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天空の塔の物語
昔々、神さまがこの地を歩かれた頃の物語
第六夜   薄暮

 ハールとの約束を破ってしまった。

 それからというもの、アルカは毎日庭の木の根元に座って、そのことばかり考えていました。
 目の開かぬ乙女たちは心配して、甘い飲み物を勧めてくれました。神官たちはお加減でも悪いのですか、と尋ねました。
 ですが、アルカは恐くて口に出せませんでした。
 神さまとの約束を破るなんて。
 そう考えたとたん、アルカの胸ははりさけそうに痛みました。

 どうしよう。ああ、どうしよう。

 こんなことをいったい誰に相談できるというのでしょう。
 だって、ハールの姿を見ることができるのは、ハールと話をできるのは、アルカ一人なのです。
 あの日から、ハールはアルカの前に現われません。
 それがよいのか、悪いのか、アルカにはわかりませんでした。

 頭の上にひろがる白い梢のどこかで、小鳥がひと声さえずりました。
 アルカが膝にうずめていた顔を上げると、葉ずれの間から羽ばたきが聞こえました。枝の上、枝の下とで小鳥たちが啼き交わしています。また、銀灰色のしげみからは小さな動物が鼻を鳴らしているのも聞こえました。
 アルカは涙にぬれた目をぐいっとこすりました。
「ごめんなさい。心配しないで」
 白い木々の間にむかって声をかけました。そう、座って泣いていてはいけないと思ったのです。
 その時、すぐうしろの枝で、ち、ちっ、という鳥の音がしました。名前を授けた<明け雲> か <星影> でしょうか。
 ですが、ふり返ったアルカは、はっと息をのみました。
 やさしい啼き声は聞こえます。でも、そこには梢がゆれるだけ。
 ――誰もいなかったのです。
 アルカは目を瞠りました。
 天の庭にあふれる木々。その枝の先、幹の陰、葉のうら。あちこちから動物たちの声や足音が聞こえます。それなのに、その主の姿はひとつとして見えません。雪白の鳥も黒いウサギも、銀の羽虫もいなくなっていました。
 梢を揺らす風の音にアルカは身を震わせ、あとずさりしました。そして、自分の両の手を見ました。
 白くてやわらかい手のひらからは丸い光がぽうっと立ち上りました。それは梢の間をぬけて、天井と壁にかがやく渦巻き模様の中にとけてしまったのです。
 いったい何が起きているのか、アルカはようやく気づきました。
 塔の窓辺に走りよってみれば、開けはなたれた窓のそとには白い雪闇の世界が広がっていました。この塔へやって来たときに見た森も、丘も、すべては雪に埋めつくされていたのです。
 ハールは怒ってるんだ。アルカはそう思いました。
 それでなければ、こんな風に世界を消し去ってしまうでしょうか。こんな風に冷たく眠らせてしまうでしょうか。そして――。

「ハール!!」 

 叫んだ声は、どこにも響かず雪にのまれて消えました。
 その時でした。
「私を呼んだか」
 木陰から足音もなく現れたのは、黒い外衣の裾をひいた男でした。
 アルカは言葉をうしなって、ただハールを見つめました。呼んではみたけれど、いったい何を言えばよいでしょう。
「おや、話があったのではないのか」
 ハールはうすく笑い、かたわらにあった割り石細工の卓に目をとめました。
 美しい白銀の石を敷きつめた中に、はまりきれない一片があります。ハールはそれに指をかけて、そっと取り除きました。
「何故、何、どうして、とうるさいほどだったではないか。言いたいことを黙っていると、腹がふくれるぞ。さあ、さあ」
「……ハール。ごめんなさい。約束をやぶって」
 アルカはふたたび涙をこぼしました。その足を何かがくすぐったのは、きっと涙をなめにきた子ぎつねだったのでしょう。
「怒っているのね。だから、私から目を取り上げたのでしょう?」
 そう。ハールがくれた光の玉があったからこそ、この庭のいきものを見ることができた。
 すべてのはじまり。ここでの命。
 あの目がなければ、他の乙女たちとなにも変わりない。
 ――そう気づいた、もはや開かぬ目からなおも涙があふれました。
「私から目をとらないで」
 そう言ってアルカは嘆きました。

 たくさんの動物と出会えたのに。美しい森に暮らせたのに。
 そして、そのすべてを老神官や乙女たちに伝えられるようになったのに。
 私から目をとらないで。
 見えなくなるのが、闇に帰るのが何よりこわい。

 すすり泣くアルカの頬を風がやさしく撫でました。アルカはいっそう涙を流しました。もう、ハールの姿さえ見えなくなったと気づいたからです。
 白銀にかがやいていた森は今はただうごめく木々にすぎず、天空の庭は日暮れに沈もうとしていました。
 ひとりで立ちつくすアルカの肩をふわりと何かが包みました。銀狼の尾か、鳥の翼なのか、アルカにはもうわかりませんでしたが。
「泣くのをやめなさい。前にも言ったろう」
「どうしたら許して、目を返してもらえるの?」
 ですが、アルカが願った答えは返ってはきませんでした。
「アルカ、お前のしたことを私は知っていたよ」
 ハールの声がささやきました。
「最初から知っていたよ。お前も人の子だからね。神との約束を守ることなどできない」
 その声はやさしく、悲しげでした。

  だから、怒ってはいないよ。
  ただ、私とともにはいられない。
  こう見えても、この世の神だから
  こわれた約束とともにはいられないのだ。

「そう泣くな」
 ハールの声は困っているようでした。
「そこまで泣くと、まるで私が悪者ではないか。悪魔のような神などややこしいだろうが。
銀の木々や獣は見えなくとも、別のものを見る目をあげよう。だから、泣くのをやめなさい。うん? 人の世に下りたら、やることは山ほどあるのだぞ」
 アルカははっと顔をあげました。
「ハール?」
 ほんの一瞬、天空の庭に静けさが戻りました。
 ですが、ふたたび吹き始めた風の中、声ははっきりと言いました。

「アルカ。お前の世界にお帰り」


 その夕暮れ。
 アルカは塔を下りました。


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