真冬の光  第二部 早雪の底 1章-2 真冬の光 目次 1章-4
 
第二部 早雪の底
一章 早雪の底 - 3

 
 風が城からはぎとっていったのは、壁だけではなかった。
 夏に窓の外に揺れていた護符は風に引きちぎられて無くなっていた。鎧戸の隙間に詰めた粘土は削り取られてしまった。村人らは城中の窓枠を調べ、粘土を詰め直した。春までには何度も同じことをしなければならないだろう。
「おい、ここに土を盛ってくれ」
「そっちは終わったのか?」
 陽があるうちに仕事を終えようと村人らは忙しく働いていた。
 その中で、ラシードは黙々と土をこねていた。城の中をぶらついているところを昔馴染みのアデルに引っ張り出されたのだ。やることは山ほどある、お前も働け、とアデルは昔のままのおおらかな声でラシードを呼び、そして、こき使った。
 だが、誰もがそうではなかった。用心深い目、その目をそらす者。再会してから一度も声をかけてこない者もいた。
(二十年も留守では、城のことはわかるまい)
(もはや、よそ者だ)
 ひそかな呟きは当人にも聞こえたが、ラシードは何も言わなかった。
 手を休めれば、窓の外には眩い雪の斜面が見渡せた。遠くに黒い点々が散っているのは、どうやら雪鳩狩の一行らしい。その歩みは、ここからではもどかしいほど遅い。
 今年の収穫が良くなかったことはヤペルから聞いていた。雪鳩狩は冬を迎えた山の民の最後のあがきともいえる。雪鳩が去れば、嵐ばかりの長い日々が待っている。ラシードは眉を寄せた。平原であれば、冬でも何かしら食物があるものだ。だが、山には何もない。
「――ああ、ギリスたちだな」
 ふいに声をかけられて、ラシードは我に返った。かたわらに立っていたのはアデルだった。
 いつのまにか村人たちは立ち去って、石の廊下には彼ら二人しか残っていなかった。アデルも手びさしして雪の原を眺め渡した。
「雪鳩が西の峰に移る前に、間に合えばいいがな」
 二人はハールの恵みを願い、祈りの言葉をとなえた。
 鋭い風の音が絶え間なく続いていた。彼らはしばらくそれに耳を傾けていたが、やがてアデルがぽつりとこぼした。
「……なあ、ラシード。お前ならどうにかできたのか?」
「何だ?」
「ケルシュ様のことだ」
 風の音とともに窓が揺れた。アデルはためらったが、意を決したように尋ねた。
「もしも、お前が診ていたら。ケルシュ様は今も元気でいらしたのか?」
 ラシードはアデルを見つめた。
「――いや。それはない。同じ薬師の炉辺で育ったのだ。俺もウリックと同じ薬草を選び、同じ薬湯をつくっただろう」
「そういうものか?」
「そうだ」
 薬師のきっぱりとした答えに、アデルは力抜けたように項垂れた。そして、ウリックの腕を疑うわけではないのだが、と申し訳なさそうに口ごもる。
「もしも、と思うと諦めがつかなくてな。まだまだお若かった。あんなことになるとは思わなかったんだ」
「……」
「いや。だが、これではいかんな」
 そう言うと、アデルはうん、と気張った。
「くよくよとこんなことを考えては、ケルシュ様も悲しまれるだろう」
「そうとも。それにあの若長もだ」
 ラシードも深くうなづいてみせた。
 だが、薬師自身もまたやりきれない思いだった。
 あの時こうしていれば、もしこうだったら――それは、薬師にこそついてまわる思いだ。まして、自分はケルシュの肩のことを知っていた。どうして、診させろと無理にでも言わなかったか。死とはハールの招きなのだから、ただ嘆くのは間違っている。それでも自問せずにはいられない。そして、ウリックも心穏やかではないだろうと察せられた。
 ひと窓を仕上げて、次に取り掛かろうと歩き出した時。
「――ところで、お前」
 ふいにアデルが尋ねた。
「ずいぶん暇そうにしているが、ウリックの手伝いはしなくてよいのか? そら、草を干したり、ちぎったり……」
「いや、断られた」
 ラシードは土をいれた皮袋を肩にかけなおし、自嘲気味に笑った。
「とうとう愛想をつかされたようだ。それに、得体の知れない薬師はいやだと言う者もいるだろうから。手を出さん方がいいのだ」
 皮肉な冗談を言ったつもりだった。だが、アデルはそんな言葉に惑わされはしなかった。
「おい、平原でいったい何があった」
 立ちどまって旧友を見つめ、尋ねた。
「何故、すぐに帰らなかったのだ? 城臣どももケルシュ様も、どれだけ案じていたか。それとも、どこか腰を落ち着けるところでも見つけたのか?」
「アデル、そうじゃない」
 ラシードは笑った。
「薬草を山ほど携えて帰ると皆に約束したのに、手に入れたのはほんのひと袋。どの面さげて帰れると思う?」
「お前がそんなしおらしい面なものか。厄介ごとにでも巻き込まれたのか?」
「ああ、それもある。平原は面倒の種には事欠かない。町にいても、旅に出ても――」
 しかし、アデルは渋い表情で遮った。
「やめろ、やめろ」
 ラシードの弁明はいかにも嘘くさかった。
 アデルは本気で案じているものを、あいまいに濁されるのが不愉快だった。村人がラシードを疎むのは、その風体も行動もレンディアの者とはかけ離れて見えるからだ。だが、彼はそうは思っていなかった。
「どうして、ちゃんと俺を見て答えんのだ。少しばかり平原訛りにはなったが、腹の中は昔と同じだろう? だから、俺は尋ねたのだ」
 だが、薬師の答えはなかった。
「お前もいかんのだぞ」
 アデルは腹立たしげにラシードの腰を指差した。提げられているのは山の民には馴染のない剣だった。
「皆がお前を遠巻きにするのには訳がある」
「すまないな」
 だが、ラシードはこの時だけはっきりと言って剣の柄に触れた。慣れた仕草であることはあきらかだった。アデルは心底不思議そうな目をした。
「はずさんのか?」
「ああ」
 アデルは幼馴染をしげしげと見つめ、やがて諦めたように首を振った。
「わからん。俺にはわからんよ。そんなものを手離せない暮らしと、ここでの暮らし。どちらがいいかなど考えなくてもわかるだろう」
「そうとも。山はいい」
 ラシードは穏やかに返した。
「だが――そこに俺が向くかどうかは、別の話だ」
 アデルは眉をひそめた。
 目の前の男は幼馴染のはずだった。目の色も、少し揺れるように歩く癖も変わらない。だのに、言うことも冷ややかな皮肉も他人のようだ。それをどうやって受け止めればいいのか、アデルはわからなかった。
「お前。まさか、また出ていくつもりなのか?」
 だが、ラシードは否とも応とも答えなかった。
 その横で、風にまきあげられた氷の粒が鋭い音をたてて窓を打った。






 

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