真冬の光 第四部 真冬の光 | 2章-6 |
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第四部 真冬の光 |
三章 希求 - 1 |
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城の中は底抜けに冷えていた。ひと気のない廊下など外とたいして変わらぬ寒さだったが、そこを何度も往復してスレイは手桶で飲み水にする雪を運んでいた。 慣れた仕事のはずだった。だが、階下からここへ来るまでにすでに息が切れてしまった。たかが桶を運ぶだけなのに、とスレイは腹立たしかった。 「おう、スレイ。ちょっとひと休みしよう」 遅れて階段を上がってきたのはテルクだった。二人は階段のすみに腰を下ろしてひと息をついた。 「あとどれくらい運ぶ?」 「そうだな。あとひと往復したら、誰かに替わってもらおう。そろそろローシュたちも元気を取り戻しただろう」 そういうテルクも額の汗をぬぐった。 朝から何往復もしたローシュや数人の男達も疲れて休んでいた。皆、思った以上に体力が無くなっているようだ。しかし、鳴るのすら諦めた腹を抱えて、それでもスレイは何かせずにはいられなかった。 テルクはかたわらの少年の表情にふと目をとめた。 「どうした?」 スレイはためらいがちに目をそらした。しかし。 「ほんとうは俺も……ノアムと一緒に山を下りたかったんだ」 「それは言うな」 だが、一度口にしてしまうと、もう隠すことはできなかった。 「暖かくなるのをじっと待つなんて、もうたくさんなんだ。ヤペルはどうして行かせてくれなかったんだ?」 「他にも行きたいと言った者はいた。でも、皆というわけにはいかないだろう? 雪の中を荷を持って歩けるだけの体力がある者に任せたんだ」 その時、廊下の先に静かな足音が聞こえて、テルクは顔を上げた。 「長」 立っていたのはセディムだった。このところの日課となっている城中の見回りの途中なのか、テルクやスレイと同じ冬の外衣姿だった。 「雪はどのくらい運べた?」 「……だいたい一日分と思います」 疲れから、ぼうっと長を見上げていたテルクはあわてて考えて答えた。セディムはこくりと頷くと、無理しないように交代しながら頼む、と言って、階段を下りて行った。 テルクの後ろで黙っていたスレイは拳を握り締めた。彼とて自分が村の中でひよっこ扱いであることはよくわかっている。だが、スレイがそこに居ないかのようなセディムの振る舞い――セディム自身はそんなつもりはなかったのだが――に口惜しさがいっそう募った。 その表情に気づいて、テルクは少年を諫めた。 「本当に一番行きたかったのは、長なんだぞ」 スレイは唇を強く噛んだ。 セディムが山を降りたがっていたこと、説得されて諦めたことは今では村人皆が知っていた。 ほとんどの者がそれでよかったと考えていた。長の身に何かあったら、それこそレンディアはお終いだ。 「……わかってる。でも」 スレイはくやしそうに呟いた。 「俺は……はやく、もっと力が欲しい。もっといろんなことができて、何でも知っていて……」 「そうなるさ」 テルクは思いつめた表情の少年の肩を叩いてやった。 「この夏、来年の夏が来るたびにそうなるから。だから、焦らず自分のするべきことをすればいい」 「……」 テルクはぽんと膝を打って、立ち上がった。 「さあ、今できることをするぞ」 広間からだろうか、どこかから詠唱が聞こえていた。 近頃、城には祈りの声が絶えることがない。朝も夜も、時に夜中でさえ低くひそやかな声が続いていた。 誰かに呼ばれたような気がして、セディムは足をとめた。 だが、ふり返ってみても静まり返った廊下には誰ひとりいない。風の音か空耳か、と軽く頭を降ると、次は台所の様子を見に行こうと長い階段を下りた。 実のところ、スレイを止めたのはヤペルではなくセディム自身だった。 スレイはまだ幼い。初狩を許されたとはいえ、重い荷を負って雪を分けて行くには力が足りない。実際、こんなところで座りこんでいたのも疲れからだろう。だが、それを口にして、幼馴染の矜持を砕きたくはなかった。だから、スレイに話しかけなかったのだ。 しかし、その顔を見れば、何を望んでいたのかは明らかだった。 (自分も、父上の目にはあんな風に映っていたんだろうか) 思いつくことすべてを試さずにはいられず、父や城臣たちがもどかしくてならなかった。そこに自分の立場も、父の慎重さへの理解もなかったのかもしれない。 長が決めることだと言った、自分の言葉の重みだけが手のうちに残った。 (何故、わからなかったんだろう) 今も続く祈りの声は、おそらく春の芽吹きまで絶えることはないだろう。それほどに村人がハールへ願う気持ちは強く、長を頼る思いも深い。そのことを漠然としか理解していなかったから、父は未熟な自分を諌めたのだ。 今も自分が長に価うかどうかなどわからない。言い伝えにあるような天与の力などないことは知っている。ただ、責があるだけだ――。 セディムはふと足を止めた。覚えのある鳥の羽音が聞こえた。 (雪鳩? こんな城のそばで?) しかし、見やった窓の外は風が積もった雪を吹き上げるだけだった。 (どうも今日は空耳ばかりが聞こえる) ふと苦笑をもらして、セディムはさらに石段を下りて行った。 かつ、かつ、と鎧戸を打つ音に、ラシードは目を上げた。 音をたてたのは雪つぶてのせいだろう。となれば、また外はいっそう凍てついているのだ。山を下りた者たちのことを思い、その無事を祈る言葉を呟いた。 薬師部屋の片隅で、彼は身の回りのものを検めていた。古びた外衣、小さな荷袋。 そして、その下から、ラシードは細長い包みを取り出した。ぼろぼろに破れて穴の開いた布――ラディアなどは新しいものに替えても罰はあたらないと呆れていた――その包みにくるまれていたのは、久しく触れていなかった剣だった。 しばらくそれを見つめたあと、ラシードは布きれを手に鞘を拭き始めた。鞘が終ると装飾のついた柄を磨く。しかし、階段を登る足音に気づくと、手を止めて待った。 「ラシード、昨日話した薬草だが……」 話しながらやってきたのはウリックだった。 だが、部屋に入るなり、ラシードの荷物そして手にしたものに目を瞠った。 「……何をしてる?」 ラシードは剣を置くと、静かに答えた。 「雪が解けたら、山を降りようと思う。もし、お前が許してくれるならば」 「なんだって?」 ウリックは困惑した表情で兄弟子と荷物を見比べた。 「どういうことだ? 俺ではなく、長に許しを請うべきではないのか?」 長に仕えると決めたのではなかったのか、という言外の問いにラシードはうなづいた。 「そうするつもりだ。だが、長はきっと許してくれる。そして、俺にはお前の許しがいるのだ」 だが、その言葉の終わらぬうちにウリックはラシードの肩を掴んだ。 「お前、いったいどういうつもりだ?!」 ウリックは兄弟子を強く揺さぶった。 「また昔のように、どことも知れんところを旅して来ようというのか?」 ウリックがとまどうのも無理はない。兄弟子と手分けして病人を見る毎日にようやく慣れてきた。自分に何かあってもラシードがかわりに村を見てくれる、そう思い始めていたのだ。 「ウリック、俺は……」 「理由を言え」 ウリックはラシードの目を真正面から覗き込んだ。 「俺を納得させてみろ。でなけりゃ、長がどう仰っても俺は許さない」 |