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第二部 早雪の底 |
二章 突風 - 2 |
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「ギリスが……帰ってきません」 息を切らせて長の間に飛び込んできたのはドルモだった。 狩衣の肩にはうっすらと雪が残っている。長と城臣たちは思いがけない知らせにざわめいた。 「一人で?」 「牛は一緒ではないのか」 ドルモは唾を飲み、悔しそうに首を振った。窓の外は一刻前よりもさらに暗くなっていた。 彼らは獲物を少しでも増やそうと粘っていたのだが、やがて笛を合図に狩を切り上げた。風が巻き上げる雪で遠見も利きにくくなってはいたものの、その時までは間違いなく全員いたという。狩人たちは並んだり、離れたりしながらイバ牛を駆って城へ戻った。 「だから、ギリスも誰かと一緒に走っていたと思ったのに……」 一同は言葉をなくした。外では風がうなり声を増している。その窓を横目で見て、セディムは短く尋ねた。 「ギリスを最後に見たのは?」 「青峰を背に、三つ岩が並ぶあたりです」 今の時期、その目印のすべてが雪に覆われているが、レンディアの者にはすぐにわかる。セディムは頷き、立ち上がった。 「日没まで、まだ間がある。手分けして探そう」 ヤペルははっと顔を上げた。 「セディム様、お待ち下さい――」 だが、セディムはふり返り、城臣を睨めつけた。 「まだ、降り始めたばかりだ。今なら間に合う。見つけられれば助かる。――行こう」 セディムはドルモを手招き、そのまま階段を駆け下りていった。残された城臣たちは顔を見合わせた。 ツルギの峰はすでに雲につつまれていた。雪つぶてが風にあおられてうねっている。だが、じきに陽が沈めばそれも見えなくなるだろう。 「――ギリス!」 「ギリス。どこだ」 男たちは繰り返し叫んだが、返ってくるのは風の音だけだ。指笛を吹いてイバ牛を呼ぶ者もいた。めったなことでは主と離れないイバ牛を見つけられれば、と考えたのだ。しかし、視界のどこにもそれらしい影は見えなかった。 セディムも口元をおおう面布を引き下げて、もう一度村人の名を呼んだ。 そのとたん、風が息をうばい、必死で吸った冷気が棘のようにのどを刺した。咳き込むのをこらえて、セディムは唇を引き結んだ。 もっと早く狩を切り上げるべきだったのだ。だが、嵐の危険を身に染みて知っているはずの男たちが機を誤った、その理由はひとつしかない。 「長――!」 風に途切れがちな声に振り向けば、ノアムがイバ牛を駆ってくるところだった。辺りは灰色の夕闇に包まれつつあった。 「見つかったか?」 しかし、ノアムは首をふった。 「でも、もう引き上げた方がいい。このまま探し続ければ……」 「諦めるのか!」 思わずセディムは怒鳴った。だが、そのとき頬が鋭く痛んだ。触れると血がついていた。氷のかけらが風で叩きつけられたのだ。あとから駆け寄ってきた男たちも険しい表情だった。 「セディム様。ひとまず戻りましょう」 「ひょっとしたら、ギリスはこの先の狩小屋に辿りついたかもしれない」 セディムは歯を喰いしばった。 ギリスも自分も同じように食料のことを案じていたのに。自分は城に帰り、彼は雪の中に残されると思うとたまらなかった。諦めきれず、もう一度雪の原を見渡した。だが、見える影はどれも探しに来た村人のものだった。 雪嵐はその晩、次の晩までも続いた。 城の広間は村人であふれていたが、いつもの賑やかさはなかった。誰もが帰ってこない者のことを考えながら長い昼と夜を過ごした。城臣たちは手燭ひとつ灯した部屋で、遅くまで村人の無事を祈り続けていた。 そして、三日目の朝。ようやく風がやみ、薄日が雪の原を照らした。 静けさを取り戻した真っ白な丘の上に、黒い点があらわれた。それは、早朝に雪がやむと同時にギリスを捜しに出た男たちだった。ばらばらと散りながら村を目指して来る。 先頭の男は力強く腕をふり、叫びすぎて嗄れた声をなおふりしぼった。 「生きてる……生きてるぞお!」 その早朝から、男たちは仲間の姿を捜し歩いていた。ある者は最悪のことを考え、ある者は考えないようにしながら、ギリスの名を呼び続けた。 やがて、まぶしい雪の上をとつとつと近づいてくるイバ牛に誰かが気づいた。ギリスの黒尾の牛だった。牛に導かれて、とうとう彼らは仲間の姿を見つけた。 ギリスは岩陰の雪窪にはまりこんでいた。意識はないが、息はあった。雪から掘り出してみれば、右足を岩根にはさまれて動けなくなっていたのがわかった。その手は血に染まった山鳥を握りしめていた。どうにも抜けだせないと悟ってイバ牛と身を寄せ合い、獲物を屠って啜ったのだろう。そのおかげで、ギリスは命を繋いだ。しかし、その右手足は凍りついていた。 ギリスは暖められた薬師の間へ運び込まれた。 部屋にはギリスの弟や仲間が詰めかけたが、彼らは外へ追い出されてしまった。その中には気遣わしげな長の姿もあった。部屋に残ったのはウリックと若い薬師見習い、そしてラシードだけだった。 最初、ウリックはラシードを見て複雑な顔つきになった。手伝いがいるのではないか、という申し出にもためらった。しかし、それに目をとめたセディムがウリックを呼んだ。兄弟子の話を聞くくらいは構わないはず――そう強く頼んだので、ウリックも受け入れることにしたのだった。 薬師たちはギリスの濡れた服を着替えさせた。冷たい手足を最初は雪でこすった。急に温めてはよくないと考えられていたからだ。しかし、しばらくすると水ぶくれになって、こすることもできなくなった。そこで、湯につけたり幾重にも毛皮でくるんだ。その間もギリスは目を覚まさなかった。 冷えきった体はなかなか温まらず、温まってくると強い痛みがおそってくる。それをやわらげようと、薬師たちは薬湯をつくってはギリスの喉に流し込み、ハールの慈悲を願った。 凍った手足は元通りに温まるのか――それを確かめようと、ウリックは時折毛皮をめくってみた。しかし、その度に薬師の表情は険しくなっていった。 |
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