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第一部 晩夏 |
三章 離別 - 1 |
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岩陰にたたずむウサギ。その灰色の姿に、セディムは狙いさだめて矢を放った。 鋭い音をたてて風を切った矢は、しかし岩に当たり、つづく一矢もかわされた。難を逃れたウサギは左右に飛び跳ね、あっという間に姿を消した。 あとには風が残るばかり――セディムは弓を手に立ち尽くしていた。そんなあるじの気持ちを知ってか知らずか、ルサも落ちつかなげに蹄を掻いていた。 あの長の間での集まりの後、山の風はあっというまに冷たくなった。曇った日には氷の粒が頬を打つこともある。 この数日、男たちは狩小屋を渡り歩きながら狩をしていた。村へ帰る時間も惜しいからだ。だが、獲物はみな小さく、苦労の割にはたいした量の肉はとれていなかった。 セディムはがっかりしながら岩に落ちた矢を拾った。このあたりにくると潅木は完全に姿を消し、あるのは岩と苔、夏には可憐な花をつけていた野草だけだ。しかし、その花も今はしわがれ、岩の上に散っていた。 「セディム様」 蹄の音と仲間の声に振り向くと、数人の狩人が岩根を越えて登ってくるところだった。 「首尾はどうです」 「獲物は?」 しかし、セディムは黙って獲物を掲げて見せた。小さな山鳥が一羽だけ。他の狩人たちも似たようなものだった。まるで、山から獣がいなくなってしまったようだ。 「夏も短かったからな。ウサギも太る間がなかっただろう」 「だが、これだけ探しまわって、見つかるのがちっぽけなウサギや地リスでは割りに合わん」 乏しい成果を前に、男たちは顔を見合わせた。 「せめて、鹿が見つかればいいのだが」 「慈しみのあふるるごと……」 「……山に恵みを。待つしかなかろうな」 祈りの結句を返しながら、狩人らは風吹く山並みを見渡した。こんな小さな獲物をあとどれだけ捕らえれば、人間の冬支度を整えられるのだろうか。 セディムもあせりに手を握った。 このところ、父とのちょっとした衝突さえ重苦しく思うほど、セディムは気が滅入っていた。自分が未熟であることは、よくわかっている。だが――。 (忘れている、って、何のことだ?) 悔しさに唇を噛んだ時、うしろに蹄の音がした。 褐色のイバ牛に跨ってやって来たのはスレイだった。背筋を伸ばし、誇らしげに弓を握っている。その姿に一瞬なやみを忘れて笑みがこぼれた。 「決めたのか」 スレイは得意げに若い牛の首を軽く叩いた。 「こいつが一番合うと思ったんだ。気もいいし、大きくなるだろうって、シスカも言ってくれたよ」 「いい牛を選んだな」 セディムも自分のことのように嬉しかった。 相棒の牛を選ぶのは、初狩を許された少年の最初の仕事だ。セディムがルサを選んだ時も最後まで迷ったものだ。目の前で苔を食む若い牛は人間で言えば十歳くらいで、スレイにはちょうどいい。 「名前は決めたのか?」 「いや。一番いい名前をつけてやるから、まだ考えてるんだ」 スレイはそう話すだけでもわくわくしている。セディムは思わず笑ってしまった。 「はやく決めろよ。牛の方でもお前を気に入ってくれないと、一緒になんてやって行けないぞ」 「ああ」 そう答えながら、少年はぼうっとした目で空をうかがった。 「今日は、特によくできた矢を持ってきたんだ。これにハールが目をとめて、もっとたくさん獲物を送って下さったらいいな。――セディム?」 「いや、何でもない」 セディムはおもわず目をそらした。ため息を落としたのを聞かれまいと、手にした矢を弄んだ。 (やっぱり、そう思うのか) やましい、というのが当たっていたかもしれない。 罠を諦めたくはない。その一方で、天に対して後ろめたい狩などしたくないと思っていた。レンディアに生まれ育った者にとっては、ハールこそが獲物を与えることは、飲んだ水が腹に入るくらい明らかなことだ。だが――。 セディムは軽く頭を振って堂々めぐりの思いを押しのけた。ルサの横腹を膝で締めて促すと、イバ牛はすこし不満げに鼻を鳴らしたが、主にしたがっておとなしく歩き出した。 空は淡い雲に覆われ、日の光は弱まりはじめていた。朝から離れて獲物を追っていた狩人たちも集まってきた。だが、彼らが手にしていたのも小さなウサギ二羽だけだった。 「これでは、埒があかない」 「せめて雪鳩を捕らえられれば……」 誰かがそう呟いた時だった。 突然、峰から強風が吹いた。万年雪の上をぬけてきた風は底抜けに冷たい。セディムはぞっとしながらルサの首にしがみついた。狩人たちの望みも、そしてセディムの迷いもハールが一喝したように思えた。 「今夜は風が荒れそうだな」 アデルがぼそりと呟き、峰を仰いだ。 迫りつつある冬を思わせる風に、誰からともなく祈りの言葉を口に上せた。村人のどの顔にも疲れが滲んでいた。毎日、寝る間、食べる間も惜しんで牛を駆っているのだ。そして、成果が乏しいことが何より堪えていた。 「ウサギでもリスでも、食べられることには違いないさ」 セディムは、そんな村人を勇気づけるように笑ってみせた。 「それに、雪鳩狩にはまだ早い。今ごろから雪鳩が降りてくるようでは、城が雪で埋まってしまうだろう?」 これを聞くと男たちはほっとして笑いくずれ、手に手にもう一度弓を握った。 「そうですな」 「矢は放たねば当たらない。陽が落ちる前に、もうひと踏ん張りしよう」 「山羊どもめ、どこの塩場へ行ったものか?」 「巣穴はないか」 セディムは大きく息を吸い、背筋をのばした。 (いつまでも、ずるずると思い悩んでどうする?) 罠のことは諦めなければ。あてのない細工をする余裕などない。それより、スレイと同じように狩の成功を天に祈ろう。冬はすぐ目の前だ。 ふいにルサが歩みを落とした。首をのばし、そこらの苔をむしり食いはじめた。セディムはおもわずふき出し、笑った。 「ルサ、悪かった。狩をやめたわけじゃないんだ」 ぐぐう、と低いうなり声をたてる牛をなだめようと、首すじをこすってやった時。 遠い呼び声にセディムは我にかえった。見れば、はるか眼下の岩地を登ってくるイバ牛の姿がある。狩人らも気づいて、手綱を引いた。 「あの声はチャルクだな」 「おお、帰ってきたのか」 チャルクは何日も前に毛皮を持って山を下りた。交渉ごとに長けているのを見込まれて、ふもとの村の市に毛皮を売りに行ったのだ。だが――。 「何かあったらしい」 男たちは顔を見合わせた。セディムはルサの首を軽く叩き、すぐさま駆け出した。 チャルクはくたびれた旅装束のままだった。おそらく、ふもとからの荷を下ろしてその足で追ってきたのだ。ただごととは思われなかった。チャルクは岩の間を下ってくるセディムに気づくと、ほっとした様子で手綱をたぐって牛を寄せてきた。 「セディム様、すぐに城へお戻りください」 「何があったんだ?」 だが、チャルクは申し訳なさそうに首を振った。 「俺も詳しくは聞いてないんです。ただ、ウリックがセディム様を呼べと」 「ウリックが?」 「長に何かあったようです」 セディムの顔色が変わった。 「セディム様。狩のことはお任せください」 その肩を叩いたのはローシュだった。狩に出た者を呼び戻すなど余程のことがなければしない。しかも、薬師が呼ぶなら好ましくない話に決まっている。 「悪いが、頼む」 セディムは低く答えて、手綱を繰りだした。イバ牛は軽い身のこなしで岩場を下りはじめた。残されたチャルクもあわてて後を追った。 (病か、怪我だろうか) ツルギの峰からの冷たい風にセディムは身震いし、面布を目元まで引き上げた。 悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。狩に出る前に見た父は城臣とともに忙しそうに働いていた。どこも具合が悪いようには見えなかったのだが――。 ふと、去年の春先に病が流行ったことを思い出した。春のぬるい風がレンディアに吹いたあと、だるさや熱を訴える者が急に増えたのだ。あんな風に突然に病がやってきたのだろうか。 「セディム様、……を」 風に途切れがちな声に我に返ると、すぐ後ろでチャルクが松明を差し出していた。 「足元を照らして、あとは牛に任せましょう」 気がつけば陽が落ちて、うすく焼け残った陽光も消えつつあった。暗がりでは昼間と同じように山道を駆けるわけにはいかない。セディムは唇を噛んだ。 足元から這い上がる夜の闇が辺りを包もうとしていた。 一刻もはやく城へ――そればかり考えながらも、風が運ぶ匂いに、もしかするとこのまま雪になるかもしれないとぼんやり感じていた。 |
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