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第一部 晩夏 |
二章 兆し - 4 |
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それから数日後の昼さがり。城のひんやりとした石の廊下を、ラシードはひとりぶらついていた。 遠くの畑からは麦の束を運ぶ村人の歌がゆるゆると聞こえてくる。窓の外を見やると、そこには木の護符がぶらさがっていた。もう何年も風雪にさらされてきたのだろう、すっかりまろやかな形になって風に揺れていた。 「ハールに感謝を」 呟きながら、ラシードは胸の前にそっと祈りの印をむすんだ。 そのとき、静けさをやぶるように、行く手の階段からにぎやかな笑い声が響いた。村の子どもたちだ。 ウサギのような勢いで飛び出してきた先頭の子は、薬師にぶつかりそうになって叫び声をあげた。だが、後ろの子供は止まりきれずに仲間に体当たりした。結局、彼らは団子のように固まってラシードの腕の中に飛び込んできた。四、五人の好奇心いっぱいの目がラシードを見上げた。 「おじさん、どこから来たの?」 「エフタのひと?」 「いや……」 「それじゃあ、峰のむこう?」 何とも言い難くて口ごもると、別の子どもが誇らしげに言った。 「違うよ! ねっからへいげんのにんげんだ、って。父ちゃんがそう言ってたもん。ねえ、『ねっから』ってどういう意味?」 ラシードは言葉に詰まった。子どもが口にした会話からは冷ややかなものが伝わってきたからだ。 「……難しくて俺にはよくわからんが。だが、父さんは物知りだな」 これを聞くと、当の子どもはぱっと顔を輝かせた。 「平原からきたの? どうしてきたの?」 「平原にはイバ牛がいないって本当?」 この自分が実はレンディアの人間なのだ、とどう説明したものか、ラシードは質問の嵐にとまどった。その時、廊下の奥におとなの影がさした。 「こら。おまえたち、そろそろ牛を見に行かなければならない時間だぞ」 その声に、ラシードは息をのんだ。忘れようのない声だった。 現れたのは、明るい瞳をした男だった。別れて何年たっても、その実直そうな風貌は変わらない。子どもたちが歓声をあげて走り去る、その流れの中に取り残された岩のように、二人の男はだまって顔を見合わせた。 「……ウリック、久方ぶりだな」 ラシードはようやく口をひらいた。だが。 「まったくだ。ここで何をしていた」 こたえた言葉には何の愛想もなかった。再会したとて歓迎されないかもしれない――ラシードはそう覚悟はしていたが、小さく溜息をついた。 「薬師部屋へ。お前を探しにいくところだった」 「……薬師部屋は向こうだぞ」 「何だと?」 城には新しく建て増したらしい通路がいくつもあった。ウリックはラシードがやって来たもとの方向を指し示し、冷ややかな声で言った。 「故郷の城で迷うなど、ありえんな」 ラシードは返す言葉もなかった。 塔の階上の薬師の部屋は、二人の養い親だった薬師の婆が居た頃そのままだった。 ここは昔と変わらない、とラシードは目を細めた。 炉のそばに積まれた乾いたタパレ(牛糞。炉にくべる燃料)、いぶして干した葉、経年で色の変わった木の根の束がいくつも天井からぶらさがっている。まるで、洞穴の入り口にさがるつららのようだ。腰にさげた鞘をよけ、薬草にぶつからないように身をかがめながら、ラシードはふと気づいた。 小柄な老媼や少年ならともかく、壮年の男が動きやすい部屋ではない。いつ頃、ウリックが跡を継いだのかは知らない。だが、彼は薬草の干し場所も昔のままに使い続けているのだ。 思えば、ウリックは大人のすることを注意深く真似する子供だった。 ひとつずつ少しずつ、着実に事を覚える少年で、それは昔ながらのレンディアの生き方そのものだった。一方、ラシードは誰も知らない岩場へばかり薬草を探しに行きたがるような子どもだった。性格は正反対だったが、それでも同じ薬師を志す二人は仲はよかった。血のつながりは無くとも兄弟だったのだ。 だが、それも昔のことのようだ。ウリックは再会してから一度も笑顔を見せていない。 「座らんのか」 ふいに声をかけられて、ラシードははっと顔をあげた。 「……ああ。まず、これを渡しておこう」 腰の剣帯の小さな袋を手にとった。口紐をほどくと中から強い匂いとともに小さな草の実がこぼれる。 「それは何だ」 「モルカと似ているが、もっと強い薬草だ。煮出して使うといいだろう。熱に効く」 ラシードは中身を袋にもどして、あらためてウリックにさし出した。 だが、ウリックは手を出さなかった。袋をろくに見ようともせず、 会話はそこでぱたりと絶えてしまった。ラシードはとうとう音をあげた。 「……帰るのが遅くなった。すまん」 「それで、済むと思っているのか」 ウリックの目は冷ややかな怒りに光った。 「お前は約束を違えたのだぞ!」 二人は互いを見合って、身じろぎひとつしなかった。 ラシードが平原への旅に出たのは、二十歳になるか、ならぬかという頃だった。近いうちに薬師の婆の跡を継ぐと思われていた。だから、平原で新しい知識や見知らぬ薬草を手に入れて二年か三年で故郷へ帰る――そのつもりだったのだ。 「何故もっと早く、こんな薬草を持ち帰らなかった?」 ウリックは怒りに震える声でラシードに喰ってかかった。 「これさえあれば、何人かの病を治せたかもしれない。それに、長妃が亡くなったあと、お前がいればと皆がどれだけ考えたと思うのだ」 ラシードは目を細めた。 「……跡継ぎのことか」 「セディム様もまだ幼かった。長に何かあれば、レンディアはどうなるかと気がもめた。いや、それよりも子どもの身に何かあればどうなる? もし、お前が約束どおりに帰っていたら。妻を娶って、子をなし……」 「まさか」 ラシードは固い笑みを浮かべたが、それがウリックをさらに苛立たせた。 「――二十年とはな」 握りしめた拳を下ろしたが、それが緩むことはなかった。 「長はお前の帰郷を受け入れた。だから俺も長に従おう。だが、それだけだ」 ウリックはあらためて兄弟子の顔を睨めつけた。 「新しい薬草もよかろう。だが、病人が欲しいのは、今、薬を飲ませる手だ。お前は勝手だ。先走ってふり返らない。故郷を忘れて、仲間の命を見捨てた薬師など許すわけにはいかない」 「お前の言うことは正しい」 ラシードはウリックの目を見つめ返して答えた。 「……だが、レンディアを忘れたことなど一度もない」 その時、塔を駆け上がってくる足音が重く響いた。 戸口を振り返った二人の前に顔をのぞかせたのはヤペルだった。息を切らせながら、厳しい表情をウリックにむけた。 「長が城臣みんなを呼んでおられる。ウリック、お前も来てくれ」 そして、かたわらのラシードを見ると、 「お前もだ」 短く言いおき、あわただしく階段を下りていった。ラシードとウリックは顔を見合わせた。 |
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