真冬の光  第三部 護り願うもの 4章-1
真冬の光 目次 4章-3
 
第三部 護り願うもの
四章 ハールの祝祭 - 2

 
「慣れたものだな」
 部屋を出ると、ウリックはかすかに笑って言った。遠くから、つましい食事をとる村人らのざわめきが聞こえる。ラシードは肩をすくめて歩き出した。
「平原にもああいう男はいる。強がりを言う者の方がたいてい気は小さいのだ」
「なるほど」
「それにしても――」
 ラシードはちらりと弟弟子を見た。
「あの薬草を使うほどの傷ではあるまい? 不要と言ったのは半分は本当だ」
「浅い傷でも、もし命に係わったら堪らないだろうが」
 ウリックの表情は穏やかだが、声は厳しかった。二人は何も言わず石の廊下を辿った。彼らの胸にはまだ同じ後悔の念がわだかまっていた。
「ともかく、礼を言う」
 ウリックはためらいながらも立ち止まり、ラシードの顔をまっすぐ見つめた。
「お前がいなければ、ローシュは傷さえ見せなかったかもしれない」
「礼などいらん。俺は脅しただけだからな」
 二人は居心地の悪そうな表情で互いを見た。黙り込み、やがて口を開いたのはラシードだった。
「ウリック。そろそろ腹を割って話さないか。とうとうお若い長にまで戒められてしまった」
 ウリックの目が揺れたのを見て、ラシードは待った。
(確かに、いろいろなことがありすぎたのだ)
 だが、レンディアのために尽くしてきたウリックなら、長の意を無視することはないとラシードは信じていた。
「薬草を必要とする者がいるなら、手伝わせてほしい。少なくとも、命に関わらない程度の怪我や病なら、よそ者であってもかまわないのではないか」
「何故、そう言う?」
「薬湯をつくるだけが薬師じゃない、とお前は言った。それは正しい。俺は長くここを離れすぎた」
「……」
「俺にはお前が長年かけて築いてきたような、皆の信頼がない。ハールの庭への道案内などできようはずもない。だが、疎むにしても懐かしむにしても、レンディアを忘れた日はなかった」
 ウリックは目を瞠った。
「――それなら、ここで何をしようというのだ」
「何でも。レンディアから求められることを、だ」
 ラシードは兄弟として育ったウリックの目を見据えた。
 トゥルクと村人らの前で誓ったことを、どうやって果たすべきか。何をするにしろ、まずは、この目の前の男に受け入れられなければ始まらないと思った。これは互いのきっかけになるはずだ。
「俺のことは、薬草袋だとでも思ってくれればいい」
 そして、ラシードはウリックの肩を叩いて立ち去った。

 ウリックは黙って立ち尽くしていた。兄弟子の言葉に、今は亡き薬師のお婆の声がよみがえって聞こえたのだ。
 ――お前なら、何をする?
 お婆はよくそう尋ねて、年若いウリックやラシードに薬師としての心得を教えた。
(もう病が治らず、ハールの庭へ招かれる日を待つばかりの者に、お前ならどんな薬湯をつくってやる?)
 ある日、そう問われたウリックは考え込んだものだった。日々、教えられていたのは、いかに治すか、だったからだ。
俯いて、自信無げに薬草の名を挙げるウリックを見てお婆は笑った。それもいいが、と言いながら、薬師は少年の顔を上げさせたのだった。
(儂ならシロクズネを煮出してやるだろうよ)
 痛み止めの薬湯だけでいいのか、とウリックは心配そうに尋ねた。
(あまり苦しいと、まわりの者に辛くあたったりハールに悪態をつくことがある。それは不幸なことだ)
(病気よりも?)
 恐ろしげに、しかし真剣に聞いている少年の表情に薬師は目を細めた。
(そうとも。自分が何を言っているか、わからなくなるのは悲しい)
よく覚えておくように、とお婆は言った。
(薬師は何でもできるわけではない。どんな薬湯も効かないとわかった時には、皆が病に負けず、最後の時まで穏やかでいられるように手伝うのも、お前の仕事だよ)
(あきらめるってこと?)
 お婆は首を振った。
(違うよ。それは、わきまえる、と言うんだ)
すると、薬師はどこか遠くを見るような目をして呟いた――あの子もそれを覚えていてくれればいいがね、と。

 その判断は難しい、とウリックは今でも思っている。
 病によって、病人によっても薬師がしなければならないことは違う。もちろん、病が治れば言うことはない。だが、それが叶わないなら、病を不幸と嘆かないように、苦しんで天を呪う言葉など吐かずにすむように人の心を支えるのも薬師の務めだ。そのために長年かけてウリックは村人の暮らしを見つめ、寄り添ってきた。だからこそ、それを放棄した兄弟子を許す気持ちになれなかったのだ。
 そのウリックにとって、ラシードの言葉は意外だった。
(――忘れたわけではなかったのか)
 ウリックはいつのまにか握りしめていた自分の手を見つめた。
 長いこと、何かを諦めて天にまかせることを「分をわきまえる」ことだと思ってきた。
 しかし、とんでもない決断を迫られることは誰にもある。そんな時に、常に正しい判断を下すのは難しいことなのだ。ならば、人の過ちを責められる者がどれだけいるだろうか。
 その時、ウリックは兄弟子の姿を思い出してふと首をかしげた。何か違和感を覚えたのだ。しばらく考え、そしてその理由に思い当たって眉を寄せた。
 ――いつからだったのか、ラシードの腰の剣がはずされていた。


 セディムが長の間を後にしたのは、夜も更けてからだった。
「おや、まだ起きてらしたので?」
 ちょうど通りかかったベルカムが階段を上がっていく長を見上げて会釈した。セディムもひっそり頷いた。
「こちらは、今日はかなり進みましたぞ」
 と村人はうれしそうに笑った。
 苗床の支度は手探りで進められていた。慣れない仕事だが、村人らは畝起こしの歌を歌いながら働いているらしい。また、大人たちが忙しいから、子供もまた大切な働き手だ。今日も幼い子供がこの世を救うかのような真剣な面持ちで石臼を回していたらしい。世界はどうかわからないが、レンディアが永らえるのは間違いない。
 そんなことを笑いながら話して、ベルカムは立ち去った。セディムはそれを見送ると、また重い足をひきずるように一人で塔の上の自室に戻っていった。
 部屋は底から冷えていた。セディムは手燭を壁の灯り掛けに置き、炉に粗朶を置いて埋み火を吹いた。やがて炎が勢いを取り戻すと、毛皮にくるまって炉辺に座った。長の威厳に欠けると城臣には嘆かれそうな格好だが、ともかくあまりに寒かった。
 夜月に入った頃から、セディムは気がふさぎがちだった。風の音が気になって眠れないせいもある。炉に粗朶を放りこもうとして、ふと手を止め、弄びながらセディムは揺れる炎を見つめた。
(みんな、よくやってる。本当によくやっている)
 ベルカムが話していたように、村人らは黙々と働き続けている。長が春まで守ってくれる、と信じているのだ。
 だが、その信頼を受けるにふさわしい力量が自分にあるとは思えない。それどころか、打つべき手が一つ一つと減っていく中で、不安とあせりだけがあふれてくる。
「――くそっ!」
 舌打ちとともに手にした粗朶を炉に投げ込んだ。細い枝は音もたてずに燃えて、燻る匂いだけを残した。
 セディムが罵ったのは何者でもない、自分自身だった。
(もしも。大昔の長たちのような力でもあったら)
 そう考えて、部屋の奥の壁掛けを見上げた。
 祖父の、その祖父の代からずっと継嗣の部屋に掛けられてきたそれには、まだアレイオスが平原に住まっていた頃の絵物語が織りだされている。
 飾りのついた長い服の人物らは、代々の長たちだ。その姿が大きく描かれているのは、その重要さを表すためだけではない。実際に彼らは抜きん出て背が高く、美しかったという。目は思慮に富み、若々しい光を宿していた。知恵と慈愛と勇猛を兼ねそなえ、長く生きて地を治め、三代の臣下が一人の長に仕えたこともあったという。
 また、織絵の上部、長たちの頭上には輝く光が描かれて太陽と月を従えていた。ハールの表象だ。その力は光の筋として描かれ、人と命あるものを照らしている。幾筋かは長たちの頭上に丸く留まって、アイルを表していた。この力によって、長たちは望むだけで雪嵐を去らせたり、雲を呼んで雨を降らせたという――。
(そんな力が、この手にあれば)
 昔から見慣れた壁掛けから目をそらし、固いマメのできた自分の手を見つめた。セディムは嘲笑った。
 無いものは無いのだ。
 天与の力どころか、人としての知恵も経験もない自分が腹立たしかった。あの収穫の日、長の命を下していたのが自分だったなら、今頃レンディアは飢えて死人の村だっただろう。若造扱いに腹を立てていた自分を思い出すと、なじりたくもなる。
 ふいに父の言葉が思い出された。
(気づかず、判断が遅れれば、皆の命を危うくする)
 セディムは身震いした。外の風の音が耳につく。引き裂き、奪い取り、泣き叫ぶ声だ。すでに、自分は時を逃しているのではないか――。
(何故、長の言葉をハールの意思だなどと言えるのか?)
 ふいに数日前にヤペルと言い合ったことを思い出した。
 長もただの一人の村人にすぎない――そう言ったセディムの言葉を城臣はきっぱりと否定した。
(いいえ。長はレンディアをお守り下さる方です)
 ヤペルは厳しい目で若い長に言い渡した。
(何よりも村のことを案じ、そのために祈ってくれる。だから、皆は自分よりも年若いあなたを『レンディアの父』と呼ぶのです)
 だが、その長の口から牛をつぶせなどと言われて、村人は従うことができるのだろうか。






 

4章-1
真冬の光 目次 4章-3






inserted by FC2 system