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〜    夕立ち    〜

 

 肌にまとわりつく暑気を断ち切るように、俺は閉まりかけた電車に飛び乗った。とたんに階段を駆け下りてきた汗が吹き出してくる。
 ――くそう、弱冷房車だ。
 心の中でののしって、俺は額の汗をこすりとった。こっそりネクタイを緩めながら、毒づかずにはおられない。働けっていうのなら、こんなもの、やめちまえばいいんだ。
 それに抵抗の声をあげるように、首元で固い布が擦れて音をたてた。午後の電車はぽつり、ぽつりと席が空き、そのまばらさは帰宅ラッシュにはまだ早い、半端な時間に妙に似合っていた。
 その時、窓の外がさっと翳って、間をおかずガラスを叩く雨音が車内に響いた。
 このところ東京では夕方は毎日のように雷雨となった。いかづちの音は心地良かったが、夕立ちが去れば、何のことはない。後には静まることのない熱帯夜が待っている。
 この湿気さえなければ、と何度思っただろう。実家のある、山のふもとの町も夏はそれなりに暑かったが、この密林のような熱気は東京に来て初めて知った。
 ――温室じゃあるまいし。
 こんなことを考えていたからかもしれない。向かい側で吊り革につかまっている二人連れの会話が耳に飛び込んできたのは……。
「――ああ、知ってる。りゅうがえしのたき、でしょ」
 明るい声に顔を上げてみれば、女が連れのサラリーマン風の男に話しかけていた。
 りゅうがえしのたき……龍返し……?
 滝という言葉がいかにも涼しげだったから。そして何より。
 窓の外のごみごみした風景と、昔話のようなその名前があまりに似合わなくて。俺は思わず耳をそばだてた。
 こんな風に心が動くのは久しぶりのことだった。

「仙川ぞいに上がっていく林道があるんだよ」
「え、車で行ったんじゃないの?入れるの?」
 そんな風に、二人の会話は取りとめなかった。
「いや。だから子の口のバスの停車場に車は置いてさ。最初はそのまま上って行けるかな、と思ったけど、五分も歩いたら人が一人しか通れないような道になっちゃってさ」
「へえっ、そんなに細いんだ」
「こう……うっそうとした林の中で、でも晴れてたから足元は乾いてたよ」
「暑かったんじゃない?」
「すぐそばが川だもの」男は気持ちよさげに笑った。「寒いくらいだったよ」
 うわあ、いいなあ。そう言って、女はくやしそうに吊り革を揺らした。
 外では一瞬のいなづまに続いて落雷の音が響いた。電車が駅に止まると、週刊誌を頭にかざした壮年の男がホームから飛び込んでくる。いやいや、まったく……と、ひとり言を言いながら、ハンカチで肩を拭っている。
「あれ、子の口のバス停?」
 女はのんびりと話し続けた。
「そうだよ」
「じゃあ、あたし知ってるかも。途中で『みぶの』に行く道に分かれる林道じゃない?」
   壬生野か、美生野か、頭の中で漢字が駆け回る。どうやら二人は同郷のようだった。
「その道にね、横からつながる山道があるんだよ。小学校の遠足で通ったよ」
「どこから来る道?」
「三社堂」
「遠いじゃない。子供に歩けるの?」
「歩ったよお」
「あ。席、空いたよ」
 並んで座れるのを待っていたらしかった。俺の右隣、熟睡している高校生の向こうに二人は座った。
「あの御堂はね、昔、いくさに負けた武士が逃げ込んだところなんだって」
 その時、見知った風景が一瞬脳裏に閃いた。
 古びて色あせた御堂。国を失い、負け戦を戦った武士はそこでいっとき休み、また山道を登って行ったらしい。
 そんな言い伝えはきっと日本中にあるのだろう。俺の故郷にも似たような昔話があった。しかし、揺れる車内の二人とも、その話をよくは知らないようだった。
「助かったのかな」
「武士でしょう。生きのびるってことはないんじゃないの?」
「でも、あの道を登っていくと別の川につながってるんだよ」
「龍返しの滝より上?」
「うん。源流が二つに分かれて、ひとつが仙川に、もうひとつが県境を越えて北へ流れてるんだよ」
 女はふと窓の外を見やった。黒々と立ち込める夕立ちに、電線が揺れていた。
「何て川だったかなあ。それを辿ったら助かったかもしれない」
 電車が駅に止まると、真っ暗になった外で激しく降りつける雨音が、いっそう大きくなった。
 俺はそっと目を閉じた。雨音にまぎれて、二人の話し声はいつのまにか聞こえなくなった――。

 

 負け戦の戦場から。
 月明かりの下、落ちのびていく武士。
 それは子供の頃、祖父が俺を膝に乗せて聞かせてくれた、昔話だった。
 泥だらけで血を流し、矢傷を押さえてなおも走り続ける足音。川を横目に山道を登りつめた武士は、やがて源である小さな泉へとやってきた。その泉は昔から、俺の故郷一帯の水源だったという。
 そのほとりで、武士は疲れと絶望から膝をついて倒れた。
 荒い息を抑えながら、男は敬愛する主の顔を思い出していた。配下の農民を気遣い、毎年、稲の出来を見るために水田にまで足を伸ばしたあの人は、今はさらし首となってふもとの村に残っていた。
 ――それなのに何故、自分は生き永らえたのか。
 武士は自分のふがいなさに歯をくいしばった。主君を残して、何故おめおめとこんな山奥へ生き落ちて来たのだろう。
 その時、武士はすぐそばに主君を倒した敵方の紋を見つけた。
 木立の向こうの染めぬきの幟。その下には男達が集まっていた。
 ある者は名残惜しそうに弓に矢を番える真似をし、ある者は刀をまだ抜き身のままで持っていた。いずれも勝利の余韻から抜け出してはいなかった。
 その中から泉に向かって進み出た者たちがいる。
 それが薬師であるのに気づくと、武士はふらりと立ちあがった。そして、矢傷も疲れも忘れて風のように斬り込んで行ったという。
 武士はあっというまに敵の武士たちを斬り伏せて、後に残った薬師たちの前に立ちはだかり、叫んだ。泉に毒を投げ込んで、村里に手を出すことは許さん、と。
 田畑を、誰にも汚させる気はなかった。
 主君を失い、行くあてもないこの身だが、これを倒してからでなければ誰も泉には近づけないぞ。
 血を吐くようにそう叫ぶと、武士は両の手に刀を構えて男達を見据えた。
 野の獣のようなその気迫に押されて、薬師たちは逃げ出した。ちりぢりに山から去ったのだ。
 ――こうしてふもとの村の田畑は、無事に守られたのだという。

 その後。あの武士はどうなっただろう。
 主をなくした者は自分の刃で命を絶つという、そんな時代の話だったのだから、その後逃げ延びたとは思えない。
 それが子供心にも悲しくて、山へ登るたびに矢の一本も落ちてはいないか。もしや木立の間から黒い姿が現れはしないかと、怯えながらも心待ちにしたものだった。
 あの立ちのぼる土の匂い。蝉の声だけが十重二十重に響く、山の濃い緑。
 木立からもれる強い日差しと、眼下に青くそよぐ水田。

 山あいの曲がりくねった水路の水で、あの田圃は今年も実っているのだろうか?



「北に流れるなら……何ていったっけ」
 男の声がした。
 俺は我に返った。隣に座っていた高校生は降りて行ったらしく、二人連れの話が続いているのが聞こえていた。
「ああ、思い出した。天谷川だ」
「あまやがわ」
「うん、そう」
 二人が頷いたところで、アナウンスが流れた。
「……次はこの電車の終点です」
 電車は込み合うホームに滑り込んでいく。乗客は一人、二人と立ち上がり、ゆらりとした足取りで扉へ向かった。
「本日、傘のお忘れ物が大変多くなっております」
 電車は最後に大きく揺れて、そして詰めていた息を吐くような音をたてて止まった。
「……どなたさまもお忘れ物をなさいませんよう、お気をつけ下さい……」
 いつもは半分も聞き流す案内が、今日はひどく優しく聞こえた。
 その言葉が妙に心に残って、立ち上がるのも忘れていた。駅員に声をかけられて、俺はあわてて誰もいなくなった車両から降りた。

 夕立はやんでいた。
 降り出した時と同じように、あっというまにあがったのだろう。いっとき休んでいた蝉も鳴きはじめた。いつのまにかあの二人はいなくなっていた。
 人であふれたホームに立つと、雨上がりの涼やかな風が顔に吹きつけてきた。雲の切れ間から差す淡い光は、うっすらと虹をつくって空を染めている。
 俺は見覚えのある終着地の名を記した電車が、駅に入ってくるのを眺めていた。
 今日はまだ、この電車に乗ることはできない。
 俺はかばんの取っ手を握りしめて改札口へ向かった。
 だが、数日後には待ちくたびれた夏休みになる。そうしたら、どこまでも電車に乗って行こう。

 稲穂の揺れる緑の波と、のどかな駅名の連なる故郷の町へ。

 そう考えて俺は、もう一度額の汗をぬぐった。


キリ番6000記念に、日良々凛和さんにリクエスト頂きました。お題は「涼しいもの」でした(2004/8/7)
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