真冬の光  第二部 早雪の底 2章-3 真冬の光 目次 3章-1
 
第二部 早雪の底
二章 突風 - 4

 
 (おかしい。おかしいじゃないか、どう考えても――)
 セディムは早足に廊下をぬけて、うす暗い階段を駆け下りた。
 腹が立ってならなかった。長の権威とはこんなものだったのか? 神意はこのように示されるのか?
 セディムとてレンディアの人間だから、村人とともに祈り、父長の思慮深い言葉に従ってきた。もっとも、ハールの使いが歌とともに空から現れるなどとは考えてはいなかったが。
 しかし――。
(「何か」があるだろうと思っていた)
 例えば夢、あるいは雲のかたちに、証しとなるものが示されるかもしれない。あるいは見慣れぬ花や鳥の姿で現れるのかもしれない、と。
 セディムは歯を食いしばった。
(では、あの祈りは何なのだ?)
 朝に夜に天を仰ぐ村人らの姿が胸に浮かぶ。
 今日一日を無事で過ごせるように、山が平穏であるように、心からの祈りを捧げる。それに応えるハールの言葉は、こんな若造の思いつきなどではないはずだ。
 そして、同時に気がついた。村人から長への崇敬の念は、長の立場からはまったく違って見えた。
 セディムも幼い頃から長である父を敬い、慕ってきた。父神ハールへの祈りと長への信頼。この二つは胸の深いところで結びつくものだった。だが――。
 重い音をたてて扉を開き、おもてへ出たとたん、雪の白が目を射抜いた。セディムはおもわず立ちすくんでしまった。
「セディム様!」
 はっと顔をあげると、駆け寄ってきたのは壮年の村人だった。城までの坂道を一気に上がってきたのだろう、息をはずませていた。
「東の崖の雪がゆるんできました。おおかたの者はもう城へ移っておりますが……」
 数日前に見上げた雪の庇を思い出して、セディムは頷いた。
「ああ。城へ移るのが間に合ってよかったな」
 つい素っ気ない口調になったのに気づいて、セディムは唇を噛んだ。城臣たちへの腹立ちを他の者にぶつけるなど子供じみている。しかし、村人は顔を曇らせた。
「それが……。ミーチェが家から離れようとしないのです」
「何だって?」
「ハールが良いようにして下さる、などと言って。誰が言い聞かせても動こうとせんのです」
 ミーチェの名にセディムは思い当たった。
 老人はこの春に妻を亡くして、以来すっかり気落ちしていた。何かといっては峰を見上げたり、祈ったりしているのをケルシュも気にかけていた。
「声をかけてやってもらえませんか」
 村人は困りきった面持ちだ。「セディム様が来いと言えば、奴もきっと……」
 何故ひっぱってでも連れてこない、と怒鳴りそうになってセディムは思いとどまった。
 思い出ある家を離れたくないというミーチェの気持ちもわかる。そして、まわりの者が躊躇する理由も想像がついた。ミーチェがハールに祈るから――天から示されることしか聞こうとしないから。そこに踏み込んでいくことができないのだ。
「行こう」
 セディムは村人の肩を叩いて、足早に歩き出した。ミーチェを説得するまで雪の庇はもつだろうか。それこそ、ハールに祈りたい気持ちだった。
 誰もいなくなった東の辺で、石を積み上げた小さな家々は雪に埋もれそうになっていた。
 ミーチェの住む小さな小屋は薄暗かった。村人と長が声をかけながら入っていくと、炉辺だけがほのかに赤くまわりを照らしていた。炉の前には毛皮や鏃にする石鉄が並べられて、主が一日のほとんどをそこで過ごしていることが知れた。だが、細工物は何ひとつ出来上がっていなかった。
 一人、背中を丸めて座っているミーチェに、セディムは胸の奥が疼いた。幼い頃にノアムといっしょに遊びに来たときと同じ姿だったからだ。
 いや、同じではない。あの頃はふっくらとした笑みをたやさない妻マルヤがいた。
 きれい好きのマルヤは雪まみれの子供たちが家に駆け込んでくるとひとしきり文句をいいながら雪を落としてやった。ミーチェは弓を削りながら、それを眺めていたものだ。
 しかし、今のミーチェは誰が来ても気づきそうにもなかった。ぼんやりと炉を眺めて、粗朶を放り込む手つきも力無い。
セディムは老人のそばに片膝をついてしゃがんで語りかけた。
「ミーチェ、どうしたんだ。城へ移ると聞いただろう?」
 しかし、老人は静かに首をふった。
「ここの方が、あれのことをよく思い出せますのでな。ハールがお声をかけて下さるまで、ここに居ります」
 意外にも静かなミーチェの声にセディムはとまどった。
 彼は自分が何をしているか、よくわかっている。村人の説得も長の言葉もわかっていて、それでもここを動きたくないのだ。老人はセディムから顔をそらし、何も聞こえていないようなうつろな表情に戻ってしまった。
「抱えて、連れて行きましょうか?」
 一緒にきた村人が後ろからそっと耳打ちした。「命じて下されば……」
 だが、セディムはそれを目で制して、もう一度老人の横顔をのぞきこんだ。
「ミーチェ。ここにいても、ハールの言葉はないぞ」
 まわりの村人らは息をのんだ。こんなことを口にできるのは長だけだ。老人の淡い瞳がのろのろとセディムを見上げた。
「城に行けば、ハールが応えて下さると?」
 ミーチェの物憂げな問いにセディムは首を振った。
「いいや。城にいてもハールの声は聞こえない。まだ、その時ではないからだろう」
「では、あとどれだけ待てば宜しいか。明日か、一年後か?」
 老人はごつごつとした両手をのばして長の上着をつかんだ。それがハールの言葉であるかのように。
「いつになったら、ハールはわしを招いて下さるのか? 何故マルヤだけを先に招かれた?」
 老人の顔が涙にゆがんだ。その縋る力の強さをセディムは堪えて受けとめた。
 ミーチェは半年もこんなことを思い詰めていた。いつもと同じように牛を追い、村人とともに畑の世話をしていたのに。その間にも癒されない悲しみが積もっていたのだ。
 セディムは必死で続く言葉を探した。やっと老人の心をとらえたのだ。手放すわけにはいかなかった。
「ミーチェ。私もハールに幾度も尋ねた――何故こんな冬に父上を招かれたのか、と。だが、まだ答えはない」
「いつか答えがあると、セディム様は信じておられるか?」
 セディムはごくりと唾を飲んだ。
 神意がいつ示されるか、わかる者などいない。それでもミーチェが尋ねたのは、知りたいから。長ならば何かを知っていると信じているからだ。だが、すべてわかったような顔をして、いい加減な約束をすることはできなかった。
「ハールは答えを下さる」
 セディムはよくよく考えて慎重に言葉を選び、自分がわかることだけを伝えようとした。
「はっきり示して下さる。昔、マルヤはよく笑って教えてくれたな。あれこれ考えても、ハールのなさることは人にはわからない、と。それなら、この手は何のためにあるか、わかるか?」
 ミーチェの反応は鈍かったが、セディムは諦めずに言い継いだ。
「……答えを待つ間、要らぬ暇を持て余さないようにあるんだ」
 ミーチェはぽかんとした。周りにいた村人も同様だ。聞いたこともない理屈だった。しかし、セディムも必死だった。
「私もハールの言葉を待つことにした。だから、その時が来るまで鏃をつくろう。弓を削ろう。だが、待っているには、ここは少し寒すぎるだろう?」
 セディムは笑んだ。
「だから、ミーチェ、城へ行こう」
 セディムは上着をつかむミーチェの手をつつんで膝の上に置いてやった。ミーチェは自分の手に目を落とした。セディムの言葉をくりかえし考えているようだった。
 やがて膝の上で拳が握りしめられた。

 彼らが石の小屋をあとにしたのは小半刻後だった。
 村人らが手伝って運び出した老人の荷物は驚くほど少なかった。ミーチェ自身は妻との思い出の品――小さな糸紡ぎの棒――を手に、仲間に支えられるようにして小屋からまろび出た。
 そして、城への坂道を上りきった頃、先に歩いていた誰かが声をあげて中空を指差した。セディム、ミーチェ、そして村人たちは振り返って、崖の雪庇を見上げた。
 表面の雪が流れるように風に煽られていた。最初はかすかなきしみだけが聞こえた。その音がみるみる高くなり、山の空気を震わせる。やがて崖の上にせり出していた雪のかたまりは地すべりのように動き出した。そして、自身の重みに耐えかねて、あっけなく崩れ折れた。
 谷筋にどうという音が響いたのはひととき後だった。その振動があらたな力となったのか、崖から連なる雪の庇はふたたび崩れた。雪崩は斜面いっぱいに広がり、下にあった何もかもを飲み込んだ。岩も山道も、その下に寄り集まっていた東の辺の家々も。
 それを眺めて、ミーチェは呆然としていた。村人もセディムも言葉もなく雪が流れ落ちる様を見つめていた。
「――危ないところだったな」
 セディムは傍らのミーチェに呟いた。
「もし助かったとしても、雪まみれだ。マルヤはきっと怒ったぞ。何て姿だ、と」
 何て姿なんでしょう――少し高くて、山鳥とよく似た声を思い出して、ミーチェは目を瞠った。そして、涙がこぼれた。後から後からあふれる思いに老人は嗚咽した。
 その肩を幾度も叩いて慰めながら、セディムは苦いものでも噛んだような表情だった。同じ問いが頭から離れなかった。
 ――こんな時に、父は何を思っていただろう、と。






 

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