真冬の光  第三部 護り願うもの 4章-3
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第三部 護り願うもの
四章 ハールの祝祭 - 4

 
 宴の翌日から、一年の終わりの闇夜月がはじまる。すべての窓と扉を閉ざして、心静かにハールの歩みに耳をすませる期間だ。

 その日、セディムは城臣ユルクの私室に呼ばれた。近頃では珍しいことだった。セディムが長となってからは、ユルクが長の間へやってくるようになったからだ。ここを訪れたのは、数年ぶりだったかもしれない。
(最後に来たのは、何だったかな)
 そっけないほど物のない小さな部屋を見回しながら、セディムは考えた。
(ノアムと畑仕事を抜け出した時か。いや、その後だ。ルサを自分の牛に選んだばかりで……)
 自分の牛を持つ成人となっても、実のところセディムは狩の誘いには弱かった。その年初めての鹿を追いたくてならず、古臭い書物を放り出して狩に出かけたのだ。
 しかし、この時ばかりはヤペルの小言では済まず、城臣を束ねるユルクのところに呼び出された。子どものように注意されたことはさすがに恥ずかしく、以来セディムはいくらか継嗣らしく振舞うようになった。
 ユルクは何十年もそうしてきたように炉の前に座し、セディムもその前に腰を下ろした。子供の頃のようだ、と言うと、城臣は目を細めて笑った。
「わしもたまには長老のふりなどしてみたいのですよ」
「ふり?」
 今度はセディムが笑う番だった。
 経験も人柄も、ユルクは城臣全員を束ねる長老だ。このところのユルクは話し合いの席でもめったに口を開かなかった。ただ、黙ってセディムのすることを見守っていた。
 そのユルクは、まず祝祭日の贈り物を褒めた。選んだ村人、選んだ品からも長が村をよく理解していることがわかる。それから、最近の工夫のあれこれ。例えば、苗の用意や城の普請――。
「どうやら、長のかたち、というものが整って来られたようですな」
「型だけだ。中身がない」
「そうではございません」
 ユルクは笑んだ。
「形、と申し上げたのです」
「長の形?」
 そう、と城臣はうなづいた。
「何を考え、求めるか。どのように行動する長なのか。ケルシュ様とも違う。エフタの長とも違う。セディム様、貴方の『長の形』だ」
「……」
 セディムは眉を寄せた。ユルクが他愛ない話のために長を呼び招くはずはない。
「――ユルク。何を言いたい?」
「長。そろそろ、決断するべき時ではございませんか」
静まりかえった部屋に炎がたてるひそやかな音がした。炎は一瞬伸び上がり、そしておさまる。
「――わかっている」
 セディムは深く息をついた。
 牛をつぶす――そのことはずっと頭の片隅にあった。すでに答えは出ていて、ただ祝祭を終えて年が変わる節目を迎えるまでは、と先延ばしにしていたのかもしれない。
「だが、イバ牛を食べるなんて」
「ハールがお許しにならない、と?」
「違う」
 と、セディムは続く言葉を遮った。
「食べてはならないとは書物にも言い伝えにも無い。実際、遠い時代のレンディアはそうやって生き延びたんだ」
「では、何故迷っておられるのですか?」
「誰も、食べたくなどないからだ」
 セディムは口にしたくもない、という表情で答えた。
「何年もかけて育ててきた、ともに狩りに出る仲間だ。ハールからの贈り物でもある。そのイバ牛をつぶすなどと、どうやって皆を説得できるというんだ」
 そう言いながら、セディムは情けなくなった。
 牛をつぶさなければ早晩やっていけなくなる。それをわかっていながら、決めることができない。選ぶのが人でないだけ、ましなはずだというのに。
 答えに行き詰まり、言葉を失ったセディムを見守っていたユルクはやがて穏やかに言った。
「長、説得の必要などないのですよ」
 セディムは訝しげに城臣を見つめた。
「――どういう意味だ」
「もちろん、喜んで食する者はいないでしょう。だが、村の我々が何より大切にしているのは天との絆。それが守られることを願っているのです」
「……イバ牛は関係ない、と?」
「そう言ってもいいでしょう」
 ユルクはまっすぐに長を見つめた。
「長がハールに祈って下さるなら、我々は何でも受け入れられる。罠でも、牛をつぶさねばならなくとも――それが、長が決めたことならば」
 ハールがレンディアに下された宝を食わねばならないことを許して欲しい。ハールの子たる人間が生き延びられるように護って欲しい。そう長が祈ってくれるのならば――。
「――説得など、はなから必要ないのです」
 セディムは胡坐をかいた膝の上で拳を握りしめた。
 城臣の言葉を聞いても気は晴れなかった。むしろ、その理由の重さに、意味することに慄かずにはいられなかった。
「臆されましたか?」
 半年前のセディムなら、ふがいなさを見せまいと否定したかもしれない。だが。
「ああ、怖いな」
 ぽつりと呟いた。
「何を決める時も……どれほど考えた後でも、これでよかったのかと何度も迷う」
 考えられることは考え、手も尽くしたと思う。だが、これで本当に春を迎えられるのか。そして、来年も生きられるのか。ユルクは目を細め、かすかに笑んだ。
「ケルシュ様もよくそう仰った」
 セディムは驚いて顔を上げた。
「父上が?」
「ええ。選んだ道が間違ってはいないという証を頂けまいか、と天に願っておられました」
 そして風の音に耳を傾けるように口を噤み、ふと微笑んだ。
「わしは天の庭で、ケルシュ様にお会いできる日が楽しみですよ」
 その意味は明らかだが、ユルクはなお穏やかな表情をしていた。言われたセディムの方が胸苦しいような表情だった。
「あなた様のこと、ラシードのこと、他にも積もる話があるのですよ。その日が来ると信じられれば、やっていける。だから、長はただ決断されればいい」
 虹が天と地を結んでいる――あの歌で語り継がれる絆が生きているかぎり、レンディアは長に従うのだ。
 セディムはかすかな炎の音を聞こうとするように目を瞑った。自分の力の無さはよくわかっていた。だが、それを口にしても何の足しにもならない。
「――年が明けたらすぐに牛を選ぶことにしよう」
「……はい」
「そして、約束する。たとえ力及ばずとも皆がハールへ祈る心は……それだけは必ず守る、と」
 そう言ってセディムは立ち上がった。
 だが、出て行こうとするのをユルクが呼び止めた。
「セディム様、あなたのために祈ろう」
 セディムは訝しげに長老を見た。村人が長のために祈る機会はあまりない。だが、ユルクは目を細めて微笑んだ。
「これは、長ではなく……お育て申し上げた若子への、ハールの護りを願うものです」
 セディムは素直にうなづいて、城臣の前にもう一度座った。
 ユルクは手をのべ、赤子の時から見守ってきた若者の肩を抱いた。
「貴方の行く道を、ハールが御護り下さるように」
 それから、セディムの頭を両手で支えるようにして額を合わせ、祈った。
 それは、かつてケルシュがしたのと同じ仕草だった。






 

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