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第二部 早雪の底 |
三章 雪に閉ざされる - 4 |
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「失くした?」 「長旅をして手に入れた薬草です。だが、嵐に遭い、結局はるか南の海に沈んでしまった」 セディムは小さく息をのんだ。 「父が渡した護符は……」 「あれも、失くしてしまいました」 山の稜線をおもわせる筋を刻んだ白い石。それを渡してくれた友が帰郷を待っていることは知っていた。 「だが、それをおしても私は平原を見たかった――とても見たかったのです」 山育ちの若造の目には何でも新奇に映ったのだ、そういってタパレをひとつ炉に放り込みながらラシードは笑った。 遠く丸い地平線、高い空。華やかな色をまとう女たち、男たち。知らない薬草、知識。すべてが新しい風のように次々と吹きよせてくる。その爽風をあますところなく身に受けたかった。 「やがて考えるようになった。これまで覚えてきたことは何だったのか、と」 ラシードが幼い頃から教え込まれた癒しの技はよほど時代遅れだったのだろう。平原の薬師の苦笑いをさそうだけだった。彼らが話すことをラシードはほとんど理解できなかった。 「覚えましたよ。それこそ寝食を忘れて夢中で」 「……」 「最初はレンディアのためだった。知識や薬草を手に入れることがレンディアの皆を喜ばせると思ったからだ。だが、何年も経つうちに、それは帰らないための口実になっていった」 「なぜ?」 薬師はかたわらの火掻き棒に手をのばした。 「平原が楽しかったのですよ」 炉を掻き立てるとタパレがかすかに赤みをおびた。薬師にはふたつの仕事がある、とラシードは言った。 「薬草を見つけること。それを病人に飲ませること。私は新しい薬草をもっと見つけたかったのだ。見知らぬ物事を見て覚える毎日に飽きることなどなかった。それに比べて……レンディアには何もないと思われた」 「……」 「もっと知りたい、もっと欲しいと、それこそ熱に浮かされたように歩き回った。だが、いつからか、その薬草を飲ませる相手のことを忘れていたのかもしれない」 「でも。最後には帰ってきたじゃないか」 セディムは訝しげに目を細めた。 「薬草を持ち帰ってくれた。珍しい話も聞けた。父も喜んでいた。城臣や村の皆も驚きはしたが――」 「長」 ラシードは手をあげて押しとどめ、腰に提げたものを示した。 「遠慮なく聞いてください。これで何をしたのか、と」 二人の間に沈黙がおりた。 ここではいらないもの――そうセディムに言われた後も、ラシードは腰に佩びた剣をはずすことができなかった。すでに体の一部のようで、無いとどうにも落ち着かなかったのだ。 「剣は飾りではない。昔語りのように天意をうつす鏡でもない。殺めたのですよ、人を。この手で」 ラシードは剣をはずすと目を瞠る若者に差し出した。おそるおそる手に取ったセディムは、思った以上の重みにたじろいだ。 「いい品です。作った男も満足していた。重さも釣り合いもよくとれている。切る、というより叩き下ろす。だから、この重さが生きてくる。相手も必死です。こちらへ突き、振りかぶっては叩きつけてくる、叫びながら――」 「やめてくれ」 セディムは呻き、手中の剣をまじまじと見た。柄には鞘と同じに蛇が彫られ、かっと口をひらいている。まるで本物のような見事な細工から目を離すことができなかった。 「襲われれば、剣を抜かないわけにもいかない。村の者が私を厭うのも道理だ。剣の持ち主が何をしたのか、口に出さなくても皆知っているのです」 「……いったい何のために襲うというんだ」 セディムは顔を上げた。 「平原には、あふれるほど麦が実るのではないのか?」 「豊かさに充足があるとは限らない。否、むしろ欲は増すのかもしれない。農民は豊かな土地を手に入れようと争う。商人は買い叩き、品札を釣りあげる」 ラシードは長の手から剣を引き取り、腰に佩けた。 「そして、私はいくらでも薬草が欲しかった。腹が満ちるだけでは足らず、裂けるまで喰らおうという心根は誰の中にもある」 「だが……」 何故、というセディムの問いは力なく途切れた。ラシードは苦い笑みを浮かべた。 「争いが起きれば、かならず剣で片をつけようとする者がいる。一度抜かれればこちらも抜く。あとはとどまるところ知らず、だ」 慣れない剣で逃げる時間をかせぐのが精一杯のうちはまだよかった。 だが、剣に見合う腕を身につけた頃になって、ラシードは皮肉なことに気づいた。右手に剣を、左手に薬草袋を持って、いったい自分は何をしているのか、と。 薬草袋を守るために人の命を斬り捨てた。薬師にあるまじきことをして、それなのに、まだ新しいものを得るために旅を続けようと考えている――。 そんな自分に気づいて、ラシードは愕然としたのだ。 目を瞑れば、いつもまなうらに浮かぶのは美しいツルギの峰の姿だった。冷涼な風、光輝く蒼天。ハールが護る、奇跡のような雪嶺の地――。 あそこに人殺しが立てるのか。平原では珍しくもない血のついた手も、雪の上ではいっそうおぞましく見えるだろう。 こんな手をしてレンディアへは帰れない――それが、辿り着いた答えだった。絶望と自身への嫌悪を抱えて、友との約束を捨てて、ラシードは逃げるしかなかった。 「……海辺の国イベリスへ、さらに船に乗って南へ行きました」 ラシードは炉を掻きながらぽつりと言った。 「だが、嵐で船は沈み、薬草も水底だ。結局、この身と剣しか残らなかった」 「でも、そうしなければ死んでいたのだろう?」 セディムはようやく絞り出すように尋ねた。 「生きのびなければ、ここに帰ることもできなかった。それなら……」 「私はここにはそぐわない」 それは、言った当人も驚くほどに穏やかな声だった。 「ここではハールの言葉が生きている。その理がはたらいている」 「ばかなことを」 呆然としてセディムは呟いた。 「あなただって、レンディアの人間であることに変わりはない」 「では、人殺しを許すことができるのか?」 セディムは返す言葉を失った。 ハールが人に下された戒めの言葉はレンディアの民の胸に染みこんでいる――盗むな、嘘をつくな、無闇と殺めるな、と。しかし、セディムは何故か薬師を責める気にはなれなかった。 「許せなくてよいのです」 そんな若い長を見守っていたラシードは言った。 「ハールの言葉を守りなさい。レンディアはそうあって欲しい」 「でも、あなたは……」 「薬師としての才をハールに与えられながら、人を殺めた――それは変えようのない事実だ。私が帰って来たのは、ここを追われるにしても一度は問わねばならないからだ」 炉は燃えていたが、部屋はいつまでたっても暖かくはならなかった。 「何故、父神は私を生かしているのか。ハールはこの身を何に用いるおつもりなのか。耳を澄ませて聞こうと思う」 そうして静かに立ち上がると、ラシードは部屋を出て行った。 その晩中、風は吹き荒れた。 セディムは寝台の上で毛皮にくるまったまま、窓を揺さぶる風の音に耳を傾けていた。聞きなれた音を美しいとも恐ろしいとも思わない。 ただ、それを送るハールの真意をはかりかねて、セディムは身震いした。 |
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