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〜    この夏の夜    〜

 

 高い峰々のもと。風吹き降ろす尾根に囲まれているとはいえ、小王国の夏はそれなり暑い。
 強い日差しのもと畑仕事に精を出すレンディアの村人たちは、時折山稜を見上げて笑いまじりに話すのだ。
「あそこを歩いたら気持ちよかろうな」
「馬鹿め、あっというまに転がり落ちるわ」
 そして、そんな冗談を実行してみようと言い出したのは、酔狂の好きな若者たちだった。

 

 セディムがレンディアの長となって、早二年が過ぎようとしていた。
 日に日に長らしさが板につく、と城臣たちは喜んでいたのだが、当人はただ必死なだけ。その板に、転がり落ちまいとしてしがみついているのが実情だ、と思っていた。
 周囲の若者たちの間にも、割り切れない気持ちがいまだ残っていた。
 昨日までの仲間がふいに連れ去られたように消えて二年。責任ある立場となった友人を支えようとは思う。だが、長と呼ぶのに慣れてしまったら、以前のつきあいなど消えてしまいそうな気もしていた。
 そんな折に、彼らの主将格だったノアムの婚儀が決まった。
 村中の憧れの娘を射止めたノアムはからかい混じりのげんこつの嵐でぼこぼこにされた――約一名が本気だったからだ。
 そして、近く身をかためるノアムを囲んで、飲んだり食ったり、最後の夏の晩を楽しもうという話が出た。ついでに、分別くさい顔をし始めたかつての遊び仲間も交えて、活をいれようということになったのだった。
 どうせなら、村を離れて羽をのばそうと言い出したのはセディムだった。手頃なことに、狩場の上には古い小屋があった。まさか大岩の上まで登るわけにはいかないが、あそこならいい。雪渓のそばだから、涼しくて気持ちいいだろう。
 当然、男同士の気のおけない集まりだ。少々むさくるしいという不満も出たが、しかたない。祭りでもないのに、娘たちが遊びに来るはずもないからだ。
「そのかわり、俺が腕をふるうぞ!」
 そう宣言したのはスレイだった。
 普段の調子のいい言動に似合わず美しい彫り物をする彼は、実は料理がうまい。狩人なら誰でも『食べ物』の支度をするが、『料理』と呼べる品を作れる男は少ない。
 よし、それなら城臣のトゥルクから酒も分けてもらおう、と話は調子よく進んだ。夏といえば、山の民にとっては畑だ、狩だと忙しい時期だ。それぞれが畑仕事を済ませ、狩を締めてから小屋へ集まろうということに決まった。

 

 だが。
「火打石が、ない?」
 陽も傾きかけた頃、狩場の小屋に集まった若者たちは情けない風体だった。
 上半身裸でびしょぬれ。一日の仕事を終えて、こざっぱりしようと雪渓の上を滑り、転がり落ちて遊んでいたのだ。
 夕方ともなれば山の気温は下がるから、さて今度は飲み食いして芯から温まろうとしたところだった。
「火が起こせない」
「薪はあるんだがなあ」
 若者たちはつっ立って、互いに顔を見合わせた。
「ディンが持って来るんじゃなかったのか?」
「いや、だってスレイが自分が用意しとくって……」
「阿呆、そりゃ塩だ」
「俺、塩、持ってきたぞ」
「足りないといけないと思って」
 差し出された五本の手には、どれもイバ牛の角の塩入れが握られていた。
「塩ばかり、こんなに食えるかよ!」
「ウサギは獲ってきたぞ」
「ライナから野菜も分捕ったから、煮込みでも……」
「火がねえんだって」
「第一……」
 情けない声を出したのは、少年のダルだった。「鍋がない」
 沈黙が覆った。
「そんなはずはないだろう」
 ノアムは訝しげに口を開いた。
「狩小屋にはもしもの時のために一式置いてあるもんだ。古い皮鍋くらい……」
「悪い。無いんだ」
 あっさりと答えたのはセディムだった。
「何だって?」
「ここは古くなったから、秋の狩の前に建て替えようと城臣たちと相談して、このあいだ全部取っ払ったんだ」
「セディム、お前なあ、そんな大事なことを何で言わないんだよ」
 スレイは幼馴染の肩を掴んで揺すった。こうなったら長も村人もない。
「火打ち石はノアムが、鍋や杯はディンが支度するって。スレイ、お前が言ってたんじゃないか」
「いつの話だよ? その後、段取りが変わったろうが」
「俺は聞いてない」
 ひどい有様だった。
 確かにこのところ誰もが忙しかった。何日も互いに顔を合わせられず伝言を繰り返したあげくの、このていたらくだ。
 寒くて仕方なくなったので、それぞれが毛皮の寝袋にくるまった。豪快な宴のはずが、腹を空かせた山ウサギの巣穴のようになってしまった。
「あるのは野菜?」
 ますますウサギだ。
「あと、塩と酒」
「いいじゃないか」
「お前だけだよ、セディム。そんなんで満足するのは」
「そうがっかりするなって」
 セディムは明るく言い放って毛皮を脱ぎ捨てた。「これがある」
 手にしていたのは堅い木の枝だった。
「何するんだ?」
「後は、だな」と呟きながら壊れかけた羽目板を折り取り、セディムはどっかり胡坐をかいた。
「こすって火を起こすんだ」
「お前、気が長いって!」
 四人は悲鳴を上げた。
「火打石を取りに戻る方が早いんじゃないのか?」
 すると、セディムは板切れから顔を上げて笑った。
「それじゃ、つまらないじゃないか。ちょうど枯れ草が残ってる。早く。ウサギをさばけ」
「ほ、本気か?」
「面白いじゃないか」
 そう言って一心に木切れをこすり始めたものだから、他の四人もつき合わないわけにはいかなくなってしまった。
 手のひらで棒を回して板をこする。薪を運び、獲物をさばき、交代しながら棒を回し続ける。やがて、先が黒くなった。
「続けろ、早く」
 そう声をかけ合ううちに、嗅ぎ慣れた煙と赤い点が棒の先端に現れてきた。
 ようやく起こった火を草に、そして細い枝に移らせる。そして、薪の上に肉がかかげられると、安堵の笑い声が上がった。
「やった」
「ようやく物が食える」
 炎はしだいに大きく、勢いをつけはじめた。若者たちはうっとおしい毛皮を肩から落とすと、揃って炉にあたり始めた。動きまわったからさほど寒くはないが、せっかく起こした火だからあたりたくもなる。
「野菜はどうする?」
「そのまま、食っちまおうぜ。俺、腹が減ったな」
「酒はどうするんだ? 杯もないのに」
 ふいにノアムは悲しそうに言った。酒壺の口はかなり広い。傾ければ人の口に入るより多くこぼれてしまうだろう。せっかくの酒が、と眉を寄せたノアムを見て、セディムはにこにことした。
「セディム?」
「心配するなって」
 と、幼馴染の背を力いっぱい叩く。「何のために彫り師がいるんだ」
 とたんに、四人は顔を見合わせた。
「まさか」
「いや、やってできなくはないが……」
 スレイの顔は明らかに青ざめていた。
 確かに作れなくはない。火を起こしたことを思えば、杯なんて簡単なものだろう。
 しかし、ウサギがこんがり出来上がるのに、もう半刻はかかるだろう。それならば村まで取りに戻ってもいいのではないか。楽しみにしていた宴の場で、何が悲しくて木切れを彫って器を作らなければならないのか?
 これは長の命ってことになるのだろうか。そう考えて、四人は戸惑った。
 そんな集まりのはずじゃない。
 今日はめんどうなことは忘れて、ただの狩人仲間に戻って騒ごう。そういうことだったじゃないか。
 四人の重苦しい沈黙をよそに、セディムは一人上機嫌で野菜の籠の中身を取り出していた。
「おい、セディム」
 スレイはきっぱりと声を上げた。
「今日は皆で騒ごう、一緒に飲もうって話だったよな」
「ああ」
「長も何もないって」
「ああ。だから、頼むぞ」
 と、セディムはスレイに太めの根菜を放って寄越した。
「柔らかいから、すぐ出来るだろう?」
「は?」
 聞き違えか、と首をかしげたスレイをせかすように、セディムは根菜を指差した。
「そいつで杯を作るんだ。早く彫れ。飲みたくないのか?」
 スレイの口がぽっかり開いたのと、ノアムが吹き出したのと同時だった。仲間たちが腹を抱えて笑うのを、セディムは不思議そうに見ていた。
「野菜を切るのを手伝ってくれよ。丸ままじゃ食べられないだろう」
 ざくざくと音をたてて、若長は野菜を四つ割りに切った。人の頭ほどもある葉野菜の株だ。
「せめてその半分くらいにしろよ、セディム」
「そうか?」
「お前もおおざっぱだな」
 当人は気にする様子もない。これも炙ってみるか、それとも肉をくるんだらどうだ、とあれこれ試すのに余念ない。
 やがて、根菜を輪切りにして中を刳りとった器が炉のそばに並んだ。あとは、することは決まっていた。
 その晩、酒壺は車座の間をいくども行ったり来たりした。

 

 それは、真夜中だった。
 どうして目を覚ましたものか、ノアムはむくりと起き上がった。
 埋み火だけが小屋の中を照らしている。すっかり酔いつぶれた姿が、毛皮をかぶってそちこちに転がっていた。
 風に揺れた扉をそっと押し開けると、外は漆黒の闇だった。雪渓を渡ってくる風さえ息をひそめた沈黙の中に、岩のように動かない姿がある。
 それが振り返ると、ため息のように答えた。
「すごく、きれいだ」
 セディムの声だった。
 見上げれば、夏の空は星々であふれて、こぼれそうだった。静寂のなか、瞬く音さえ聞こえそうな気がした。
 ノアムもまた、うまい言葉など知らなかった。だが、この夜空を忘れることはないだろう、と思った。

 いくつ歳をかさねても、覚えているだろう、と。

 ただ、声を出すのもためらわれて頷きながら、ノアムは幼馴染の傍らに腰を下ろした。

 

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