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天空の塔の物語
昔々、神さまがこの地を歩かれた頃の物語
第二夜   籠のある庭

   あの日以来、アルカはあの男ハールと会うことはできませんでした。
「やっぱりあの人は掃除係だったのかもしれないわ」
   始まったばかりの新しい毎日の中で、アルカは思い出したように考えました。
神官も女官たちも、誰もあの黒い夜のような姿を見た者はいません。
それに男は神と呼ぶにはあまりに言葉が軽軽しく、「人の子の父」と呼ばれるには若すぎるようでした。
   祈りと書物と問答と、そしてまた祈りのうちに神殿での日々は過ぎていきました。神殿には果てしなく続く回廊と階段、そしてたくさんの部屋がありました。
   ある日のこと。そんな階段のひとつをアルカが上っている時に、遠くの回廊を白い衣の娘たちが渡っていくのが見えました。
それぞれに銀の壺を持ち、衣の裾をさばいて歩く様は、まるで雲の原を踏み分けていくようです。
夢のようなその風景に、アルカは思わず足を止めました。
「あれは『目の開かぬ乙女たち』です」
   後ろから、アルカの神官は答えました。
「めのひらかぬ?」
「そうです。あれも神の御娘です。しかし、あなたとは違う御娘なのです」
   アルカは足を止め、神官を振り返りました。
「何が違うの?」
   老神官はそれには答えず、かわりに回廊の端の黒い扉を指さしました。
「あそこです。乙女たちはあそこに行くのですよ」

   それは空までもそびえたつ扉でした。
それを開いて、最初にアルカが気づいたのは枝のざわめく音でした。そっと中に滑り込むと、アルカは息をのみました。
部屋の中だというのに、どこまでもたくさんの木が続きます。薄暗い葉陰、くすんだ銀色の枝。それを支える太い幹。
遠くで、また頭の上で鳥のさえずりが聞こえました。
 アルカは大きな幹に手のひらをあて、その周りをゆっくりぐるりと回りました。
傍らをこぼれるように落ちた葉を拾おうと身をかがめたアルカは、ふとその手を止めました。
あたりには高く、澄んだ鳥の声が幾重にも重なり、ひとときも絶えることがありません。
それなのに鳥の姿は一羽も見えないのです。
銀の葉のたてる寂しい音に、アルカは身を震わせました。
「みんな、どこで鳴いているの?」
   その気配を見逃すまいと、アルカは声をひそめました。
頭の上で大きな葉が揺れ、すぐそばの枝でいくつものさえずりが聞こえます。
それなのに、目をやるとそこには空の籠しかありません。
丸いのや小さいの、丈の高いもの。見れば辺りの枝にはいくつもの鳥籠が掛けられていましたが、そのどれもが空のままでした。
鳥も、獣の姿もない。この上なく寂しい風景でした。
「すっかり宝の持ち腐れだな」
   アルカの後ろで突然声がしました。
慌ててアルカは振り向きましたが、誰の姿もありません。枝が揺れて木影を揺らすばかりです。
それでもアルカはその声をよく覚えていました。
「ハール?」
「せっかく目をやっただろうに。まだ使い方を覚えんのか」
   その声は呆れたようにため息をつきましたが、いかにも面白そうに笑いました。
「まあ、年寄りどもやら小娘やら、ここには盲いた者しかいないからな。無理もない。では、アルカ」
   その言葉と共に、アルカの瞼は風にそっと閉じられました。
「耳を澄ませてみるがいい」
   ひんやりとした風が頬を撫でました。アルカは言われたとおりに森と鳥の奏でる歌に耳を傾けました。
高く、明るいさえずりと、それに応える長い鳴き声。
そんな鳥など知らぬげに言葉をかわす梢たちの呼び声、しのび笑い、何やら呟く木の葉の音。
「さあ、どんなものかね?」
   その言葉に、アルカはそっと目を開きました。
そして目の前に広がる庭園の風景に、アルカはわあっと声をあげました。
「何て、何て・・・綺麗なんでしょう」
   アルカは思わず駆け出しました。
そこは白く輝く森でした。流れる水の銀の水面が枝の間から輝いて見えました。
光を放つ若葉から滴る雫。白い花。そして梢には細かな模様を刻んだように美しい幾多の鳥が、じっとこちらを眺めていました。
「鳥がいるわ」
「ずっとここにいたのだよ。見えなかったのはお前だけだ」
   アルカは声の主の姿を探しました。
枝々にかけられたいくつもの鳥籠。白い羽の鳥たち。そしてその向こうの木陰に、うずくまる大きな銀の獣がおりました。
「おう、ようやく気づいたか。所在無い心地だったぞ」
「あなたなの?どうしてそんな姿なの?」
   獣は大儀そうに身を起こすと、銀の毛並みを震わせました。雫が飛び散って、光のかけらのようでした。
「この前会った時、お前は半信半疑だったからな。もう少し天の神らしい姿を、と研究していたのだ。どうだ?」
   どうと言われても……。アルカが口をあけたまま答えられずにいると、満足したと思ったのか、獣は牙の生えた口を楽しそうに噛み合わせました。
「これでも苦労したのだ。自分が自分らしく見えるためにどうすればよいか、こんなに悩むとは思わなかったぞ。それで人間達にどんな姿がよいか尋ねてまわったのだ」
「どんな姿って、どうやって聞いたの?」
「もちろん色々取り揃えて、見せてまわったのだ」
   そう言うと、銀色の毛をふうっと逆立ててみせました。
「割りに評判がよかったのは翼のある姿だな。これもただの鳥では芸がないから、馬だの蛇だのを見せてみた」
   それは確かに美しく、有難い姿だったでしょう、とアルカは思いました。しかし、そんな姿を実際に見せられたのでは人間達は腰を抜かしたに違いありません。
「実際に神に会った記念に、と、石に姿を彫っていた。ご苦労なことだ。結局、万人受けしたのがこの銀狼だったので、これを採用にしたのだ」
「一番よくなかったのはなあに?」
   その問いに、ハールは面白そうに目を光らせました。今は銀狼ですから、これも銀の瞳でした。
「なかなか興味深かった。受けが悪いのはやはり地を這う、地味な姿のものだろうと思ったのだ」
「百足とか?」
「ああ、それも今ひとつであったな。だがありがたみが湧かないといえば、何と言ってもこれ。人の姿だ」
   そう言うと狼は笑いました。
「人間とは不思議な生き物だ。自分より他の姿を有難がるくせに、他のものにしてやろうかと聞いてみると、大抵いらんと答えるのだ。お前はどうだ?」
「いりません」
「お前も人の子か」
 銀狼はがっかりした様子で言いました。「まあ、いい。その気になったら私に言ってみろ。細かい注文にも応じるぞ」
   アルカはハールの銀色の姿を見つめました。言うことはやはり奇妙だったけれど、それなりに美しく畏れ多い姿でした。
 まわりのたくさんの鳥たちは銀狼を怖がることもなく、枝から枝へ身を翻します。時折高みから舞いおりては水辺に遊び、水を飲んではまた梢の間に戻って行きます。
木々の間に見えるせせらぎはいつまでも絶えることなく続いていました。
穏やかな庭の風景に、アルカはほっと息をつきました。
これが見える、ということなのかしら。天の輝きを映すのだ、とハールは言ったっけ。
それはアルカが目にした中でも、とても美しい庭でした。
水辺の傍の小さな橋には、あの娘達の姿が見えました。
目の開かぬ乙女たちは銀の壺をせせらぎに傾けて水をこぼしては、また空の壺を持って回廊を渡って行きます。目の前に白い花が揺れても、鳥が首を傾げてさえずっても、何も探さずに乙女たちは水を運び続けていました。
「あれたちには見えないのだ」
   銀狼は退屈そうに説明しました。
「目の開かぬ乙女たち、というのでしょう?」
「まさにその通り。天を映す目を持たないから、この私の姿も鳥も梢も見えんのだ」
「それなのに水を運ぶの?」
「そう。あれが娘たちの役目だ。ああやって壺の割れるまで、水の尽きるまで運び続けるのだ。おや、どうしたかね?」
   アルカは乙女たちの姿を見つめました。その目からぽろぽろと雫がこぼれました。
「かわいそうに。見えない鳥にああやって水を運び続けるのね」
   かわいそうに。そう呟いてもどうすることもできず、アルカは立ち尽くしていました。
この自分とあの娘たち。いったい何が違うというのかしら?
「訳など知りたがった御娘はこれまでいなかったな」
   そう呟くと、ハールは鋭い狼の瞳を和らげました。
「お前は優しい人間だな」
「どうして私には見えて、あの人たちには見えないの?」
「私がお前を選んだからだ」
   何故自分が選ばれたのか、いくら考えてもアルカにはわかりませんでした。
「いつか思いあたることもあろうよ。だから、うん? 泣くのをやめなさい。目が腫れて見苦しくなるぞ」
「いつかわかるようになるの?」
「まあ賢ければわかるかもしれんし、わからなくとも大事ないこと」
   そうそっけなく言って、ハールは立ち上がりました。
「ただ、せっかく目を手にいれたのだから無駄にはしないことだ。せっかくやったものが役に立たんのを見るのはつまらんからな」
   つまらん、つまらんと狼は呟きながら、木立の中に姿を消しました。
アルカは傍の枝にとまった小さな鳥に手をさしのべました。
いったい何故、私だけが見えるのかしら?
白い鳥はちっちっと鳴くだけでした。
 もし目が与えられたというのなら、もっとたくさん見たいとアルカは思いました。
もっと賢くなって知らないことを知りたいと思いながら、アルカは白銀の庭園を後にしました。


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