Novel |
ホワイトデー企画(2006) | ||
3・13 | ||
冬のエフタの城の扉は、いつも固く閉められている。 外からの風を防ぐため、そして、内から熱を逃すまいとしてのこと。 その扉の向こうから何やら声がすることに気づいたのは、村娘のメリナだった。 最初、夕方の薄暗い廊下に響く声は空耳かと思われたのだが、 「誰か、いるの?」 薄気味悪いのをこらえて尋ねたメリナは、返事の声に驚いた。 そっと扉を開いて身をすべり込ませてみれば、声の主は寝台の上に身を投げ出している。 「アーシアさま?」 エフタの長の末娘は突っ伏して、頭から掛布をかぶっていた。 「……泣いてるの?」 「ない!」 「でも……」 「ないったら、ない!」 そう言い張っているようだが、鼻が詰まっていて、どうにもはっきりしない。 誰が見たって聞いたって、泣きじゃくっていたのがわかってしまうのに。 メリナはため息をついて傍らの椅子を引き寄せた。 アーシアの意地っ張りにはいつも手を焼いていたが、ともかく放っていくわけにはいかない。 「それなら、いいんですけどね」 「……」 言葉にならないうめき声とともに、アーシアは寝台から身を起こした。 今年、十になるアーシアは、まだ成人の儀を迎えていない。 明るい金色の髪はいまだ梳き流したままの、幼い子供と同じ恰好だ。そして、泣きすぎたせいで鼻も目も真っ赤になっていると、年よりも更に幼く見えた。 「いったい、どうしたんです? 昨日まであんなに上機嫌だったのに」 「……バレンタイン……チョコ……」 「ああ、あれ」 メリナは明るく言った。「うまく出来たじゃないですか」 その明け月のお祭り騒ぎの先頭に立っていたのは、アーシアだった。 その年のエフタの明け月は、嵐のうちに過ぎていった。 と、言っても雪嵐でもなければ、吹きすさぶみぞれ混じりの風でもない。 大騒ぎ、お祭り騒ぎ、笑い声……それはバレンタインデー前後に最高潮を迎えた。 美しく飾りつけた菓子をつくり、憧れの人に渡そうとする娘たちで台所は一日中ごった返した。 もともと平原においては恋心を伝えるという、いかにも甘やかな行事のはずだった。 しかし、遠く離れた山の小国に伝えられる頃には、むしろそれにかこつけたお祭り騒ぎの趣が強くなった。 何せ、明け月といえば長い冬に飽き飽きし始めた頃。理由をつけて盛り上がり、笑い合いたいという気持ちの方が強かったのだ。 年が明ける頃から、娘たちの間では菓子についての情報が飛び交った。 平原では削って振りかけるのだって。絞りだして文字を書くのだって。 いかに舌触りよく、風味豊かに仕上げるかという実際的な話題から、見た目に楽しく、印象的な包み方まで――ついには開封不可能とも思える複雑な包み方も編み出された――娘たちは夢中で話し合った。 小綺麗なものに目がないアーシアが、この平原風のから騒ぎに乗らないわけがない。 入れて煮るだけという、無骨な料理すら大雑把にしか覚えないアーシアが台所を占領した日には、メリナは頭痛を覚えたものだった。 ところが、驚いたことに菓子は意外にも美しく仕上がったのだ。 「まったく、よく出来てましたよねえ。初心者とは思えないほど」 メリナは菓子を思い起こして、ほうとため息をもらし、 「それで。結局、誰にあげたんでしたっけ?」 つけ足しのように尋ねた。アーシアは鼻をすすった。 「……アルト兄」 「アーシアさま、そんなに泣かなくたっていいじゃないですか。ホワイトデーは明日ですよ。まだ、返事だってもらってないでしょうに……」 「違う、違うのよ。アルト兄も知ってるんだって」 アーシアは激しく首を振った。 「何を?」 「ばあやが言ったの」 アーシアはぼろぼろと涙をこぼした。 「私には許婚がいるんだって。アルト兄も知ってるんだって! なのに、私、チョコをあげたの」 メリナは呆然とした。 知らなかったのですか、と言いそうになって、あわてて言葉を飲み込んだ。 アーシアの許婚。 それはアーシアより八つばかり年上の、まだ若いレンディアの長のことだ。アーシアが生まれた時から、この縁組は決まったも同然のものだった。 それを、まさか当人が知らないなどということがあるだろうか。 顔を拭うのも忘れて嗚咽するアーシアを見下ろし、メリナは言葉をなくした。 「アルト兄が一番大好きなんだもん。だから、すっごくきれいなのを作ってあげて、すっごく好きだって言いたかったんだもん」 「いいじゃありませんか。許婚なんて居ようと居まいと、アーシアさまの気持ちには変わりありませんよ」 「でも、アルト兄も知ってるのよ!」 アーシアは幼馴染をにらみつけた。 「許婚がいるのにこんなもの寄越して、って思ったはずよ。遊びの恋としか思わないわよ」 「ど、どこで、そんな言葉覚えたんです?」 「きっと笑われたわ。それに困ってるわ」 「笑うなんてこと、ありませんよ」 アーシアの思い込みの強さに、メリナは呆れて言った。 「アルトールは優しいですよ。アーシアさまが一生懸命作ったものを笑うわけないでしょう。まあ……ちょっとは困ってるかも」 「そんなこと知ってる! 一緒に遊んでくれて、いい牛の見分け方も教えてくれるのよ。アルト兄はすっごく優しいんだもん。それなのに……」 見開かれたまなこから新たな涙があふれた。 「きっと困ってる。私……私、アルト兄に悪いことしたわ」 わあっ、とアーシアは泣き伏した。 「アーシアさま……」 メリナはようやっと言葉をしぼり出した。「本当に、好きだったんですね」 あたりまえよ、と叫ぶ声も、掛布の下でくぐもっていた。 確かに知らなかったのかもしれない。 家に帰っても、母を手伝い夕飯を作りながらも、メリナは考え続けていた。 女の子らしくなさい、いつか立派な長のもとへ嫁ぐのだから。 アーシアのお転婆がすぎるたびに乳母が言ったものだから、それは小言にしか聞こえなかったのかもしれない。 そして、アーシアもまだ幼い。エフタの誰も、縁組のことを殊更に口にすることはなかったのだろう。 その夜、久しぶりに降り止んだ雪を踏み分けて、メリナは隣家の扉を叩いた。幼馴染のアルトールに釘を刺しに行ったのだ。 決して、いい加減な返事などしてくれるな、とメリナは繰り返した。 バレンタインは平原風のお祭りだ。ここでは長い冬の気晴らしに過ぎないかもしれない。 それでも。 少なくとも、アーシアは本気だったのだから。 何日か後のこと。台所にいたメリナのもとへアーシアが駆け込んできた。 「見て、見て! すっごく、きれいでしょ」 そう言いながら開いた手のひらに乗せられていたのは、小さな紅い石ふたつ。 耳にかかる髪だけを編む、子供の髪型につける石だ。 アルト兄がくれたの、とアーシアは嬉しそうに笑った。 他の子にはお菓子だけだったのに。私だけよ、こんな飾りを貰ったのは。 そう言って、アーシアは三つ編みを揺らして外へ飛び出していった。 鍋をかき混ぜる手を休め、メリナはほっと息をついた。 よかった。心底そう思った。 エフタとレンディア。この兄弟のような小国の縁談がなくなることはないだろう。そう知っているから、アルトールは幼い恋に似合う答えを返したのだ。 今年、アーシアは十になる。 成人の儀を迎えて自分の杼(ひ)を持ち、一人前の女として認められる。髪をすべて編みあげて、そうなればアルトの石をつけることもなくなるのだ。 いつか、アーシアも違う石をもらう日がくるだろう。 そうしたら、あの飾り石は遠い思い出として、ひきだしの中に眠ることになるのだ。 |
|
終 |
Novel |