Novel
ホワイトデー企画(2009)
月光石


 タジルの町の喧騒は昼は工房通りから、夜は花街と酒場通りから湧き上がる。
 夜更けには上機嫌の酔客が通りを漂っていく。たいていが同じ工房につとめる職人仲間だ。
 普段、並んで鉄を打ち火を沸かしているものだから、ふらふらした足取りも息が合っている。
 その一行の中に、珍しくもよそ者の青年が混じっていた。
「おう、若いの。三つ鎚亭についたぞ。ここに泊まってるんだろ」
「…………」
 だが、青年の口からは呻き声しか出なかった。酒場で青い顔をしているのを、気のいい職人らが宿まで引きずってきたようだ。
「そこらでくたばってもらっちゃあ、こっちも寝覚めが悪いからな」
「そうそう。ここなら遠慮はいらねえよ」
 と職人らの言うことは容赦ない。だが、みんな気はいいのだ。
「大旦那に見つからないように気をつけなよ」
 青年の背を叩いて励まし、一行は立ち去っていった。
 とり残された青年は、こぼれ落ちた荷物のように頼りない様子で宿の扉をくぐった。

(こんな調子で、あと何日もつんだろう――)
 宿の階段を這いのぼり、部屋にすべり込みながらティールは情けないことを考えた。
 父長からの命を受け、噂話を求めて酒場をめぐり歩く毎日だった。
 だが、漂う酒精すら受けつけないティールには手にあまる仕事だ。実は、もうひとつ考えねばならないこともあったのだが――。
(今は無理だ)
 絶望しきって寝台に倒れこんだ。となりの寝台で軽い寝息を立てている妹が恨めしくさえ思えた。
 その時、とつとつと扉がひそかに叩かれた。
「若旦那、水をお持ちしましたよ」
 宿屋の主人の声だった。ティールは痛む頭を傾げた。
(水なんて頼んだだろうか?)
 訝りながらのろのろと出ると、水差しを手にした主人が扉が開くのを辛抱強く待っていた。
 彼はティールの顔色をちらと見て、
「外に水汲み場がありますんで。顔でも洗うとようございますよ」
 こういう客の扱いには慣れているらしい。
 ティールは礼を言った――何とか声になったとおもう。だが、何も喉を通りそうにない。
 それより体についた酒の匂いをどうにかしなければ……。
 今はそれしか考えられず、ティールはそろそろと階下へおりていった。

 真夜中をすぎて、町はすっかり眠りについたようだった。
 石造りの小さな水汲み場、おぼつかない手つきで水を注ごうとしたティールはふと目を上げ、そのまま佇んだ。
 黒い屋根屋根の上、天空高くに新月がかかっていた。
 流れる雲を照らす凛とした輝きに、ティールは胸苦しさもわすれて見惚れた。
(エフタを出るときに見たのより、少し丸くなったみたいだ)
 だが、そのひそやかな光の色は故郷で見るのとかわりない。
 今も誰かがエフタの村で、同じように天を見上げているのだろうか。
(はやく、あの下に帰りたい)
 そう思うとティールは胸がしめつけられるような気がした。
 山の空気を胸いっぱい吸いたい。鮮烈な光と低い空、そして、何よりあの静寂。
 そんな弱気を押し流そうと、ティールはわざと水音をたてて顔を洗った。雪解け水を思わせる冷たさが心地よい――。
 その時、ふいに霧が晴れたような気がしてティールは息をのんだ。
「……違う。頼んでない」
 そう呟いて、辺りを見回した。
 宿屋の裏庭には手桶やひしゃく、壁にはほうきが立てかけてある。
 雑然としているが不快さはない。むしろ、ここの主人のおおらかな温かさがにじんでいた。
(そうだ。部屋へ戻ることで頭がいっぱいで、水など頼みはしなかった)
 それなのに、気を遣ってくれたのだ。
 ティールはもう一度夜空を仰いだ。雲が流れ、穏やかに月を抱いていた。

 山にあっても平原にあっても、見上げる心は同じなのだろうか。
 ――あの澄んだ光に、同じように安らぐのだろうか。

 そして。頭のどこかにひっかかっていた、もうひとつの難題の答えがぽっかりと浮かんできた。
 タジルの市場を歩き流しながら、どうにも決めかねていたこと――碧い縞石と白い満月のような飾り石。どちらを買って帰ろうかと悩んでいたのだ。
「月光石にしよう」
 ティールは独りつぶやいた。
 おみやげなんていらないと許婚は言ったけれど、何かを贈りたかった。
 ここ平原で仰いだ月光を、エフタで待っている娘にも見せたいと思った。
(それから、この話をしよう)
 酒場で出会った職人たち、宿屋の主人。町の人間もそう怪しげな者ばかりではないのかもしれない。
 示されたぶっきらぼうな親切が、自分をするべきことへ向かって後押ししてくれるような気がする。
 ティールはもう一度顔を洗うと、夜風をさわやかに感じながら宿屋へ入っていった。


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