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天空の塔の物語
昔々、神さまがこの地を歩かれた頃の物語
 
 



 どれだけ長く眠ったでしょう。


 頬を撫でる風に、アルカは目を開けました。
「……ハール?」
 小舟はゆらゆら揺れて、すぐそばに水の音が聞こえます。
 いったい、どこまで流れてきたのかしら。そう思いながら、身を起こしたアルカははっと息をのみました。
  
 銀に輝く川面の先。
 ――あたたかな陽の光を浴びていたのは、萌える緑の草原でした。

 小舟はごとん、と揺れて、岸辺につきました。
 アルカが野辺に降り立ち、あたりを見渡すと、ふたたび風がそよぎました。
 そこかしこにあふれる、濃い緑。淡碧。
 アルカの足の下では、踏みしだかれた葉が濃い匂いをはなっています。
 それにつられたかのように、青い羽の蝶が舞いあがりました。

 草をかき分け歩いていくと、その両側には金や紅の花があふれ咲き、
 さざめく葉の下には、くねり、伸びあがるつるが、
 その先には濃紫にかがやく草の実がゆれています。
 どこからともなく緑の小鳥、きいろい小鳥が姿をあらわし、花と草の実をついばみました。

 アルカはただ目を瞠りました。世界の鮮やかさに言葉もありませんでした。
 そして、風に呼ばれた気がして、アルカは来た道をふりかえりました。
 残された足跡からは緑の茎がたちあがり、ふっくらと若葉を広げています。星の数ほどの蕾はみるみるうちにほころぶと、輝く陽の色の花が咲きこぼれました。
 その時、アルカは思いだしました。
 ――あの水鏡にうつった、野を歩くハールの姿を。

 あの日、ハールが歩いた地には花が咲き、獣があふれました。
 雨が地を覆い、天は輝いていました。

 アルカの空色の目から、涙があふれました。


    別のものを見る目をあげよう。
    ハールはそう言いました。

    銀の木々や獣は見えなくとも、他の数多の色と光を見る目を与えよう。
    だから、私がかつて教えたように、名前をつけなさい。
    名をつけ、命を与え、なかったものを在らしめなさい。
    そして、その一生の仕事を終えたなら、もう一度私の庭へ帰ってきなさい。


 ハールはアルカに目を与え、奪っていきました。
 でも、あの言葉に偽りはなかった。

 ――ハールの恵みは形を変えて、アルカに返ってきたのです。


          *       *       * 


 こうして、アルカは人の世界に帰りました。

 天と地の間、鮮やかな色と命が息づく世界でアルカは暮らしはじめました。
 世界には天空の庭と同じようにたくさんの獣や植物がおりました。そこで、ハールに言われたように名前をつけ、人々に教えてあげました。
 ある時は湖の水鏡を覗いて、きたる一年はどんな年でありましょうか、とハールに尋ねました。
 ハールはたいてい答えてくれました。
 ある夏は雨が降らず、ある冬は雪が世界を覆いつくしました。
 そんなとき、アルカは人々に教えました。ハールはこの地を歩き、どこかに贈り物を隠しているところなのだ、と。

 やがてアルカは女の子を産みました。その娘もまた空を映す目を持っていました。
 アルカは娘を連れて、あの白い塔のふもとへやってきました。
 それをはるか天上から見下ろして、ハールは喜んでくれたのでしょう。
 塔の上から雨の花を降らせてくれました。

 さらに長い長いこと、アルカはこの地で人々とともに暮らしました。
 
 
         ――そうして700年生き、そののちハールの待つ庭へと還っていったのです。

おわり


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