すべてはハールの掌のうちのこと。心の底からそう信じることができる」
 ふいに誰かの笑い声と冷やかすような口笛が飛んだ。それをちらと見て、セディムは黙って杯を空けた。
 これがハールに守られた暮らしであることはよくわかる。だが、いつも何かがもどかしかった。
 初狩を許された頃から、セディムは長の代理として振舞うことを求められた。だが、あくまで代理であって実際には父の命に従うしかない。提案することはあっても、何ひとつ決めることはなかった。およそ責と呼べるものを担うこともなく、それがセディムにとっては苛立ちの種のひとつだった。
「平原ではどうやってヒラ麦を植え、狩をするのですか?」
 不満を忘れようと、セディムは身を乗り出して尋ねた。ラシードは笑った。
「敬語はいりません。どうか、長の下に集う村人の一人として扱っていただきたい。――そう、平原は豊かだ。あなたには思い描けるだろうか、春でもないのに満々と水をたたえた広い川面を」
「大きな水流のことだろう。聞いたことはある」
「レンディアが二つは飲み込まれそうな幅の水流です。水は昼も夜も音をたてている。匂い立つ黒土とまっすぐに伸びた若木。穂波の揺れる畑がある。同じ広さの畑からレンディアの三倍の麦が得られるのです。狩人は牛ではなく馬に乗る」
「うま?」
「平地を駆けるのに向いている、イバ牛のように賢く、誇り高い動物ですよ」
 時に少々扱いづらいが、と呟きながら、ラシードは若者の杯を満たした。
「平原では狩の仕方もレンディアとは違います。どこまでもなだらかな丘と草原が続くから、獲物の姿が見えやすい。狩人の居場所もすぐわかる。だから、足の速い馬で追う、あるいは――」
「ああ。だから、姿を見せずに罠で捕らえるのか」
 セディムは呟いた。
 こんな風に説明されれば、なぜ平原では罠を使うのかがわかる。城臣たちに、ただ頭ごなしにやめろと言われると腹が立つのだが。
「――あなたは平原へ行きたいと思ったことはないのか?」
「え?」
 ラシードの不意の問いに、セディムは瞬きした。
「私やケルシュが若かった頃、山を下りて旅してみたいと考えたものです。今のレンディアの若いのもそう思うのか?」
 セディムは炉を囲む仲間の方を見やった。
 平原とはあまり深く関わるなという風がレンディアには根づいている。
 行くのはいい。だが、彼らは彼ら、わしらはわしら、と年寄りたちは言うのだ。確かに、年に一度だけ市場へ行くのは皆の楽しみだ。レンディアでは手に入らない珍しい肉、美しい色石などが手に入る。だが、長居したいと言い出す者はめったにいない。町の暮らしはあまりにめまぐるしいからだ。
 若者は少し考えてから、素直な目線を返した。
「……見たことがないので、行きたいかどうかわからない」
 これにはラシードも声をたてて笑った。
「なるほど」
「でも、知らないところを一度見てみるのも悪くない、とは思う」
 そう答えて、セディムはふと気づいた。
「父も、昔は旅に出たがっていたのですか?」
 ラシードはうなづいた。
「そう。口には出さなかったが」
「言わなかった?」
「先代は病がちであったからな。ケルシュは一日も早く跡を継ぐことを望まれていた。それに応えるつもりだったのだろう」
 しかし、セディムは納得いかなかった。
「長となっても、旅はできるはずだ」
「私もケルシュにそう言った」
 ラシードは目をそらして、傍らの酒袋に手を伸ばした。
「だが、奴はもう決めていた。村人の心中を思えば行けない、と。長はハールの子、やはり村から離れて欲しくはないものだ。特に、あの前の年の収穫は良くなかった」
「でも……。別に、長がいるから収穫が約束されるわけではないのに」
「それでも、ケルシュは残ることを選んだ」
 ラシードは遠い目をした。
「理由はどうあれ、長は皆の願いを裏切ることなどできないものだ」
 セディムは黙って杯を啜った。
 自分が生まれる何年も前に、父とこの男は何を語って別れたのだろう。そして、父の決断を理解できない自分が情けなかった――いつになったら自分は、少しはましになれるのだろう?

 やがて夜もふけて、炉の火も小さくなってきた。
 快く疲れきった狩人たちはあちこちでごろりと転がった。毛皮にくるまって横になれば、そこが寝台だ。その、しだいに静かになる小屋の中で。
「……何故、長は収穫を急がせるんだろう?」
 誰かの呟きが、眠気にさそわれるまま毛皮に倒れこもうとしていたセディムの耳をとらえた。身を起こして、そっとふり返ると年嵩の狩人たちが埋み火を囲んでいた。
「まだ、夏の風が吹いている」
「実がまだ軽い。もう少し待った方がよかったのではないか」
 男たちの声には不安が濃く暗くにじんでいた。村人は何も考える間もなく夢中で働いている。だが、やはりやり場のない不安は残るのだ。
「長は間違われんよ」
 きっぱりとした声はスレイの父親ドルモのものだった。
「我らの考えもハールへ伝えて下さってる。だから、長が刈入れを、と言われるなら。それが良いとハールが示されたということだ」
 男たちの間からつぶやきがもれた。きっと同意とハールを称える決まり言葉だったろう。
 セディムは彼らに背を向け、毛皮の間にもぐりこんだ。
 皆が納得した。反対しているのは自分だけだ――多分、まだ一人前でないから。すっかり自信をなくしたセディムは毛皮にくるまり、さらに固く目をつむった。
(一日でも長く陽気が続けばいい。麦が重く実るといい)
 自分にどうにもならないことは、願うしかない。だが、苛立ちと不安とが胸にしこり、なかなか寝つかれなかった。

 それは翌早朝だった。なにかに呼ばれたような気がして、セディムは目を覚ました。
 薄明るい小屋の中、周りの男たちはまだ深い寝息をたてていた。何に起こされたのかわからず、セディムはしばらくぼんやりと天井を見上げていた。空気はしみるように冷たく、それに何か覚えのある匂いがする――それに気づいて、セディムは跳ね起きた。
「まさか……」
 隣で眠っているノアムを踏んだことにも気づかず、セディムは小屋から転がり出た――自分の目が信じられなかった。
 日の出まぢか、青い闇に沈む岩地にはうっすらと白いものがかかっていた。薄光の加減で岩がきらきらと反射しているかのようにも見えたが、それは疑うべくもなかった。
「おい、セディム。ひどいぞ、踏んで……」
 渋い顔で小屋から出てきたノアムも目の前の光景に言葉をなくした。狩人たちも次々と起きてきて、辺りの様子に目を瞠った。
「雪、だと?」
「まだ風月もなかばというのに?」
 空の色も風も、まだ夏の朝のものなのに――これは何かの徴なのか。狩人たちの間に不安が漂った。
「すぐに村へ戻ろう」
「城臣たちに知らせて――」
「待ってくれ」
 ざわめく男たちの間、固い声をあげたのはセディムだった。
「このまま狩を続けた方がいい。何が起きているのか、わからないが……」
 そう言いかけて、唾を飲んだ。
「でも、ともかく獲物を手に入れる方が大事だ」
 年長の狩人たちは顔を見合わせ、やがてうなづいた。確かに、狩人のするべきことは決まっている。結局、セディムが一人で城へ知らせに戻ることになった。
 何かの間違いのような頼りない雪だった。
 太陽が遠い稜線をはなれると薄雪はあっというまに融けて、あとは昨日までと変わらない、夏の空がもどってきた。
(でも、あれは夢でも何でもなかった)
 明るい日差しのもとというのに、イバ牛を急がせるセディムは悪寒を覚えてならなかった。






 

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