真冬の光  第三部 護り願うもの 1章-1 真冬の光 目次 1章-3
 
第三部 護り願うもの
一章 罠と祈り - 2

 
「長、後ろを向いて下さい」
 早朝、というより、まだ夜も明けない城で、長と城臣たちは儀式の支度をしていた。
 小さな灯りが揺れる他は真っ暗な石造りの部屋。慣習どおりに炉に火は入れていないので、身震いがとまらないほど寒い。しかし、レベクは容赦なかった。
「身動きなさらんで下さい」
 そう言って、セディムの衣の裾を几帳面になおした。祭事に臨む長のいでたちだ。長くて重い衣の上に最後にユルクが白い肩布をかけてくれると、セディムは身の引き締まる思いがした。
 前にこの肩布をつけたのは、父の葬儀の朝だった。あの時は城臣たちに着せかけられ、言われるままに馴染めぬ身支度を整えた。
 だが、今回は違う。長たる資質の有無はともかく、これは自分が着なければならない装束だ。自分のものとして引き受けなければならないとわかっていた。
 扉が静かに開けられ、外からモルードが顔をのぞかせた。
「皆、揃っとります」
 セディムは緊張しながらもう一度、祭事の決まりを頭の中で繰り返した。狩の上首尾を祈る儀式は馴染んだものだが、一狩人として連なるのとはわけが違う。
「朝一番の火で供物を燃やして、祈る」
「そうです」
 ヤペルが重々しく頷いた。
「それからカンバの枝を捧げて、新しい季節の狩にも天のお護りがあるように祈ってください」
「――それから?」
 セディムはふと思いたって尋ねた。だが、まわりの城臣たちは顔を見合わせたきりだ。やがて、口を開いたのはユルクだった。
「それは、我々にはわからぬことです。どうか、天よりよき徴が与えられんことを」
 同意のつぶやきが繰り返されるのを後に、セディムは階段を下りていった。

 外の雪はやんでいた。
 音ひとつ無い山並み、夜明け近くの天頂にはまだ淡い星がいくらか残っている。なめらかな雪のおもてがほのかに明るかった。凍てつく空気にセディムは思わず身をすくめた。
 城の前にはすでに男たちが集まっていた。手に手に罠を携えている。彼らを見て、セディムはふいに胸が詰まるような思いがした。
 男たちの狩衣はどれも着古してぼろぼろだった。本当なら、狩の儀式には真新しい狩衣を着るものだ。しかし、今年の毛皮はすべて麓で食べ物に替えてしまった。誰も新しい狩衣など用意できなかった。それでも、今日のこれが春と同じ儀式であることを知っているのだろう。彼らは何かしら新しいものを身につけていた。口元を覆う布、帯紐、襟巻き。何もない者は、新しく編んだ紐を二の腕に巻いている。
 見渡すかぎりの雪の白の中では、彼らの姿は小さく見えた。すっくりと立つ強さが、かえって人の力の頼りなさを感じさせもした。
(誰の命も選ぶつもりはない。レンディアの皆で春を待つ)
 セディムは自分でも気づかないうちに手を握りしめていた。
「長」
 声をかけられて、セディムは我に返った。気遣わしげなウリックがカンバの枝を手に待っていた。
 セディムは黙って頷き、まず少しのヒラ麦と牛の毛を熾き台に供えた。供物に火がついて燃えるまでの短い間に、長が黙祷する。それを見守る狩人や城臣たちも頭を垂れた。
 それから、セディムは薬師から灌木の枝を受け取った。皮に薬効があり、レンディアでは馴染みのある木だ。その枝に、かつて父がしていたように祈りの言葉を述べながら火をつけ、ゆっくりと燻らせた。
「――天の庭に恵みがあるように、この地の上にもあるように」
 明けの空に枝を捧げ持つと、強い香りとともに白煙がゆらゆら天へ昇る。それを追うように、狩人の一人が狩笛を高く吹き鳴らした。続いて、一人、二人とそれぞれが狩の安全と獲物を与えられることを願って吹きつのる。少しずつ高さのちがう笛の音は空気を震わせ、天に凍みわたっていった。
 しかし、雪に覆われた山から返す谺はなかった。
 無言のままの空に消えてしまった。山の民はただ立って天を仰いでいた。
 セディムは厳しい目で雲間を見つめていたが、やがて、ばさりと音をたてて枝を振った。火が消えると、辺りにはカンバ独特のぴりっとした匂いが残った。
「今日のこの狩に祝福を。ハールがお護り下さるように」
 短い長の言葉に、村人らは我に返った。はじめて安堵のため息がもれた。こうして長が祈るなら、父神が顧みないはずがない――。
 儀式が終わると、男たちは祈りの言葉を呟きながら、あるいは天を仰いで狩笛を鳴らしながら雪を分けて歩きはじめた。中にはノアムの姿もあった。城臣はそのひとりひとりに声をかけて送り出す。
「ボルク、頼むぞ」
「ローシュ」
「任せてくれ」
 雪の原へと向かう男たちは、くりかえし笛の音を上げた。セディムは城臣たちの後ろから、黙って狩人たちを見送った。
 ハールに願うことはいくらでもあった。獲物が与えられるように、狩人が無事に城に帰るように――。だが、口を開けばそれが限りなくあふれそうな気がして、かえって何も言えなくなってしまった。
 彼らの姿が見えなくなると、ラシードが雪を踏んでセディムの横にやってきた。
「今日は、晴れますな」
「そうだな」
 セディムは空を仰いだ。
 星はもうとうに見えず、曙光を照り返す峰の紅色が目に鮮やかだった。雪に煙る山頂近くにも雲は見えない。遠くの空も見渡すかぎりの青だった。
 セディムは口元を引き締めた。今、村が冬をやりすごすために知恵を絞っている。自分もまた村のためにできることをしよう。
(皆のために、なんでもする)
 そう考えた時、ふいに父の最期の言葉が思い出された。知恵も力も尽くせ、ハールはその子らを決して見捨てはしないだろう、と。だが、狩の上首尾を願う笛は、祈りは聞き入れられたのか、否か――それと示すような徴を見ることはできなかった。
「長」
 ヤペルが城の入り口で呼んでいた。
「食事のあとで、ちょっと西の回廊を覗いてください。それから、昨夜の覚書ですが……」
「わかった。すぐに行く」
 そう答えて頷くと、セディムは峰々に背を向けて歩き出した。知恵を尽くすのは人がすること。その結果は天が決めることだ。

「父ちゃん、帰ろうよ」
 上着をひっぱる息子の声に、カルムははっと我に返った。朝の光が辺りを白く照りつける中、彼は立ち尽くして仲間を見送っていた。傍らの息子のことはつい忘れていた。
「ああ、そうだな」
 そう答えて、幼い子を抱き上げた。
 狩の儀式を見せてやろうと思って連れて来たのだが、息子はあらたまった雰囲気に退屈してぐずりかけていた。
(まあ、三つやそこらではな)
 そう考えてカルムは苦笑したが、実のところ、浮かない気分なのは仲間と一緒に出かけられなかった自分の方だった。罠など使うのは初めてだが、長の祈りに支えられていればきっと成果がある。そう信じていたから行きたかったのだが、運悪く妻が熱を出して寝込んでいた。
(代わりに、よろしく頼むぞ)
 そういう思いで仲間の狩人を送り出した。せめてともに願いを抱きたいと考えて、腕に新しい紐を結んで儀式に連なったのだった。
 残っていた者たちも冷たい手をこすりながら城に入ろうとしていた。その中のひとりにカルムは目をとめた。
 あの新しい薬師だった。居残り組になったのは、長年故郷を離れて土地勘も薄れたせいだろう。狩の腕もお世辞にも良いとは言えないようだし――そう考えた時、カルムは薬師の腕に気づいた。
 ラシードの腕には、カルムと同じように新しい糸で編んだ紐が結ばれていた。
 意外な思いで、カルムは薬師を見つめた。しかし、鼻をぐずぐずいわせはじめた息子に気づくと、あわてて城の中へ入っていった。






 

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