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天空の塔の物語
昔々、神さまがこの地を歩かれた頃の物語
第五夜   水鏡の庭

 白く輝く大きな扉。その前で、アルカは立ち止まりました。
「何てきれいな扉なんでしょう」
 ですが、アルカはあわてて首を振りました。ハールの言葉を思い出したのです。
 一番奥の部屋だけは決して入ってはいけない。
「そうよ。鍵ももうないのだもの。開けられっこないのだわ」
 呟いてアルカが笑った、その時でした。
 塔の中を風が吹き抜けました。アルカの髪を揺らし、木の葉を舞い踊らせて……。
 アルカははっと息をのみました。風が扉を押して、細く開いてみせたのです。
 扉に、鍵はかかっていませんでした。
 風は行き、そして帰りながら扉をゆらします。そのたびに、淡い光が部屋からあふれてきました。
 アルカは中を見たくて仕方なくなりました。すっかり寒くなってしまったから、その光を見るだけで、心がやすまるような気がしたのです。
「ほんのちょっとだけ。ハールは見るな、とは言わなかったもの」
 そうです。見てもいけないのなら、錠がおりているはずではありませんか。
 おそるおそる扉を押すと、それは音もなくすべり開きました。そこは鳥の影ひとつない、まどろむように静かな庭でした。
 木々の影と光が織りなす、細やかな模様に飾られた庭。きれいな枝ぶりはくっきりと空に映え、白く輝いています。
 それが、あまりに美しかったので。
 アルカは吸い寄せられるように、部屋へと入っていきました。

 石畳の道にたたずみ、アルカは枝を、光を見上げました。
 天井ははるか高く、梢にさえぎられて見えません。静まり返ったその部屋には動く影ひとつ見えません。
 一番奥の部屋だけは……。
 ふと、ハールの言葉が頭をよぎりました。ですが、それも一瞬のこと。
 アルカは神との約束を忘れ、庭の奥へと分け入りました。
 小道は枝のアーチをくぐり、やがて石の広場へとアルカを導きました。
 割り石が、渦を巻くように敷き詰められた広場。その真ん中に、銀に輝くものが見えます。それは大きな、大きな水盤でした。
 近くに寄って水面(みなも)を覗いたアルカは目を瞠りました。
 水の中には、どこまでも続く広い平原が映っていたのです。
 澄んだ水の中の風景は、手をのばせば触ることもできそうです。見れば、その真ん中に、佇む人の姿が映っておりました。
 闇色の衣、白い肩布をつけた、それはハールにまちがいありません。アルカは身を乗りだして、水盤の中を覗き込みました。

 風にそよぐ草のうねりが広がる平原。
 その中を、ハールはゆっくり歩いておりました。
 一歩、また一歩と踏み出すごとに、踏みしだかれた草が朽ちていきます。
 それを見ながら、アルカは心配になりました。ああやって歩くうちに、草や花がみんな枯れてしまうのではないかしら。
 ですが、そのハールの後ろ。衣の裾が長くたなびき、地をなでていきます。闇が朝日にとけるように、やがて衣は透き通り、雨の帳となって地を覆いました。
 すると、雨の裳裾が触れた地面から、あたらしい草が立ちあがりました。
 雨をふくんで、ふくらむように若い葉が広がりました。
 草は天をめざして伸び上がり、腕を広げ、やがてその手に蕾をつけました。そして、平原いっぱいに白い花が揺れはじめたのです。
 そうやって見ていることを知っているのか、いないのか。ハールは振り返りもせず、草の海を渡っていきます。
 きらきらと降りしきる雨のなか、鳥や獣の文様が衣からふわりと浮き上がりました。
 獣はふるりと身震いをして銀のしずくを飛び散らせます。そうして野を駆けて行きました。鳥は雨を逃れるかのように天へ昇っていきます。
 次から次へ、彼らはハールの衣から溢れこぼれて、平原へと散っていくのです。
 何て不思議なできごとでしょう。アルカはまばたきをするのも忘れておりました。
 やがて、獣の姿も見えなくなって、ほっと小さく息をもらした、その時でした。
 水盤がゆらめきました。
「あ」
 水が震えたかのように見えました。
 水面がゆらぎ、広がる波紋が一瞬にして平原の景色を消し去りました。
 アルカは首を傾げました。いったい何が起きたのでしょう。
 思わず身を乗り出して水盤を覗き込むと、アルカの息が水面に小さな波を立てました。
 すると、その向こうの草波がうねりました。皺だつ水鏡の向こうで風が吹き、花が散るのが見えたのです。
「ああ……」
 アルカは驚いて口をおさえ、後ずさりしました。
 ですが、あまりにあわてていたのでしょう。かかとが何かにひっかかり、アルカは尻もちをついてしまったのです。
 ざわりと、突然、音がしました。頭の上で木々が揺れ、白い葉がばらばらと水盤の上に舞い落ちてきました。
 ひと枝が葉を落とす。
 その葉が舞い落ちながら、次の梢を震わせて、なおたくさんの葉を散らしました。落ちた木の葉は波紋を広げ、さらに新しいさざなみを呼びました。
 いまや水盤は波紋に覆われ、その向こうの草むらもハールの姿もかき消えてしまいました。
 アルカが見たのは、そこまででした。
 夢中で立ち上がり、くるりと振り向くと扉へ向かって駆け出しました。
 
 みるな はいるなと いったのに

 風に身をよじらせる葉が、枝々のざわめきが、石畳が声高に鳴ってアルカを責めたてました。

 いったのに いったのに いったのに

 もはや狂った嵐のように、木の葉が降りしきっていました。そして、やがて水盤はその白に被いつくされてしまいました。

                    *

 石の塔から飛び出し、アルカはハールの庭を駆け抜けました。
 外には老神官たちが集まっているのが見えました。塔の外では、いったいどれだけ時間がたっていたのでしょう。
 神官たちは、窓のよろい戸を上げようとしていました。
「だめよ!」
 アルカは叫びました。
「おお、御娘よ。ハールのお答えは戴けましたか」
「窓を開けてはだめ!」
 そう叫びながら、アルカは階段を駆け下りました。
「新しい年が来てしまう……。私は見たの。風が吹いたわ」
 アルカの目から涙があふれました。
「風が吹いて花が散ったの。そこに、白いものが降ってきた。あれは雪になるのだわ」
「御娘よ、窓を開けないわけには参りません」
 そう答えた神官の目は悲しそうでした。
「世界は五日の眠りにつきました。そして、今日、目を覚ます日が来たのです。きたる一年がどんな年であろうが、ハールの下さった年です」
 そうして、神官は閂に手をかけました。
 死んだように眠っていたハールの塔。そこに白い光が差し込みました。塔のすみずみまで、庭の葉陰にまで新しい年の初陽が届きました。
 その輝きの中で。
 アルカは座り込んで、いつまでも泣き続けていました。
 
 どのくらい時間がたったでしょう。
「アルカ」
 呼ぶ声に、アルカはびくりと身を震わせました。
 振り返れば、神官たちも去ったあとに大きな銀の狼が座っておりました。
「ハール、ごめんなさい。私、約束をやぶったの」
 アルカは泣きながら言いました。
「私のせいで、風が吹くのだわ。雪の年になるのだわ」
 狼は黙って、アルカの腕の下に鼻を差し入れました。そして、アルカの体を背中に乗せて運んで行きました。
 銀の毛皮に顔をこすりつけて、アルカは泣き続けました。ハールに怒られると思って怖くなったのです。
 ですが、ハールは何も言いませんでした。牙も剥かず、唸り声もあげませんでした。
 銀の木の下にアルカを下ろすと、ただひとこと。
「眠るがいい」
 それだけ言って、アルカを銀のしっぽでくるみこみました。
 約束を破ったことを、ハールは怒りも責めもしませんでした。それが何より、アルカは恐ろしかったのでした。


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