真冬の光  終章 3章-6 真冬の光 目次 あとがき

終章
 濃紺の空にイワツバメの鳴き声が響いた。
 レンディアは短い春を迎えた。いまや葉月も終わろうとしていた。

 麦畑に風が吹きわたると、若苗はその細い葉をゆらした。
 苗を植えていたノアムは腰をのばし、緑の波を見渡した。連なる畝の向こうにぽつんとスレイの姿が見える。
「おおい、スレイ」
 手びさししながら、声を上げた。
「ちょっと休もう。こっちももう終わるから」
 小さな人影は手を振り、また麦の上のかがみこんだ。
 ノアムは畑の脇の小道に腰を下ろした。葉月も末というのに、風はいつまでも強かった。麦の植えつけにはかなり時期が遅いのだが、これでも山の空気がやわらぐのを待った。ただでさえ育ちの遅い苗を枯らすわけにはいかない。
 上の畑からは風にのって植えつけの歌が聞こえる。畝の間で働く男たちもそれに気づいて、返歌を歌いはじめた。
 いつもと変わらないレンディアの風景だ、と考えて、ノアムはふと苦笑した。
(同じ、ではないな。こんなに何度もひと休みしなけりゃならないなんて)
 ノアムは手を組んで、大きく伸びをした。朝からまだいくらも働いていないのに、もう疲れが出てきたことに驚いた。
 だが、これはノアム一人だけではなかった。
 この長い冬――何十年ぶりという寒さと飢えで少なからぬ数のレンディアの民がハールのもとへ還っていった。残された者も弱って、春の畑仕事は交代で休みながら行わなければならなかった。男も女もなく互いの仕事を手伝い、支えあっている。
 だが、村人たちの顔は明るかった。麦は細く、風は冷たい。それでも希望がある。ノアムは城の塔の一窓をふり仰いだ。
 長いこと閉ざされたままだったその窓は、最近はときどき開かれるようになった。
「早く、戻ってきてくれ」
 ノアムは穏やかな声でつぶやき、ゆっくり立ち上がった。
 あとは畑を囲む水路をなおし、野草が採れるか見てまわることになっていた。やわらかく、ほのかに苦い若芽を摘むことができれば――長の回復にこれほど良い知らせはないだろう。

 そのセディムは、私室の寝台の上に足を放り出すように横たわっていた。
 皮の靴をはいたままの姿に、入ってきたヤペルはやれやれという顔をした。
「靴は脱いでから休まれた方が……」
「嫌だ」
 眠ったようにみえたセディムは、薄く目をあけて答えた。
「苦労して起きて履いたんだ。このままでいる」
「そうですか」
「今日は階段まで歩いた。明日は下に降りるぞ」
 冬の終わりから、セディムは長く寝込んだままだった。
 寒さと飢え、そして村を案じて気力が萎えたのだ、と薬師は言った。そして、城臣や手伝いの女たちには長をよく眠らせるように、自分で起き上がれるようになるまでは、決して起こしてはいけない、と注意した。
「だが、いつまでも寝ていては体がなまるばかりだ」
 セディムは文句を言ったが、ヤペルの表情は厳しかった。
「その顔色で仰っても、聞く気にはなれませんな」
「陽に当たらないからだ」
 あれこれと文句を並べつつも、セディムは上機嫌だった。
「今日は靴が履けた」
 そう言うと満足げに目を瞑った。見守っていたヤペルは溜息を落とした。
(あれは何だったのだろう――)
 幾日も続くと思われた、あの嵐が止んだ朝。
 ノアムたちに聞けば、最後の一日は風雪で何も見えなかったという。それが突然に嵐が過ぎ去り、見れば城のすぐそばまで来ていることに気づいたらしい。
 三日間、眠り続けたセディムは目を覚ますと、そばにいた城臣たちを叱責した。目印のかがり火が消えていたからだ。
 だが、麦はすでに届いた、十分とはいえないが雪解けまではしのげる、と言うと、セディムは信じられないという顔つきでヤペルを見た。
 今、レンディアで腹を空かせているのはあなただけだと城臣が冗談を言うと、セディムは笑い、そして涙を流した。

 ――天恵か、奇跡か。
 そうとしか言いようがないものは、祈りが招いたのだろうか? 古い時代の長たちが持っていた力とは、このことなのだろうか?
 実のところ、ヤペルにもわからない。ただ、あの日から何かが変わった。空には鳥が、地には薄い緑が戻った。まだ冷える日もあるが、村人の表情は決して暗くはない。
 セディムはまだ床を払えず、今も時おり雪嵐の夢を見るらしい。しかし、間違いなく新しい年月がはじまったのだ。
「――長?」
 ヤペルはもの思いから立ち戻って話しかけた。が、返事はなかった。
 皮の靴をはいたまま、両手を広げて寝台に横たわる長の寝顔は満足そうだった。


「さあ、みんな。よく見ておくれ」
 ウリックは子供たちの輪の中に座っていた。
 下は歩きはじめたばかりの子から、上は八歳ほどの少年まで。彼らは身を乗り出して、ウリックの手にある細い草をじっと見つめた。
「しってる!」
「フルギクだ」
「ちがーう。ヒメアオクサだよ」
「フルギクだもん」
 声を張り上げる子供たちの中で、ウリックは悠然と言い切った。
「――みんな、違う」
 子供たちはいっせいに黙りこくった。
「声が大きい方が正しいわけではないぞ。これは、イワツルアオイ。煎じて飲むと、熱が下がる」
 ウリックはぐるりと見渡した。
「これがあると、村の皆がとても助かる。だから、見つけたら場所を覚えて、後で教えてくれるか?」
 子供たちは目を輝かせながら外へ飛び出していった。それを見送り、ウリックは笑みを浮かべた。
 薬師の後継を育てる――これは、この数年ウリックが悩んでいたことだった。
 ウリックもラシードも薬師部屋に住み込み、先代の婆から知識を学んで大きくなった。しかし、別のやり方もあるのではないか、とウリックは最近考えるようになっていた。
 知識を身につけて村人の病を治せるようになるには長い時間がかかる。薬師自身が病に倒れないとも限らない。村人の中に少しでも薬草の心得がある者がいた方がいいのではないか。それに、ふもとへ下りたときに、新しい薬草を見つけられるかもしれない。
 平原のものすべてを最初から拒んでしまう必要はない――そう教えてくれた兄弟子のことを思い出して、ウリックは窓辺に立った。
 山をわたる風は遠くの峰々、その先にまで届くだろう。
 風が感謝の思いを伝えてくれることを願って、ウリックは目を瞑った。


 誰かに呼ばれたような気がして、ラシードは馬上でふり返った。
 だが、聞こえたのは頭上の鳥の音だけだった。平原の草の海――その中で手びさしして空を見上げると、後にしてきた故郷が思い出された。
 レンディアに麦がもたらされて数日後、ラシードがふたたび山を降りると告げると、城臣たちは騒然となった。まだ病人もいるのに何を言うのか、と。
 しかし、ウリックが反対もせず、置いていく薬草の使い方を尋ねるので、誰も止めることができなくなった。
 若長もまた薬師を引き留めなかった。ただ、祈って送り出してくれた。
 ――その行く道をハールがお守り下さるように。そして、ここへの帰り道を見失わぬように。
 その言葉を思いおこし、ラシードは草原の風とともに深く胸に吸い込んだ。
 草のむっとするような匂いが身体に満ちていく。空の色も空気の濃さも、レンディアとは違う。だが、間違いなくあの地につながっている。そう知っていることは大きな幸福だ。
 旅の意味も、帰る理由もあそこにあるのだ。


 やがて、レンディアは短い夏の日々を迎えた。
 稜線に獣の姿が現れ、若い鳥がようやく覚えた歌をうたうようになった。
 その空に響いた狩笛の音に、イバ牛はぴくりと耳を立てた。セディムは苦笑してルサの首を軽く叩いてやった。
「あれは遠い。スレイに任せよう」
 草の緑と岩の灰色でまだらに彩られた斜面。セディムがそこを見下ろすのは久しぶりのことだった。
「この晴れは夜までもつか? もつなら、今日は崖の上まで登ってみようか?」
 ルサはぐぐぅと低くうなった。
 このところ、セディムは天候の判断はルサに委ねることにしていた。なぜなら、夏を迎えた今でも、時折思い出したように雪や嵐の幻を見ることがあったからだ。
 雪が融けたのは葉月も半ば、そして植えつけができたのはその月も末になってからだったが、そのすべてをセディムは村人に任せなければならなかった。
 畑はおろか、床から出られなかった。穴のあいた皮袋で水を汲んでいるような疲れが身からぬぐえず、眠ってもろくな夢を見ない。眼前にはくりかえし雪嵐の風景が現れた。
 ようやく起きて、外を歩けるようになったのは花月。しかし、幻は消えなかった。
 岩場にゆれる白い花は雪に見え、夏風の中にふいに雪つぶての音が聞こえて身構える。だが、それは鞍端に当たった自分の矢筒の音だった。
 星空を眺めているのに、耳に烈風が聞こえる日もあった。目に見えるもの、耳がとらえるものが眼前の風景とまったくかみ合わないことに苛立った――。

 甲高い鳥の音に、セディムは我に返った。
 ルサの背に揺られて急峻な斜面を登り終えると、足元の草の匂いにほっと息をついた。
 山を渡る風の音を聞くと、今も胸のつぶれるような思いがする。しかし、それを恐れることもしだいに少なくなっていた。
 吹くなら吹け。そう思いながら、蒼天を見上げる。いつまでも、いつまでも。
 晴れている、と自分が信じられるようになるまで空を見つめた。
 ――目を見開け。何が現実なのか、よく見ろ。
 そうやって幻を追い払うことを覚えつつあった。
 狩場を歩くうちに、セディムは灌木の枝先に目をとめた。思わず懐かしさを憶えて手をのばす。いつか仕掛けた罠の残骸だった。
 蔓紐が噛みちぎられて、仕掛けは壊れていた。まんまと逃げられたのだ。セディムは苦笑をもらした。
「これでは、捕まるまい」
 形からして、去年の夏に気乗りしないノアムを引っ張りまわして仕掛けた罠に違いない。城臣たちの目を盗んで作った、まだまだ工夫の足りないしろものだった。
 あの頃とは、セディムもレンディアも大きく変わっていた。
 今年の初狩の儀式のあと、狩人たちは弓矢だけでなく腰に罠も携えて狩に出て行った。仕掛ける時にハールへ獲物を願う祈りを捧げる者も多いという。もっとも、かかる獲物はそう多くない。
(山の獣も賢くなった。ハールが知恵を授けておられるのだ。こんなものに捕えられるな、と)
 そう、すべてはハールの手のうちなのだ。
 だから、人は思いつくかぎり、力を尽くすしかできない。
 最後の雪嵐が去った朝。あれは長が引き起こした奇跡だ、と信心深いレベクや村の者たちは言うが、セディム自身はそれは違うと思っている。
 だが、ハールが祈りに応えたのだと言われたら、そうかもしれないとも思う。セディムの祈りか、あるいはこの心優しく敬虔な山の民の祈りにだろうか――。
(どちらでもかまわない)
 ハールは必ず応えてくれる。それを信じられれば、この先もやっていける。

 セディムはまっすぐ頭を上げて、遠い峰々を見遥かした。強い風がのびかけの髪をはためかせる。
 これからレンディアは厳しい数年を迎えるだろう。人も牛も減り、貯えはさらに少ない。だが、わずかな希望の光がある。

 目を見開け。現実を心に刷り込め。

 ――そう自分を奮い立たせて、セディムは今いちど空を渡る風に耳をすませた。

The End

 

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