真冬の光  第四部 真冬の光 2章-3
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第四部 真冬の光
二章 目録 - 4

 
 城臣部屋の鎧戸を打つ礫の音に、炉を囲む誰かが呻いた。
「西風、だな」
 ああ、だが言うな、と他の声がたしなめた。他の誰かが黙って茶を啜ると、また静かな夜に戻った。
 途切れたかと思われた嵐はいっそう強い風となぶるような雪礫を連れて帰ってきた。待ち月ともなれば、そろそろ風は南へ回ってもよさそうなもの。その気配すらないことを憂えて、城臣たちの表情は硬かった。
 彼らの顔をヤペルは見回した。村人や長には見せないが、城臣たちも冬に倦み疲れている。
(間違いなく来るとわかっていても、春はいつも待ち遠しいな)
 そう考えて、ほうと息をついた。
「――そういえば、ラシード。ディンの咳は良くなったようだな」
 炉の向こうで茶を煮ていた薬師は顔をあげ、うなづいた。
「ああ。早めに薬湯を飲んだのが効いたようだ」
 わずかばかりでも明るい話に皆の表情が和らいだ。だが、その一人にヤペルは目をとめた。
「トゥルク、どうした?」
 ぼんやりと炉を見つめていたトゥルクははっと我に返った。何でもない、と答えたものの、表情は冴えない。しばらくためらっていたが、やがて重い口を開いた。
 それは数日前の夕方だった。日中には弱かった風がだんだんと強まった。
 トゥルクと村人らは扉から雪をかき入れておくべきか相談した。雪嵐で扉は凍って開かなくなってしまうからだ。しかし、その必要はなさそうだと皆が言った。さきに溜めておいた雪がまだあるし、融かして入れる皮袋も足りない。
 確かにその通りだったので、トゥルクは村人らを広間へ帰した。そして一応、長にも伝えておこうと考えて、長の間の奥部屋を訪れたのだった。
 年初めに私室を引き払った長はずっとこの小部屋で寝泊りしている。時間さえあればここに籠もり、長い冬の終わりの兆し、あるいは病と飢えを耐えるための知恵を求めて古い年代記を繰っていた。
 しかし、扉を叩いても返事がない。トゥルクが遠慮がちに扉を押すと、セディムは床に積み上げた年代記と毛皮に埋もれて眠っていた。炉の火は消えかけていた。
 きっと疲れておられるのだろう。ゆうべは風の音で眠られなかったのだろう――そう考えたトゥルクは長を起こすのはやめて、静かに部屋をあとにした。
 彼が長の間に呼び出されたのは、その夜半だった。
 何事かとあわてて駆けつけた城臣は、長に強く叱責されたのだった。
 ――何故、もっと雪を運び込んでおかなかったのか。嵐の前に、もっと雪を集めておくべきだった。食べ物が少ない今、湯がなければ食事も作れない。
 そして、自分を起こして報告しなかった、と言ってセディムは声を荒らげた。大事なことは必ず言え。これからは自分に話さずに事を決めるな、と。
 トゥルクはその言葉よりも、むしろきつい物言いに仰天したのだった。

「――間が悪かったのだ」
 そう言って、モルードは仲間を慰めた。「数日の嵐くらい、皆も慣れているものを」
「そうなのだ」
 トゥルクはしょげ返ってため息をついた。
「このところ、長はどうかしておられる。その、一言でいえば、何かな……」
 トゥルクは何とか掴みどころのないことを言葉にしようと頭をひねった。
「引きしぼりすぎた弓弦のようよ。確かに言われることは筋が通っている。狙いは合ってはいるのだが、そうまで引かなくとも矢は飛ぼう、という感じだ」
 他の者たちも落ち着かなげに顔を見合わせた。皆、何かしら長から厳しい言葉を突きつけられたらしい。
 ヤペルはため息をつき、トゥルクの肩を叩いた。
「そうな。お前の気持ちもわかる。だが、お前が気落ちしてどうする。責を負って苦労しているのは長のほうだぞ」
「……」
「長には判断してもらわねばならないことが山ほどある。それも、近いうちにだ」
「……イバ牛のことか?」
 ヤペルはうなづいた。
 待ち月になれば、という望みはとうに失われている。食料はいっそう減っており、いずれまた一頭選んでつぶさなければならないだろう。
 いぶかしげな顔のラシードを見て、ヤペルは苦い表情で言い継いだ。
「もう、名のないイバ牛はいない」
 その言葉に薬師も眉を寄せた。つまり、どの牛を選んだとしても、誰かが狩の相棒を奪われるのだ。
「それを、長が決めるのか?」
 ラシードの目は責めているようにも見えたから、横に座っていたオルドムはむっとしてきつく答えた。
「代々の長がされてきたことだ。厳しいようだが、セディム様にも慣れて頂かなければならん」
「しかし、始終あの調子では身がもたんだろうよ。そうきりきりと何もかも回せるものではない」
「だが、そのつもりのようだぞ」
 ラシードはそう言って薬師部屋で長とかわした会話を城臣たちに話して聞かせた。
「簡単に諦めたりしない。考え尽くし、手を尽くさねば気がすまない。そういう長なのだ」
 冬ひとつ越すたびに長は経験を積む。結局、そういうやり方しかレンディアの者は知らないのだ。
「――わかっておる」
 トゥルクも頷きかえした。
「ただ、引きすぎた弓弦はどうなる? だから、わしは心配しているのだ。それこそ、この先何十年とレンディアを支えていただく方なのだぞ」
 しかし、オルドムは首を振った。
「それでも、だ。こればかりはセディム様自身が考え、歯をくいしばることでしか身につかんのだ」
 城臣たちは口を閉ざした。
 皆がわかっている。言い方は違ってもレンディアの将来を案じる思いは同じなのだ。軽く咳払いをして皆の話を引き取ったのは、ヤペルだった。
「トゥルクの言い分も、オルドムの言うこともわかった。いずれにせよ、わしらに今できることは、長が良い判断を下せるように支えるだけだ。今は厳しく思えても、ひいてはそれが長をお守りすることになるのだ。ただ――」
 身を乗り出すようにしてラシードを見つめた。
「長のこと、よく気をつけてくれ。そして、できれば話を聞いてさし上げてくれ。お前は、わしらとは違う支えになれるかもしれん」
 階下の広間からは夕べの祈りが聞こえてくる。それに耳を傾けていたレベクがやがてぽつりと言った。
「冬を越して、また次の年へ希みを育む。長には、どうあっても生きてレンディアの希望をつないで頂きたい」
 その言葉に奇妙に差し迫ったものを感じてラシードは眉を寄せた。
 仲間と顔を見合わせたレベクは、どこか哀しげな笑みを浮かべた。
「何があっても、セディム様には生き延びて頂くよ。そのためには、わしらの分の水も粥も食ってもらうつもりだ。――脅してでも食ってもらい、生きのびていただくよ」


 食糧庫の壁に、獣脂の手燭が小さな明かりの輪をなげかけていた。
 ゆれる明かりは幾度も部屋を行き来したが、照らし出されるのは石壁と床ばかり。たまに袋があっても、嵩のない頼りない姿で横たわっている。籠も部屋の隅に伏せて重ねられていた。そんな物どもをセディムは黙って見つめていた。
 冬のはじめ、ヤペルと検分したのとは別の場所のようだった。
 ヒラ麦の袋を開けてみると、わずかな麦粒がかわいた軽い音をたてた。酪乳はいつ終わったのだろうか。食事の席で最後に見たのは、ずいぶん前のことだった。
 その食事にしても、このところは何も入っていないような汁物ばかりだ。干した野菜はもう籠の底に残っているだけだ。タラ根のような根菜はよく保っている方だろう。それでも、幾束と数えられるほどしかないし、しかもそれぞれは情けないほど細かった。
 セディムはふと壁際の小さな籠に気づいた。あれはなんだったろうか、と近づいてみたが、蓋を取ると中は空だった。乾いた匂いから木の実を入れていたことを思い出した。いずれにしろ、ヤペルがよこした覚書に載っていたのは随分前のことだ。そして、氷と雪はあまるほど城のまわりに積みあがっているのに、融かす術がない。
 こみあげる悔しさに、セディムは拳を固く握りしめた。
(もっと早く――それこそ、冬の初めのうちに牛をつぶせばよかったのだ)
 やれと命じるべきだった。その頃であれば、無理を命じる長という役割を自分が受け入れれば済んだのだ。拳を叩きつけたい先は自分以外の何者でもない。そして、そんなことを考えながらも、それでも腹が減るのが情けなかった。
 皆の気持ちを考えて――それが、かえって辛い結末となってしまった。そのイバ牛たちに食べさせるものもろくに無い。認めたくはなかったが、村は飢えようとしていた。
 セディムは食糧庫の扉をそっと閉め、階下の牛小屋へ降りていった。
いつもと同じように数頭が頭をもたげてこちらを見る。だが、餌でも水でもないとわかると我知らぬ顔で地面を掻いたり、低く唸った。ルサだけがあるじに鼻を鳴らした。
 セディムは黙ってルサの毛を梳いてやった。灰褐色の長い毛は飢えのせいか、艶も量も減ったように見える。それをゆっくりと時間をかけて背から横腹を梳きおろし、掌で何度もこする。
 やがて思いついて、長い毛を飾り編みしはじめた。祭りの折々に晴着がわりに施してやる飾りだ。スレイのように器用ではないから、満足いく出来栄えになるまで何度かほどいて編みなおした。
 苦労の末にできあがると、セディムはルサの横に腰を下ろして、その姿をしばらく見つめていた。
 やがて、二言三言をイバ牛の耳に呟いてから、小屋をあとにした。






 

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