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自然科学・技術 2

 

「プルトニウムの恐怖」 岩波新書
高木仁三郎 著

  プルトニウムの恐怖 (岩波新書 黄版 173)


プルトニウムは、原子番号九四番の元素で、自然界には存在せず、人工的にのみ合成される。その一族プルトニウム二三九は半減期二万四一○○年の猛毒の放射性物質で、原子力発電の副産物としてできる。「人類の夢をかなえる元素」とも「悪魔の元素」ともよばれるプルトニウムにまつわる話を、巨大科学技術の問題とかかわらせながら語る。

第1章 パンドラの筐は開かれた
第2章 原子力発電
第3章 核燃料はめぐる
第4章 核文明のジレンマ 
第5章 不死鳥かバベルの塔か 
第6章 ホモ・アトミクス 
第7章 未来への一視点


 出版は1981年ですが、原子力技術の誕生から発展、課題といった大枠を書いた本なので古い感じはしません。科学的な説明はわかりやすくまとめて、それよりも原子力エネルギーをめぐる構造的な問題点や社会や自然環境への影響などにページが割かれていて、一般にもわかりやすくなっています。

 前半では、核燃料サイクル全体の流れと、その「流れなさ」が説明されています。ウラン採鉱にはじまり、原子力発電、高速増殖炉――その技術的、経済的な問題から核燃料サイクルを機能させる難しさがわかる。いや、現在ではすでに「サイクル」していないこともわかりました。

 後半では科学的な問題点だけでなく、原子力産業が人類に何をもたらしたかにも深く触れられていました。

 軍事利用を出発点にした原子力技術は、当初の目的――大量破壊と殺傷――を一日も早く達成するために国をあげてバックアップされた。戦後はエネルギー産業ともなったが、そこにも「最短最速、手段を択ばず目標を達成する」体質が受け継がれたことがのちのちにまで課題を残した、と。
 害を被るのは何も知らされない労働者や近隣住民だけど、経済的、政治的な思惑で問題はずっと抑え込まれてきたわけで。私はスリーマイル島原発事故(1979)以前にもウラン採掘地や濃縮工場で放射能被害がでていたことは知らなかったのでぞっとしました。

 私が最初に原発問題にふれたのは映画「チャイナ・シンドローム」だったのだけど、今思えば、この映画のエピソードのもとになったような事件がこの本にも書かれてました。部品検査写真の捏造とか、告発者を故意に狙った自動車事故とか。単なるドラマチックな演出ではなかったことに気づいて恐ろしかった。

 閑話休題。
 確かに、あらゆる技術にはリスクとメリットがある。この本に描かれた時代(戦後数十年)ではまだメリットの部分がより大きく輝いて見えたのかもしれないけれど、人類が抱え込んだ放射性廃棄物は当然今でも片付いてはいない。メリットは本当にメリットといえるほどのものなんだろうか。

 面白い(と言ってはなんですが)未来試算が書かれていました。

 今後(1981年以降)も原子力発電が継続されて発電量が増えていくと、毎年どれくらい放射性廃棄物が増えていくのか。
 発生量は右肩上がりに増え、その累積量はふくれあがる。放射能は減少を続けるとはいえ、時間が経つにつれてその減少率は低くなる。仮に2020年まで原子力発電が続けられると、放射性廃棄物を許容濃度以下に希釈するための水量は地球の海水の1/10(!)になり、100万年経っても1兆トン必要だと。

 現実に今2020年の事態を正確には知りませんが、とんでもない桁の数字が出てくるのは間違いないのだろうな。

 終章では科学技術と人類社会の在り方について提言も語られていました。
 原子力という技術を問い直すことは現代の文明を問い直すことにもなる等、エネルギー消費のあり方や経済まで視野に入れた意見でした。
 ……そう、今もまだ世の中は模索中なんですね。

 最後に、いい本を教えてくれたGさんに感謝を。。。
(2020.5.6)

 

「南極の四季」 新潮選書
神沼克伊 著

  南極の四季 (新潮選書)


地球上最後のフロンティアである南極の四季折々の自然と、その厳しい環境の中で生活する人々の姿を紹介する。わかりやすい言葉で各国基地の世間話まで書いた本。南極の土地柄と人々の暮らしぶりを描く。


 南極・昭和基地での一年を日々の暮らしの変化、天候の変化とともに綴った本。
 著者は地震、火山、極地研究の学者さんなので、各章はまず天候の話からはじまります。常に零下という環境は想像を超えてるので、それを体感した人の「暖かくなった」(零下10度)という言葉に、言葉が無くなったのでした(笑)

 極地の長い長い夜と昼の描写は通年を書いた本ならでは。6月から約45日間の夜――昭和基地は「昼間数時間は外で新聞が読める程度」の薄暮(?)。その頃、もっと高緯度の位置にある基地では本当に真っ暗になってしまうそうです。

 印象的だったのは、そんな長い「夜」が明けるときのこと。これも何日もかけてゆっくりと日の出が近づいてくるのだけれど、長いこと真っ白の世界を見慣れた目に、太陽がもたらすピンクや紅色が美しい、と。そして、春である10月頃になると太陽は一日かけて地平線の上をぐるりと『転がって』いくそうな。えええ、そういうことになるのか、と傾いた地球の姿を思い描いて頭を抱えました(笑)

 隊員たちの故郷への思いも描かれています。厳しい気候条件やトラブルが起きれば担当外の仕事でも協力して事にあたらなければならない――忙しさと積る不満の中では、家族との手紙のやりとりなどはまさに日本とつながる糸のように感じられたのでしょうね。この本の発行が1994年なので今はまた事情が違うのかもしれませんが、荷物便(メイルドロップ)を心待ちにするのもわかるわあ。

 お国柄の違いといえば、各国基地でおこなわれるパーティーや会員制クラブ(笑)のエピソードも楽しかった。たいていが「零下で泳ぐ」みたいな素っ頓狂なイベントになりがちなのはどうしてでしょうね(笑)

 そして、印象的だったのは遭難について。南極での遭難事故というのは、あまり読んだことがなかったので驚きました。
 いくら慎重丁寧に基地が作られても技術がいかに進んだとしても、やはり外に出れば地上で最も過酷な環境であることは変わりない。
 仕事中の不慮の事故あるいは休日に出かけたスキー遊びの帰路での遭難――それ自体は痛ましいことながらも、救助に駆けつける仲間の貴重な時間を奪い、危険にさらすこともある、と問題視されています。やっぱり氷の山は冬山登山と何ら変わらないということでしょうか。

 また、かつては研究者しか訪れなかった南極に、短時間ながらも観光客が訪れるようになった現代ならではの問題も。
 人間が訪問そのものが南極の環境を破壊してしまう。これは観光客でも研究者でも同じで、どんなに注意深く汚染を避けようとしても人間が存在するだけで環境に影響を及ぼしてしまう。遺跡に人の痕跡が残っているように、後年になって南極に人がいたという何かが残ってしまうのか。
 そして(話は上ともかぶりますが)、旅行者が遭難しても救助ができない、できても周辺基地に大きな負担がかかるということも。これは、エベレストの商業登山とも似た問題なのでしょうね。

 ともあれ、年間通しての南極の暮らしを眺められて楽しい本でした。

 Gさんにオーロラサイズの感謝を(^^)
(2020.6.10)



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