真冬の光  第二部 早雪の底 3章-4 真冬の光 目次 3章-6
 
第二部 早雪の底
三章 雪に閉ざされる - 5

 
 その風もやんだ、明け方だった。
「――様。セディム様」
 ヤペルに揺さぶられて、泥のように眠り込んでいたセディムは唸った。
「起きてる。もう起きてる……」
 不機嫌な声で何とか答えたが、ヤペルは容赦ない。かぶっていた毛皮を剥ぎとって、
「長。起きて、来ていただきたい」
 そのかたい声に眠気は一瞬にして吹きとんだ。
 城臣の説明を聞くやセディムは部屋を飛び出し、廊下ですれ違う村人たちの顔をろくに見もせず食料庫へ急いだ。
 石造りの食料庫は城の壁に寄せ掛けるように作られていて、城の中と外の両方から入ることができる。曙光を浴びた小屋の前には、城臣や牛小屋番の男たちが集まっていた。一様に厳しいまなざしで中をのぞいたり、指差したりしている。ただごとでない様子にセディムは寒気を覚えた。
「通してくれ」
 雪を蹴立て、村人らをかき分けて入った小屋のありさまにセディムは言葉をなくした。
 床には一頭の山狼が横たわっていた。胸を矢で射抜かれており、その周りには干肉を束ねていた蔓縄がちぎれて散らばっている。そして、肝心の肉はどこにもなかった。
「セディム様」
 進み出たのは、村のボルクだった。
「夜明け前、外の様子を見に出た時に見つけたんです。すぐに矢を射掛けましたが、間に合わなかった」
「どうやら、夕べの風にまぎれて扉を破って入り込んだようですな」
 ヤペルが言い添えた。「道理で、牛どもが落ち着かなかった」
 城臣が示した木の扉はかきむしられ、何度も繰り返されたらしい体当たりで継ぎ目がばっくりと開いていた。昨晩の牛たちの様子が思い出して、セディムは唇を噛んだ。
「この一頭だけか?」
「いえ。これは親のようです。もっと若いのが何頭か駆けていくのが見えました。そいつらが肉をごっそり持っていったらしい」
 こんな、まだ冬も浅い時期に――そう言いかけて、セディムは口を噤んだ。射止めた狼を見れば理由も想像がついた。
 痩せて、毛色は目をひくほどに淡い。おそらく、それが理由で群れを追われたのだろう。若い仔狼がいたというが、つれあいの狼はいたのだろうか。ともかく秋から冬にかけて満足に狩ができず、食うに困って村に入り込んだのだ。
「下の部屋に置いていた食べ物がほとんどやられちまいました」
 村人が示した部屋の中はひどい有様だった。
 壁から壁に渡した棒に吊るしてあった肉は消えうせていた。それなり高さはあったが、狼たちは何度も獲物を狙って飛びかかり、ついにはゆるんだ蔓縄をくわえて引きずり下ろしたようだ。セディムたち若者がとらえたあの鹿肉の塊も無くなっていた。
「梯子段を上れないのが、まだ幸いだったかもしれんな」
「しかし、洗いざらい持って行って……」
 やめておけ、と誰かが窘めた。村人らは固い表情で顔を見合わせた。冬の始めにこれだけの肉を失うとは、実際、口に出すのもはばかられるほどの痛手だ。
「あっ、おい。袋が……」
 一人が声をあげた。
 壁際に積まれた袋に穴が開き、麦粒がさらさらと流れ落ちている。それが床に広がる葡萄汁に浸かっていた。男たちはあわてて袋の口を結んで積み直した。
 セディムは口惜しさに拳を握りしめた。人間が飢えているなら、狼とて同じこと。この先、同じことが起きても不思議はない。
「ヤペル。まだ食べられるものを集めて、全部階上に上げてしまおう。梯子もはずして、この扉は……」
 そう言いかけて、ふと口を閉ざした。扉を作るための木など山を下りなければ手に入らない。春まではそれも叶わない。
「――どこか使っていない部屋から扉をはずして持ってこよう。それでどうにか凌げるのじゃないだろうか?」
 だが、ヤペルはそれには答えず、苦い小声でささやいた。
「長、ちょっと来ていただけますか?」


 火が落ちて冷え切った長の間で、セディムとヤペルは向かい合っていた。
「――食事を減らす?」
 城の長い廊下を歩きながら、いや、それよりも前から言うべき言葉を決めていたのだろう。ヤペルは後ろ手に扉を閉めるや、食料の配分を減らしたいと言ったのだ。
 古い椅子にもたれかかりながら、セディムは眉を寄せた。厳しい冬、少ない食料、肉を奪われたことを考えれば当然の判断のようにも思える。だが――。
 セディムは首を振った。
「皆が生きのびるための節約だ。これ以上減らしては、子供や体の弱い者がやっていけない。それでは意味がない」
「いえ、そうではありません」
 ヤペルは静かに長の目を見つめて答えた。
「年寄りと病の者の食事を減らすのです」
 一瞬、沈黙がおりた。言葉の意味に気づいたセディムは息を飲んで立ち上がった。
「何を言ってる!?」
 椅子が激しく揺れて床を打った。しかし、ヤペルの目は長を見据えたまま動かなかった。
「貯えはとてもではないが全員には行き渡りません。一人でも多くの命を残さねばなりません。いつもこれをご覧になっているでしょう」
 そう言って差し出したのはレンディアの食料の目録だった。
「麦ひと袋で何人の命をつなげるか、今一度お考え下さい」
「何とか、待ち月まで持ち堪えれば……」
「待ち月ではございません」
 ヤペルは強い口調で遮った。
「その先の話をしておるのです」
「先?」
 セディムは眉を寄せた。
「――長。春までなら生き延びられます。牛を全部つぶせば良い。簡単なことです」
「ヤペル!」
「だが、そうすれば来年は狩りに出られなくなる。肉が手に入らず飢えることになるでしょう。もしも天候が悪ければ麦も採れず――やはり飢える」
 ヤペルははっきり言った。
「雪が融けたときに牛を何頭、人を何人生かしておけるか。それが来年のレンディアを決めるのです」
 セディムは力抜けたように腰を下ろした。
 背中に冷たい汗が伝うのがわかった。長の衣を着せ掛けられてから幾度も聞かされた言葉の数々が脳裏によみがえる――先の先を考えろ。
「尾根の上で小石を投げれば、西か東かに落ちて行く。それと同じように、レンディアがこの先も生き延びられるか、命運を分ける一線がある。その時をできる限り、先のばしにしなければならない――問題は、待ち月ではないのです」
 ヤペルが言うように、春までならば、話はごく単純だった。しかし、何が起ころうとも、牝牛と種牛数頭だけは生かしておかなければならない。そして、人は――。
 胸の底まで冷たくなるのを感じながら、セディムは城臣の目を覗き込んだ。
「……お前は選ぶのか?」
 セディムはようやく言葉を絞り出した。声が震えていた。
「村のためにはスレイを残し、ミーチェの命は要らないというのか?」
 しかし、ヤペルの表情は変わらなかった。
「残り少ない命を惜しむな、ということです。このことは城臣たちも皆同意しております。我らも老体ばかりですからな、覚悟もしております」
「ばかなことを!」
 セディムは拳を卓に叩きつけ、声を荒らげた。
「誰を生かし、誰を見捨てる――そんなことを、いったい誰が決めると言うんだ」
「あなた様です」
 ヤペルは躊躇もせずに答えた。「一人よりも二人、三人。より多くの命を救う、その道を選ぶのが長の務めです」
「何故だ? 何のために?」
「村を生かすためです」
 城臣の言葉をセディムは嗤った。
「命を捨てながら、生かすとは何を言うんだ」
「『村』があれば、より多くの者が生きられるからです。冬にひとつの炉を囲んで寒さをしのぐように、村があれば……皆が寄り添って生きてゆかれる。長、あなたが守るのはその炉なのです」
 二人は向かい合い、にらみ合った。どちらの表情も硬かった。
「……違う」
 やがて口を開いたのはセディムの方だった。静かだが、かすれた声は臓腑を吐くように苦しげだった。
「それは違う。誰が生き永らえるか――それはハールが決められることではないのか? 同意? では、長に隠れて話を決めたのか? すでに決まったことに、なぜ長の言葉を求める?」
 セディムは深く息を吐き、しばらく腕を組み思案していたが、やがて口を開いた。
「牛はつぶさない」
 ヤペルは眉を寄せた。
「――少なくとも、今はまだだ。そして、皆の言うことにも確かに理がある。食糧の配分を減らそう。ただし、みな平等に、だ」
「長!」
「命を選ぶなど許されない」
 セディムはぴしりと言った。
「老いた者も病の者も、子供も健康な若者もみな同じように減らす。誰を手元へ召すかはハールが決めて下さる」
 ヤペルは何か言いかけたが、飲み込んだ。
「わかりました」
「それから――」
 セディムは立ち上がり、城臣を睨めつけた。
「城臣の相談事は私の前でするように。すでに決まったことを、長の名で命じるなど真っ平だ」
 ヤペルは黙って一礼すると長の間を出て行った。

 ふたたび吹き始めた風が雪つぶてを窓に叩きつけていた。
 長の間にひとり残ったセディムはもう一度目録を開いた。だが、幾度指で辿っても内容が頭に入ってこなかった。
 炉を守れ、というヤペルの言葉もよくわかる。山ではひとりでは生きていけない。分け合い、助け合える「群れ」が必要なのだ。それを失えば、あの狼のようになるしかない。
 だが、命を選ぶことは、他の命を奪うことではないか。あの薬師は剣で殺めたというが、自分は言葉ひとつで同じことをするのか。
(何かあるはずだ)
 村のために誰かを犠牲にせずに済む方法があるはず。そう考えたときにセディムは自分の未熟さに愕然とした。この手でできることなどごく限られている。
 この年になるまでに、それなりの経験が身のうちに積もってはいた。だが、それは思っていたよりも脆く、まして何かを掴むための踏み台にできるほどの形をなしてはいない――そう気づいたのだ。
 麦の袋、村の人数。覚えたとばかり思っていた内容だが、ヤペルの説明を聞いた今ではこれまでとは明らかに違う情景が見えてきた。
 ふいに、胸が悪くなってセディムは口元を押さえた。だが、喉の奥から上がってくるのは酸っぱいものだけだった。






 

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