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落花  
 めずらしく電話が鳴ったのは、ゆうべのことだった。
「お父さんが倒れたのよ」
 母からだった。
 命に別状ない。それでも、きっと会いたがるから。
「ゆき、帰ってきて頂戴」
 二言、三言短くこたえて、呆然とゆきは受話器をおいた。父が倒れるなどと、考えたこともなかった。
 だが、本当に心がゆれたのは、母の声を聞いた時に浮かんだ言葉だった。
 帰りたくない。
 ――そう思ったのだ。


 遠い山の端が白いもやに包まれる、早朝。
 ゆきは冷たい手をこすりながら、玄関先に荷物を置いた。
 山あいの旧い民家のひとり暮らし。すぐに家を出るから、そう思って今朝は暖房をつけることもしなかった。さかりの桜も、この寒さにふるえているだろう。
 本数少ないバスがくるまで、まだ時間があった。ゆきはもう一度火の元を確かめ、忘れたことはないかと部屋を見てまわった。
 留守中に部屋のほこりをはらって欲しいと、鍵は隣家にあずけてあった。
 山と積まれた糸やら布の束をみたら――とりあえずはビニール袋にいれてあったけれど――隣人は何と思うだろう。ゆきは小さく笑った。巣でもかけるつもりかと驚くのかもしれない。
 もっとも、独立して三年。かけ出しの染織家の仕事場にはあって当然のものだ。
 余分に仕度した糸がひと巻き、織り捨て糸も捨てられずにしまいこむ、織るあてもないのに色に惹かれて手に入れた幾かせの糸束。これまで積み上げてきたことの証しでもある。
 それなのに。
 ぼんやりと考えながら、糸巻きやかせ繰り機に布をかぶせていく。いつ帰れるかわからないからだ。ゆうべの電話を思い出して、ゆきは眉をくもらせた。
(帰っていらっしゃい。仕事なんて、とりあえず畳んで来なさい)
 何ということを言うのだ。そう思った。
 父の病状をくわしく聞いたわけではないが、声でわかる。いい機会だと考えているのだろう。しかし、仕事はそう簡単に畳めるものではない。
 汚れないように布でおおった機(はた)には糸がかかっている。はじめて手にした桜染めの絹糸は、まだいくらも織りすすんではいない。
 地元の店においてもらう作品がぽつりぽつりと売れ出したのはここ半年ほどのこと。東京からきたよそ者がようやく顔を覚えてもらえた。人に信用してもらえるようになったのだ。
 どうして、今なのか――仕事はこれからだというのに。
 両親はゆきの仕事をこころよく思ってはいなかった。都会暮らし、商社勤めの忙しい父、若いうちに嫁いだ母。彼らはひとり娘が「働く」ことを理解しなかった。
 ゆきが織物をしたいというと、品のある良い趣味だと評した。
 それが染織工房に弟子入りして、手をまだらに染めたり蚕の繭を煮ることだと知ると、父は眉をひそめた。
(そんな汚れ仕事は人にやらせればよいだろう)
(嫌だわ、気持ちの悪い。やめて頂戴)
 母はそういって涙を流した。
 ゆきは特に不満にも思わなかった。両親の言いそうなことだとわかっていたからだ。ただ、あの家には居たくなかった。
 糸管からほどけ垂れる糸に、ゆきは指をのばした。
 甘撚りの糸をほぐすとよわよわしい繊維がむきだしになる。まるで鳥のひなの羽のようだ。幼い日々のことが思い出された。
*       *       *
 帰ってきて。
 そう言った母の声は細かった。そのことは、ゆきをいっそう苛立たせた。母は昔から父がいなくては何も決められないような人だった。
 父もまた何事も自分の思うとおりにしなければ気がすまなかった。それこそ新聞をおく場所から食卓の皿の並べ方まで、家の中のすべては父を中心にして動いていた。
(あたり前でしょう)
 母はよく言った。
(お父さんがおしごとしてくれるから、ゆきもおかあさんもご飯をたべられるのよ。何でもお父さんの言うとおりにしなくてはね)
 もし不幸があったとすれば、それが「当然」という言葉で括られたからだろう。
 夫は妻子を養っているのだから、のぞみを通すのはあたりまえだ。時にどなる程度のこともあるだろう。また、妻は養ってもらっているのだから、家を守るのは義務だろう。不満など口にするものではない。
 ゆきの記憶の中の母は、いつも父を見ている。
 父の顔色に一喜一憂する。そして、彼女はその感情をそのまま幼いゆきに向けた。嬉しさも、不安も怒りも。
 父が料理の味を「悪くない」と評すれば、母は喜び、ひとり遊びに夢中になっているゆきをいきなり抱きしめ、頬ずりした。
 父が機嫌をそこねる日もあった。たいていは仕事が大詰めのときで、そんな日に限って家の掃除が行き届いていないと妻を怒鳴りつけた。
 申し訳ございません、と母は父に頭をさげる。そうなると、子供のような父は爆発した感情をもてあまして、ふいと部屋を出て行ってしまう。
 それが母の不安をいっそう掻きたてたのだろう。
 不安に揺れる表情で、母はゆきのところへやってきて玩具をとりあげる。
(何故、遊んでいるの。どうして言うことをきかないの。綺麗にお片づけなさい)
――ゆきが何か答える前に母の手があがった。

 自分の感情で手いっぱいの母親。それに気づかない父親。
 そのことが幼いゆきを不安にさせた。わけがわからなかったのだ――抱きしめられようと叩かれようと、ゆき自身にはなんの故もないことだったから。
 誰が悪いのか、何が悪いのかわからない。
 自分でも気づかない不安をいだいたまま、ゆきは成長した。いつからか、ゆきは何か手に職をつけたいと思うようになった。家を出たかった。
 母は外で働いたことのない世代だった。食事のしたくを完璧にととのえて父を待つしか、生きるすべを知らない。
 他には何もできないもの、そればかり言う子供のような人なのだ。そう決めつけて家を出るのが、十代のゆきにできる精一杯だった。
 生きていく方法を知りたかった。ちからが欲しかった。
 そして、不安に揺らいだ気持ちのままではできないから、布を織ることが好きになったのかもしれない。

 染織を手ほどきしてくれた作家の紹介で、ゆきは工房に学ぶようになった。
 住み込みの弟子の仕事は、最初は食事の支度や掃除ばかり。だが、やがて糸の支度をまかされ、自分の機も持てるようになった。
 輪にした糸束を両手にかけて、きびきびとさばく。
 染め上げの色が匂い立つようなこの瞬間が、ゆきは何より好きだった。
 ぱん、と澄んだ音とともに糸のもつれはほぐれて消えた。そして、二度とからまることのないように管に巻きなおす。何百本もの経糸(たていと)をゆきは注意深く整経していく。きつすぎず、ゆるく弛みもしないように同じ強さと張りでそろえていくのだ。
 静かに糸を見つめて引くうちに、故のない不安も消えていくような気がした。

「あ」
 ゆきは思わず声を上げた。
 手にした糸管がすべりおち、冷たい床をころがっていった。淡い艶のある糸がくりだされて広がる。
 何と粗忽なことだろう。
 落とした管を拾いあげて巻きなおすのは情けない心地だった。その手が震えているのに気づいて、ゆきはなおも情けなくなった。
(あの家には帰りたくない)
 ゆきは唇をきつく結んだ。
 帰れば戻ってこられるのは半年後か一年後か、ゆき自身もわからない。そんなに時間がたてば手がかわって、織りむらになる。布には無様な横段ができて、使い物にならなくなる。
 それに、母はゆきを帰そうとはしないだろう。泣いて、あらん限りの力で娘の腕にすがりつくに違いない。そうなれば、ゆきも手を上げなければすまなくなり……。
 ゆきは身震いした。
 節の太くなった、女にしては強い指。その手で何をしようとしたのか、それを思うと自分自身がおそろしかった。
 この手で、ゆきは生きるすべを探し、ひとつひとつ身につけてきた。それなのに、得たものを手放して、あの不安の中へ帰るのか。
――積み上げてきたもの、織りかけの糸。何もかもを捨てなければならないのか?

 巻きおえた糸を道具箱へ戻そうとして、ゆきは小さな梳き櫛に目をとめた。それを手に桜色の経糸を梳きそろえて張ったのは、つい数日前のことだった。
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