真冬の光  第一部 晩夏 2章-4 真冬の光 目次 3章-1
 
第一部 晩夏
二章 兆し - 5

 
「八か月の冬?」
 長の間に集まった城臣たちの間にささやきが交わされた。
 城臣と薬師二人、長のかたわらにはセディムの姿もある。だが、長ケルシュの言葉はその誰も予想しないものだった。
 数日前、城臣のロカムが空がおかしい、と言いだした。ロカムは空見風見に長けていて、嵐の前触れによく気づく。山鳥がいない、と村人が知らせてきたのはその翌早朝。
 そして、その日の午後になって、狩に出たはずのセディムが突然一人で城へ戻ってきた。もたらされたのは、季節はずれの薄雪の知らせだった。それを聞いたとき、ケルシュの脳裏に古い年代記の言葉がよみがえったのだった。
 石壁を覆う、いかにも手の込んだ古い壁掛け飾り。その前の低い椅子についた長は城臣たちのとまどい顔を見渡した。
「……そう。百年ほど前、長く、厳しい冬があったと年代記に記されている。実月から待ち月の末まで、レンディアは雪に閉ざされたそうだ」
 驚きの声が抑えきれずに広がった。セディムもおもわず腰を浮かしそうになって、あわてて座りなおした。
「八月(やつき)の雪とは」
「何ということだ」
「では、実月の風が嵐に、待ち月の雨が雪になるということですか?」
 ざわめく城臣らの中から、ヤペルが渋い表情で尋ねた。
 待ち月といえば、春。山の空気もその頃には温まり、気まぐれに霧雨など降らせることもある。ヒラ麦の苗を畑に植え替える時期なのだが――。
 長はそれに答えるかわりに、かたわらの年代記の束をセディムに示した。
「セディム、皆に読んで聞かせなさい」
 書物は古く、幾度も綴りなおしてある。ごわごわと音をたてて開き、薄くなった飾り文字を指で辿りながらセディムは読みあげていった。
「待ち月末日。いま一度の雪嵐……」

 実月初めの雪嵐から、すでに八ヶ月。雪融けの気配もない。麦の植つけの遅れが案ぜられる。
 雲払いは日の出の刻に行われた。薬草一束。
 残る蓄えは極めて少ない。
 タパレ残り二籠。干しタラ根二束。イバ牛の肉一籠。茶葉一袋――。


「……イバ牛をつぶしたのか」
 城臣の誰かが絞りだすように呟いた。
 レンディアでは普通イバ牛を食することはない。牛はともに狩に出て、乳をとり、畑を耕すもの。ハールが人の助けとするために与えたそれを食用にするなど、よほどのことがなければ考えられない。また、この年代記の時代の長はまだ伝承の力、アイルを持っていたらしく、文中には風を呼んだとか雲を払ったという言葉が幾度か出てきた。しかし、そんな長の力すら及ばない冬であったらしい。
「ここに書かれた年でも、風月に初雪が降っている。山の獣の冬支度も早かったようだ」
 長の言葉に城臣たちは顔を見合わせた。
「しかし、八か月とは」
「にわかに信じ難いのも無理はないが」
 そう言って、長はセディムから書物を受取った。
「だが、この百年なかったからといって、二度と無いとは誰にも言えまい。今のうちに、できるだけ多くの食糧を集めねばならない。残りの麦の収穫を急がせてくれ。雪が降ってからではもう遅い」
 冬のレンディアを思い浮かべ、城臣たちはうなづいた。今するべきことは明らかだった。
「麦の刈取りはあとどれだけ残っているのか」
「実月など、すぐそこだぞ」
「子供らにも、野葡萄や藪の実を摘ませましょう」
 ヤペルが苦い表情なのは、まだ青い果実を思い浮かべたからだろう。だが、熟するのを待つ時間はなさそうだった。
 城臣たちが次々に部屋を出て行く中、セディムも長に呼びとめられた。厳しい視線は父ではなく、やはり長のものだった。
「年長のドルモと相談して、狩を続けなさい。なるだけ多くの獲物が欲しい。良いな」
「……はい、わかっています」
 セディムは惨めな思いを隠してうなづき、拳を握った。
 あれほど自信をもって収穫を遅らせるように頼んだのに。結局は父の判断の方が正しかった。もし、セディムの言葉どおりに刈入れを日延べしていれば、何の収穫もないまま、不意打ちの薄雪に畑を潰されていただろう。
「父上。こうなることはご存知だったんですか?」
 誰もいなくなった部屋で、長は窓辺から遠い山並みに目をやった。
「夏の初めから、厳しい冬になるかもしれないと考えてはいた。もっとも、初雪がこれほど早いとは思わなかったがな」
「まさか……牛をつぶすことになるのですか」
 声が震えそうになるのをこらえてセディムは尋ねた。ともに狩に出る仲間は村人ばかりではない。苦労を分かちあってきたイバ牛を食べるなど考えたくもなかった。しかし、ケルシュは首を振った。今はまだそこまで考えることもないだろう、と。
「父上、お願いがあります」
 セディムは長の顔を正面から見つめた。
「もう一度、罠を試してみたいのです。できることは何でもするべきではありませんか?」
 たびたび繰り返された話に長は即座に首を振りかけた。が、いてもたっても居られないセディムの表情に、ふと長の目が細められた。
「罠をつくる、とお前は言うが……罠を仕掛けて、その後どうするつもりだ?」
 ふいに開いた風穴に気づいて、セディムは目を瞠った。
「――数日に一度、狩に出る時に見回ります」
「それから?」
「最初に数多く仕掛けておけば、獣道も見えてくるはず。次には、その周辺に罠を置きます」
「それから、お前はどうするのだ」
「すぐに支度を始めれば、かなりの数の罠を作れます。東の岩場から始めて――」
 セディムの声には次第に熱がこもった。だが、長は心動かされた様子もなく首を振った。
「そうだな。うまくいけば、確かに獲物は増えるかもしれん。だが、お前は忘れていることがある」
「忘れている?」
 セディムはとまどいを覚えた。罠については、暇さえあればあれこれ試して考え抜いてきたつもりだ。いったい何が間違っているというのか。
 考え込むと幼さを取り戻すその顔を長は見つめ、しばらく答えを待っていた。が、やがて口を開いた。
「――わからぬなら、この話はここまでだ」
「父上!」
「セディム」
 父は息子の両肩に手を置いた。
「よいか。よく見ておけ。長い冬をこの父がどう乗り切るかを。いつの日か、この経験を思い出せるようにな」
 セディムは歯を食いしばった。頷きたくなどない。だが、他にどうしようもなかった。
「……はい。必ず胸に刻むようにします」
 すべて飲み込んだまま、部屋を出るしかなかった。
 
 後になって。父とかわしたこの言葉を思い出すたびにセディムは苦い思いにとらわれた。この年の冬のことは、確かに忘れられないものとして長く心にとどまることとなった。

 その日から、レンディア中があわただしく動き始めた。
 数人の男たちが毛皮の束をイバ牛にくくりつけて山を下りた。ふもとの市で麦と取り替えるのだ。残った男たちは狩に出ていった。普段は家の奥に鎮座している老人までが籠や石鎌を手に畑に出てきた。女たちは芋や根菜を干して食糧庫にぶらさげ、子供たちは朝日の昇る前から粗朶を拾った。
 イバ牛たちは始終山に放されて、たらふく詰め込めるだけ草を食わされていた。冬の間に燃やすタパレも必要だ。晴天が続くうちは外に干して、少しでもよく乾かさなければならない。畑の野菜もすぐ摘み取ってしまおう――。
 冬が近いとなれば、やるべきことは山積みだった。そして、ヒラ麦の刈入れ作業を追いたてるように、朝晩の風には光る氷の粒が混じるようになってきた。






 

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