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魚のスープ 1

 この街はまがい物ばかりだ、と彼はよく言った。
 潮の香のする明るい港と、小路の澱んだ水たまり。
 宝石と呼ばれて石ころが、見せかけばかりの紳士に買われていく。
 ここから何か本物が生まれることなどあるのかと
 ずっと彼に尋ねたかった。

                              *

 港町バイリスの夕暮れには不思議な香りが漂う。
海の向こうから運ばれた赤や黄色の香辛料。それを使った色鮮やか、香り豊かな魚のスープを女たちは皿によそう。皿を縁取る鳥やら花やら果物の絵。それは活気あふれる港町に似つかわしい。
 少年が手にしていたのもそんな皿だった。
 船着場を上がってすぐ、広い通りはところ狭しと天幕の並びたつ市場だ。果物屋と生地屋の間、ようやく座れるくらいの隙間に少年は皿を積み上げていた。
「あの丘のお城には誰が住んでるか知ってるかい?」
 そう聞いたのも彼の目の前の客が旅人、しかもいかにも旅などしたこともないような商人の妻たちだったからだ。
「もちろん、ここイベリスの王様さ」
「国王陛下、万歳!」
「高貴なる血筋のイベリス王家だ!」
 横から少々品のない口笛とともに合いの手が入った。
 うまいもんだ、と少年は内心ほくそえんだ。
 生地屋の前に女たちが群がればめったに手に入らない布、果物屋の前なら肌が美しくなる果物と、互いに保証してやる約束だ。
 もっとも十になるかならずの少年では女心をとろかす、というわけにはいかない。まあ、そのうち気張ってくれや、ということで両隣からは大目に見られていた。
「こいつは王家の皆様が使ってるのと同じ模様なんだ。そら」
 そう言って少年は色鮮やかな皿をひらりと差し出して見せる。女たちも思わずつられて身を乗り出した。
「けっこう大きいわね」
「何の柄?」
「ハマアカシアだよ。何となく上品な感じがするだろう?」
「お前さんが言ってもなあ」
 横から果物屋が口をはさんだ。「小僧の上品じゃなあ」
 少年は話にならない、というように手を振った。
「俺は小僧だけど作ってる奴は違うぜ。あんたの生まれる前から絵付けをして食ってるじいさんだからな。貴族さまにつくったものを献上したのも一度や二度じゃないんだぜ。これがたったの銅貨二枚」
 女たちは一瞬口を閉じて故郷での値段と思い比べた。
「きれいじゃないの」
 一人がきっぱりと言った。
 後はとんとん拍子にひとり一枚ずつ、銅貨と引き換えに皿が手渡されていった。

 夕方の海風が、その日最後の船を港へ導く。船乗りたちは腰を据える酒場を探して、通りを過ぎていった。
「ホーク、今日はまずまずかい?」
「悪くなかったよ」
 少年は売れ残りの皿を手早く包んで紐で縛りながら果物屋に答えた。船乗り相手に皿は売れない。店じまいの頃合だった。
「しかし、何だね。儲けはディルじいさんと半々だろ。じいさんも欲がない」
「ディルが作って俺が売る。対等なのさ」
「しかし絵の具代はじいさん持ちだろう?」
 ホークはよく陽にやけたあごをぐっとそらした。
「じいさんが酔いつぶれたら俺がひきずって帰るんだぜ。これくらいでとんとんだろ? じゃあな」
 違いねえや、と笑う声を聞きながら、ホークは軽い足取りで石段を上がっていった。

 今日はどこへ行こう?
 売り物を振り回さないように気をつけながら、ホークは狭い酒場通りを上がっていった。
 酒場へもぐりこめば船乗りたちのどこまで本当かわからない、どえらい冒険話が楽しめる。店の女たちは少年のことを気に入って、ちょっとした食べ物をよこしてくれた。
 見れば、ちょうど水平線に太陽が融けるように沈んでいくところだった。燃え落ちていく太陽。それを追いかけるように雲が流れていく。
 ――どこへ行こうか?
 ホークは背中の皿の模様を思い出した。
 丸々と赤い果物、おどけた顔の鳥。
「じいさん、また酒を買い込んだんじゃないだろうな」
 肩をすくめて、ホークは小路に入っていった。

                              *

 古びて今にも崩れそうな小屋の前で、ディルは煙草を燻らせていた。
 夏の穏やかな夕風に煙がたなびき散っていく。隣の庭からこぼれるマンドーラの甘い香り。
 ――あの花もいい柄になるかもしれない。
 ディルのつるりとした頭の中で、白い花弁が皿に乗ったり壺の横に置かれたりする。
「壺向きだ」
 小さく呟いた時、石段をあがってくる少年の頭が現れた。
「お帰り、ホーク」
 今日の分だと言って、ホークは銅貨をディルに渡した。
「まずまずだな。スープがあるから食え」
「ディルは?」
「わしは味見で腹いっぱいだ」
 新しい煙草を詰めはじめたディルを置いて、ホークは家に入った。
 それらしい鍋の蓋をとると腹に沁みるような匂いが立ち上った。味見というからディルがつくったのかと思ったが、ほどよく香辛料のきいた味付けはおおざっぱなディルのものではない。酒場の姐さんか隣のお婆が見かねて寄越したものだろう。
 ホークはふと匙を持つ手をとめた。
 薄暗い部屋。暖炉のうえにひっそりと掛けられた皿が目にとまった。
 温かみのある白地いっぱいに枝と葡萄が描かれている。その中には、まるで庭園を散歩するかのような鳥の姿もある。
 何故ディルはこんなのをつくらないんだろう?
 それはホークが生まれる前。ディルが徒弟だった時に焼いた皿だった。
 こんな飾り皿を使うのは貴族か大商人だけだ。
 酔いの回ったディルがくりかえし聞かせる思い出話。庭園での園遊会。焼いた皿が旦那方のお気に召せば、新たな仕事と名声が転がり込んでくる。
 それなのに何故こんな皿を焼くのをやめてしまったんだろう?
 外では当のディルが煙を吐きながら、のんびりと鼻歌を歌っていた。

「どうしてディルが大きな皿を作らないかって?」
 酒場の隅、居座りを決め込んでいるホークのまわりには店の女たちが集まっていた。
 酒を飲むのにも注ぐのにも飽きると、こうして息抜きにやってくるのだ。
「そんな皿、大きいばかりで使いにくいし」
 彼女たちの答えは簡単だった。第一、そんな皿が乗るような卓など馬鹿げているというのだ。
「だって大声でなきゃ話もできないじゃない。お偉いさんって、やっぱり馬鹿げてるわ」
 女たちはまた店の中を泳ぐように歩く。それを眺めながらホークは椅子の下の足をぶらぶらさせた。
 ディルは腕がいい。ホークが客を寄せさえすれば、壺や皿はあっというまに売れていくのだから、きっと腕がいいのだ。
 どの皿がいいか、などということはホークはわからなかった。
 儲かりさえすればいい、と思った。
 それでも時折、炉の上の大皿を思い出した。ホークはあの皿が好きだった。
 すみずみまで丁寧に描かれた花や実や鳥の絵。
 ディルの小屋の薄闇の中で、あの皿だけは温かい色をしている。

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