真冬の光  第三部 護り願うもの 3章-1
真冬の光 目次 3章-3
 
第三部 護り願うもの
三章 山のこころ - 2

 
 広間中が静まりかえった。
「剣など薬師には要らぬものだよなあ」
 トゥルクが笑って言った。まるで明日の狩はどこへ行くとでも尋ねるようなのどかな顔だが、その言葉は鋭かった。
 ラシードは薬匙をかたわらに置いた。
「――俺は、これまで自分と薬草袋を守るほかに剣を抜いたことはない」
「そうか。では、これからはどうするのだ。レンディアの長か、それとも平原で戦をする王か――お前は誰に仕えるのだ?」
 ラシードは口を噤んだ。
 なにかを問われるとは思っていなかった。断罪を待つようなつもりで故郷の土を踏んだのだ。帰る理由も帰れない理由もこの雪嶺の国にしかない。そして、故郷への山道でいつも思っていたのは友の姿だった。
「――レンディアの、長に」
 思いふけったのちに、ラシードは答えた。
「長がこの身に示される通りに従おう」
「薬師として働けと言われたら?」
「ウリックの手足となって働こう」
「もし、去れと言われたら?」
 はっと息をのみ、腰を浮かせかけた村人がいた。カルム、そしてアデルだった。だが、ラシードは城臣から目をそらさなかった。
「そうしよう」
 皆が黙り込んだ中で、赤子の声だけが聞こえていた。
 村人の中でも薬師へ向ける目はさまざまだった。若者たちにとってはただ長い旅をしてきた男にすぎない。
 だが、旅立つ前のラシードを知る世代には割り切れない思いがあった。
 かつて故郷をあとにした日の意気込んだ別れの言葉は忘れられず、しかし、ここで生き、死んだ者たちを見送り続けてきた身には、その言葉はもはや風に散る枯れ花でしかなかった。苦く、重苦しい思いはウリックだけのものではなかったのだ。
 窓を打つ雪つぶての音が耳に障った。その時、咳払いした者がいた。
「茶を淹れてやれ」
 シスカだった。軽く赤ん坊を抱き直し、そのついでとでもいうようなぶっきらぼうな口調だった。
「俺は平原のことなど知らんが、もらった茶を返さないようなことはしないぞ。それに――」
 ほんの一瞬ためらったが、言い継いだ。
「それに、ここで長にお仕えすると言うなら、俺たちと同じだ」
 皆が顔を見合わせ、ほっとうなづいた。
 アデルは自分の椀をぐいと飲み干し、炉の皮鍋から茶を注いだ。それを薬師の前におくと、その目をのぞき込んだ。
「平原の茶もいいが、ここに居るときはここの茶を飲め」
「だが……」
 たじろいだラシードを、トゥルクは手をあげて押しとどめた。
「そうと決めたのなら、ようくお仕えせよ。もとより長は、村に人が増えたと喜んでおられたのだ」
 そして、声をひそめて言い足した。
「ウリックとの諍いもいい加減にしておけ。お前だけが悪いわけでないのはわかっているが……丸く収めて長を安心させて差し上げろ。良いな?」
「……」
 ラシードは城臣を見つめ、そして周囲を見回した。
 村人たちはすでに茶を飲んだり隣に座る者に話しかけたりしていた。まるで、何事も変わったことなどなかったかのようだ。だが、これがレンディアのやり方なのだ。
 殊更に手招いたり、仰々しく迎えたりしない。まるで、ラシードが何十年もこの炉の前に座っていたかのように扱う。
 ラシードは差し出された茶椀に手をのばし、口に含んだ。それはここ何十年の間に口にした何よりも甘くよい香りがした。その味を忘れまいとするように、黙って茶を啜った。
 広間にふたたびざわめきが戻った。その車座のひとつで、炉に粗朶を放り込みながら独り言をいう者がいた。
「使いみち、か……」
「どうした、アラゴ」
「麦の苗のことだがな」
 気にかかる問題が掘り起こされて、村人らはふたたび重い表情になった。しかし、アラゴは言葉を探しながら言った。
「土のかわりに、他のものを使えんかな?」


 白い闇に風の音が響き、城を揺さぶった。
 その音に驚いてセディムは身を起こした。書庫の机に突っ伏して、いつのまにか眠っていたようだ。炉の火はとうに消えていた。
 どこからか吹き込んだ雪が床をうすく覆っている。まとっていた毛皮にも雪がかかっている。身震いしてそれを払い落すと、分厚い織物をめくって窓の外を窺った。
 陽光などまったく見えなかった。しかし、ほのかに雪の白が見える。おそらく朝なのだろうと見当つけて、ハールに朝の祈りを捧げた。
 雪掻きのあと、セディムは書庫に籠って遡れるかぎり古い年代記を順に開いていった。春に植える苗のために何か手掛かりが欲しかったのだ。
 夕飯として配られた小さな干し肉を噛みしめながら書物を繰って目指す何かを探し続ける。机の上には読み終えたものと、これから手をつける書物がどちらも高く積まれていた。
 だが、この地に人が住みはじめた頃の畑の記録はなかった。
 最初の頃には狩と住まいを整える方がおもな問題だったようだ。もう少し時代が下ると、麦を植える、という言葉が見られるようになったが、具体的な作付けのことは語られていなかった。
 しかも、記録はしばしば途切れていた。昔語りに残る飢えと寒さと戦った厳しい時代だ。書くほどの作付けもできなかったのかもしれない。
 そのうちに疲れて、眠り込んでしまったようだ。
 寒い中で座り続けていたために体がこわばって痛んだ。セディムは毛皮をしっかり身に巻きつけ、炉に火を入れて息を吹きかけた。だが、冷え切った部屋はなかなか暖まらない。しばらく震えながら待っていたが、とうとう諦めることにした。
 凍りかけた塔の階段を用心しながら降りていく。いつもの通り、城臣たちとともに朝食をとりながら、城の様子を聞くつもりだった。だが、セディムは階段の途中で足をとめて振り返り、たった今下りて来たところを仰ぎ見た。
 塔の途中の鎧戸が風でゆるんできたのだろう、すきま風が鋭い音をたてて塔にこだましている。ここにも細かな雪が舞い込んで、石段はほの白い斑になっていた。
 何が自分の足をとめたのだろうか、とセディムは考えた。
(もし、この塔の上が崩れたら……)
 縁起でもない、と身震いしたが、思いつきはするするとほどける糸のように頭の中に広がった。
(塔の上がすっぽり雪に覆われるだろう。階段のなかばまで閉ざされて、春になるまで融けないだろう。春になるまで――)
 脳裏でなにかの光が瞬いたような気がした。
「そうだ。部屋でなくてもいい」
 セディムは毛皮の襟をかき寄せて、残りの階段を駆け下りた。






 

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