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第四部 真冬の光 |
一章 雪幻 - 2 |
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それは、夜半のことだった。 セディムは暗闇の中、寝台代わりの敷物から起き上がった。 「ルサ……?」 確かにいななきを聞いたと思った。だが、長の間の小さな続き部屋は静まりかえっていた。小さく落とした炉の埋み火だけが瞬いている。 耳をすませても変わった様子は窺えないし、第一、牛小屋からここまで声が聞こえるわけもない。しかし、セディムは立ち上がると、灯りに獣脂を足した。毛皮の狩衣を着込み、分厚い下ばきも身に着けた。 その時、遠くで地のどよめく音がした。低く、なにかを押しつぶすような、この冬は聞き馴染んだ音だ。 セディムは髪を束ねながら、いそいで部屋から飛び出した。そこへヤペルも駆けつけてきた。 「また、雪崩ですな」 「どこだろう?」 「西の棟でなければよいのですが」 どうやら、ヤペルもあの音で飛び起きたらしい。手には灯りを持ってはいるが、寝間着にはおった毛皮を前でかきあわせている。 「――まだ、起きておられたので?」 セディムの身支度に驚いたようだった。 「いや。目が覚めたんだ。ルサの声がした」 ヤペルは半信半疑の表情だったが、何もいわなかった。そこへ駆けつけてきた村人は、雪崩は牛小屋の上だと言って、そのまま他の者へ伝えに走り去った。 この冬、レンディアの宝であるイバ牛を守ってきたさしかけ小屋――その半分が今や瓦礫となっていた。 やってきた長を振り返ったローシュは渋い表情だった。 「四頭、流されちまいました」 その言葉を裏付けるように、小屋の壁はあらかた無くなって夜闇ばかりが見える。ヤペルが雪とガレ石のあいだから外を覗いた。 小屋は崖から離れて建っていたが、滑り落ちた雪が辺りを埋めてしまい、どこが崖だか小道だかわからなくなっていた。牛たちも落ち着かなげにいななき、蹄を掻いている。 ルサは無事だった。セディムは来てすぐに見慣れた毛色を確かめて、思わずほっとした。しかし見回すと、居るはずの何頭かの姿がなかった。 「長尾と、その仔牛たちか」 セディムは拳を握りしめた。横で牛をなだめていたボルクも辛そうに呟いた。 「若い、いい牛だったのに」 「長、そっちは危ない……」 セディムは崩れた壁に手を置き、用心しながら雪壁の先をのぞきこんだ。今も風に吹き上げられた雪片が煙のように舞っている。ほの白い斜面の先は闇にのまれていた。 「朝になったら、下を見に行こう。もしかしたら、まだ助かるかもしれない」 「セディム様」 「今夜はもう無理だ。足元が危なすぎる。壁の修理も明日に……」 振返ったセディムは、城臣の表情に眉をひそめた。 「ヤペル?」 「見張りをおきましょう。夜は危ない」 何の見張りかと問い返そうとして、セディムははっとした。どこかから長く尾をひく遠吠えが聞こえる。牛をなだめていた村人らも押し黙り、外の闇を見つめた。 「狼か」 冬のはじめの出来事が思い出されて、村人らは顔を見合わせた。 「来るぞ」 「ああ。腹を空かせたところに牛を見つけたら、必ず来るな」 「牛たちを奥へ入れろ。隣の部屋を牛小屋として使おう」 「外壁を修理せねばならんな」 城臣たちが数人を選んで、使える石を集めさせることにした。足りない分は、以前に壊れてそのままにされていた南東の部屋から運ぶことになった。牛たちもようやく落ち着きを取り戻したか、せまい通路を奥へと奥へと村人に従って歩きはじめた。 「弓と矢を」 壁のくずれた基部を検めていたセディムは、厳しい表情で後ろを振り返った。 「それから、ウリックから匂いのきつい薬草をもらってきて、火を焚こう」 雪が舞う闇の奥で、ときおり遠吠えがした。 石を運んでいた男たちはおもわず身構えた。だが、耳をすませても聞こえるのは風ばかりだ。雪が深いせいで他の音はいっさいかき消えていた。 牛小屋の壁は残ったところも組みが緩んでいるので、一度突き崩し、あらたに積み上げる。粘土と石を交互に積んでは押し固める根気のいる作業だ。その外側の急ごしらえの炉では、タパレと薬草が焚かれた。ひどい匂いと灰煙には誰もが辟易したが、しかたがない。 そして、さらに外側――瓦礫を低く積んだ石塁の前では男たちが弓矢をかまえ、並んで闇を睨んでいた。 「長」 ローシュが寒さにこわばる指をこすりながら話しかけてきた。 「何か見えますかな?」 「――いや。でも、聞こえる」 セディムは夜闇から目をはなさぬまま、矢先で向こうを示した。炉の灯りが届く、その先は真黒の夜の底だ。 「ときどき、風にまぎれて遠吠えが聞こえる」 「何を呼んでいるのやら」 ローシュは身震いした。 「もう少しでも火に近ければ、ありがたいが――」 夜気は凍てつき、弓を持つ手もすぐにかじかんでしまう。交代で火にあたっても、ろくに温まることはできない。しかし、セディムは首を振った。 「夜目がきかなくなる」 ローシュはうなづいて口元を覆う布を鼻まで引き上げた。 セディムも口元から霜を落としたが、その手袋も冷気で固くなっていた。風と人の息の音ばかりが夜に響く。闇を見る目に雪片がかかり、出た涙がふたたび凍る。ふた晩か、せめて三晩で小屋を直してしまいたい。こんな夜通し仕事と見張りをいつまでも続けるのは無理がある。 その時、闇の中に小さな灯が見えた気がして、セディムは身を乗り出した。 「長?」 静かに、と手振りで応えて、闇のさなかへ目を凝らす。だが、すぐにほうと息をついて、セディムは身震いした。 「何もない。見間違いだ」 隣にいた村人も肩の力を抜き、しかしまたすぐに弓弦を引き直した。その腕にセディムは手をおいた。 「交代しよう。気が張り詰めるとかえって物が見えなくなる」 それを聞いた背後の村人が見張りの列に入った。 「セディム様もちょっと火にあたってきたら……」 しかし、セディムは断って、もう一度白い闇を見つめた。 (今の幻はなんだったんだ) 身震いは寒さのためだけではなかった。雪の中に見えたと思った明かり。その後ろに、一瞬見覚えのある石壁が浮かんでいた――あの幻は、雪闇のどこかにいる狼の目から見た自分たちだった。 (ああ、そうか) セディムはふと目を閉じた。 (狼たちから見れば、牛はハールから贈られた獲物なんだ) いつになく長い冬。腹を空かせた狼の前に無防備に立つイバ牛は、天の贈り物でなくてなんだというのか。しかし、狙われる側の牛を守る人間にもハールは助けを与えている。弓矢や薬草、火を使う知恵もだ。 狼たちはハールにもらった毛皮を着込んでいる。山を疾駆する力強い四肢。鋭い視力と牙。賢くもある。一方の人間には柔らかい皮膚しかない。小さな歯と爪にひ弱な手足。だが、道具をつくる器用さをハールから与えられた――。 セディムはふと胸に熱い痛みを感じた――憤り、だった。 その時、高い音がして誰かが矢を放った。セディムははっとして矢を引いた。が、続いて聞こえたのは仲間の舌打ちだけだ。風か、とつぶやく声がした。 「闇夜では、奴らに敵わん」 手をかけていた牛が流されたことで、どの声にも無力感と歯がゆさがにじむ。 「しっかり顔を上げろ。我らはアレイオスの子の子らぞ。しっかり牛を守らんでどうする」 きっぱりとした声で仲間を叱咤したのはアラゴだった。そう言われて、男たちもなんとか弱気を振り捨てようと身震いした。 誰かが狩笛を吹いた。それを追うように別の笛も風を切り裂いて鳴りわたる。夏の狩のように獲物を追いたてるのではなく、狩られる側が威嚇のために鳴らす笛だ。 しかし、それでも聞きなれた笛の音は狩人たちを励ました。 「そうとも。恐れることなどないぞ」 男たちは互いに声を掛け合った。セディムは軽く頭を振って、もう一度矢をかまえ直した。 長い夜の間、村人らは耳をすませて見張りを続けた。セディムもまた明け方まで雪闇に眼をこらしていた。 |
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