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ノンフィクション・伝記 1

「シャクルトン」 PHP研究所
M・モレル S・キャパレル共著  高遠裕子 訳   

   史上最強のリーダー シャクルトン ― 絶望の淵に立っても決してあきらめない


E・シャクルトンの南極探検を通して、指導者とは、成功とは何かを考えリーダーシップ論を展開した本。各章にはシャクルトンに学んだビジネスマンの例が載せられている。

 実例の提示と考察、ポイントの箇条書き、とまさにビジネス書の構成。シャクルトンの子供〜青年時代についても書かれていて伝記としても読むことができます。
 シャクルトンについての隊員や友人の言葉を読み進むにつれ、何と人を見る目に長けていた人物だったのだろうという思いを持ちました。心理分析という言葉も普及していなかった時代に、隊員達が何に対しどう感じ、それが隊全体にどのような影響を及ぼすかを観察して把握している。彼の温かな人間性と知性、強さを感じました。「全員が生きて帰る」というシンプルな目的を人間の知性と感性を駆使して達成することには、極地探検とはまた違う意味での感動を覚えます。
 余談ですが、いろんなサイトを見ているとシャクルトンについてビジネス書を通して知った、という人がかなり多いようです。確かにこんな上司だったら(笑)いいなあ、と思います。でも世間には「全員が」生きて帰ることを目的としない経営者の方が多いんだよね、と思ったら極地なみに寒かったです。
(2003.11.12)

「エンデュアランス号漂流」 新潮文庫
A・ランシング 著  山本光伸 訳   

   エンデュアランス号漂流記 (中公文庫BIBLIO)


1914年アーネスト・シャクルトンは南極大陸横断という探検の旅に出る。途中エンデュアランス号は沈没し、探検隊はそりとボートで南極圏からの脱出を図る。隊員たちの日記を引用しながら生還するまでの様子を記している。

 寒さ、空腹、すさまじい孤独を描いているのに、全編に感じられる明るい光のようなものは何だろうと思いました。仲間の団結の中で生まれる笑い。死をすぐ傍に感じる時でもユーモアを失わない、時にそれが上滑りしてきわどいジョークになっても明るさを無くすまいとする意思を感じました。彼らは仲間をからかったり、疑ったり、不満をもらしたりして、とても人間くさい。隊員の一人が仲間の喧嘩のとばっちりで、配給のミルクをこぼしてしまう場面があります。怒りと悲しさでおもわず怒鳴りちらした彼の汚れ疲れきった姿を見て、仲間たちはミルクを分け合います。自分たちが極限の状態にあると気づいた時に、すぐに互いに思いを分かち合おうとする姿が自然で美しい。
 この本を手にとったのは映画「シャクルトン」を見たからなのですが、南極で撮影されたその映像も素晴らしいです。
(2003.9.29)

 

「空へ -エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか- 文春文庫
J・クラカワー 著  海津正彦 訳   

   空へ―エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか


1996年5月、エヴェレストで12人の死者を出す遭難事故が起きた。著者はジャーナリストで、登山の営利事業化とガイド業の問題点について雑誌に記事を書くために登山隊のひとつに参加していた。生還者による事故の記録とエヴェレスト登山事情。

 意外にも美しい風景の描写は少ないです。実は少し期待していたのですが。著者が山頂に留まっていた5分ほどの場面も、喜びより酸素の残量の心配と呼吸による胸の痛み、寒さと疲労の方が強く伝わってきました。美しさに目を奪われている余裕がない。そんな厳しさを高峰登山の経験のない者は本当にはわかっていないのだ、ということを突きつけられました。

 巻頭に、この事故が起こった5月にエヴェレストにいた15遠征隊、100余人のリストがあります。そして、著者が登頂した5/10に頂上を目指していたのは3遠征隊の20人を越えるガイド、顧客たち。当日、頂上近くは交通渋滞を起こしていた、と書かれています。無駄な時間を過ごすことを許されない高度での渋滞……。私は高峰登山専門のガイド社があることも知らなかったので、こんな状況に、まず驚いてしまいました。
 この事故に関わった人々は登山経験もエヴェレストにかける思いもまちまちです。体力や意思はあるものの高山経験の少ない者、日常生活をキャンプへ持ち込もうとする富豪。国の威信を背負ってくる遠征隊員。明らかに経験不足の顧客を山へ導くことに懸念を覚えつつ生活のために働くガイドやシェルパ。そして、ガイド社の経営戦略や顧客争奪戦。

『ろくに登れもしない者たちが、こんなにおおぜい山に取り付いていたら、何も悪いことは起こらずに今シーズンを無事終えられるとはとても思えない』

 事故の前に語られたベテランガイドの懸念の言葉が、本を読み進みながら頭を離れません。そして、過失であれ偶然であれ、ひとつひとつは珍しくはないトラブルが重なって、5/10夕方から翌朝にかけて吹きあれたブリザードの中の遭難へとつながっていきます。
 高度障害のためにあやふやな記憶を補うために、著者は帰国後、同じく生還した人たちに聞き取り調査を行いました。
 顧客の登山に関する無知。職責にふさわしくない装備のガイド。各遠征隊がいつ登頂するかという事前の取り決めが破られたこと。数日前から、相次ぐ事故や病人の搬送のためにガイドたちの間でも疲労が溜まっていたこと。高度障害による各人の判断の誤り、思い込みと誤った伝言。
 ベテランガイドたちはなぜ下山予定時間を過ぎても山頂に留まっていたのか。そして、ガイドと顧客という関係がどんな行動と結びついて、この顛末となったのか。克明に書かれています。

 著者は力不足のクライマーによる遭難事故を防ぐために酸素ボンベの使用禁止を提言していますが、一方でネパールと中国の経済状況からすれば、そんな規制が現実には働かないことを見越してもいます。また、同行していたガイドたちの判断や装備へ疑問を呈しつつ、本当の問題はそこにあるのではない、と語っています。

『わたしのチームメイト四人が死んだ要因は組織の欠陥にあるわけではない。エヴェレストでは組織は解体し、存在しなくなる――という本質に直面して死んだのだ』

 かつて、登山は訓練を積んだ限られた人が行うものだったけれど、高峰と日常との間のハードルは低くなってきている。経験者同士で綱を結んで命を支えあう登山とは違う、顧客がガイドに従順であることで事故を防ごうとする登山方法が生まれている。
 けれども、そのどちらもサガルマータ
(ネパールでのエヴェレストの呼び名。大空の女神の意)の気にかけるところではないのだ、という厳しさが伝わってきます。

「デスゾーン」「死者として残されて」読了後の追記)
 事故当事者による他の本を読んでみると、疑問が出てきました。やっぱり、こういう本は複数の視点から見ないといけない、と実感しました。

 著者とは別の隊のガイド、A・ブクレーエフは「デスゾーン」という本を書いています。「空へ」に対する反論という性格もある本ですが、二冊の意見が分かれたのは主に二点。
 1.ブクレーエフが酸素ボンベを使用せずにガイドを行ったのは適切だったのか。
 2.登頂後に顧客を残して先に降下したのは隊長フィッシャーの指示であったのか否か、ということです。

 どちらの本にも疑問点はありますが、「空へ」においてはブクレーエフの主張が書かれていないことが不可解でした。1.に関して、ブクレーエフはそのためのトレーニングを積んだ上で緊急用ボンベを持って登頂していますが、そのことは書かれていません。ブクレーエフの隊のボンベ数に余裕がなかったという事情にも触れられていません。
 二点目については、その会話を知る人はすでに亡くなってしまいました。フィッシャーはその日の嵐の中で、ブクレーエフは1997年にアンナプルナで雪崩に巻き込まれて帰らぬ人になっています。
 また、著者が属していたロブ・ホール隊の運営についての意見をもっと読みたかったです。隊長のホール自身が時間制限を過ぎても山頂に残っていたのは何故か。それを推察する(ホールも亡くなってしまったので)部分はあっさりしてますし、その行動が原因でウェザーズは死にかけたといっても過言ではないと思うのですが、その事にはほとんど触れられていません。
 最後にホールの行動を「不遜」と表現してはいますが、商業公募登山の現状を書くという目的の本にしては簡潔すぎる気がします。

 事実はどうだったのか。証言する人がいなくなった、不毛な疑問だけが残ってしまいました。
(2006.5.19)

「デスゾーン」 角川書店
A・ブクレーエフ  G・デウォルト  共著  鈴木主税 訳

   デス・ゾーン8848M―エヴェレスト大量遭難の真実


1996年5月エヴェレストで起きた遭難事故の、ガイドの一人による記録。事故の際、S・フィッシャー率いる登山隊のガイドを務めた著者はベテラン登山家として知られており、隊の抱えていた問題点、5/10の嵐をついての顧客の救助活動について語っている。

 読み終わっての第一印象は「何で共著でなければならなかったんだろう?」でした。

 英語が得意でないブクレーエフの話を、デウォルトが関係者の証言を挿しはさんでまとめた本ですが、正直、この構成が不満でした。構成は「空へ」と似ていますが、一冊のノンフィクションとして比べると、かなり物足りないです。良い点もあります。ブクレーエフはこの遠征計画に装備調達の段階から携わっており、その内実が伝わってきます。また、ソ連崩壊後の登山家たちの苦境についても書かれており、「空へ」だけではわからない商業公募登山の現状が描かれています。
 しかし、取材した人数が限られており、しかも匿名の証言が多すぎて「空へ」に比べると説得力がないのです。デウォルトの取材不足はクラカワーからも指摘されています。ブクレーエフの独白だけを彼の証言とした方が良かった、とさえ思いました。

 もし、共著でなかったら……。以下はブクレーエフの独白を読みながら私が感じたことです。
 あれっ、と目を引かれたのが、ルート工作のために一人で登っていた時の場面でした。ここがものすごく生き生きしているのです。以降、ルート工作、自身のための高度順化トレーニングなど、ブクレーエフは数回にわたって単独行動をしていますが、登山家としてするべきことをしている、という記述には力が感じられます。
 この本と「空へ」の中には、ブクレーエフを評した二つの意見が書かれています。「どんな山でも彼さえいれば大丈夫」と「協調性がないから一緒に登りたくない」。おそらく、どちらも当たりなのでしょう。
 彼は登山家であるけれど、ガイドではなかった。商業公募登山においてガイドが求められていることを、理解しきれなかったのではないかという気がします。
 ブクレーエフはソ連邦時代にエリートアルピニストとしての教育を受けてきた人物です。エヴェレストには既に二度、無酸素で登頂した経験がある、この年のフィッシャー隊の切り札的な存在でした。
 ですが、というか、そのために経験が浅い者と共に登ることに彼はとまどいを覚えています。たびたび自身の行動を説明していますが、それは経験者同士がフォローしあう時のもので、ガイドとして適切な行動だったかどうか疑問です。

 そして、フィッシャーの隊運営がさらに彼を混乱させたのではないかと思いました。そもそもフィッシャーは登山のベテランとして彼を雇いましたが、後になると顧客へのサービス(テント張りを手伝うとか一緒について歩くなど)が足りないと注意しています。
 また、三人のガイド(フィッシャー、ブクレーエフ、ベイドルマン)の行動予定がばらばらにも関わらず、ブクレーエフはシェルパへの命令権限は自分にはない、と考えています。隊長が不在の場合は、同等の権威をガイドが持つのが当然だと思うのですが、それが徹底されなかった、あるいはブクレーエフが理解していなかったことが事故の遠因のひとつになっています。
 その他、余裕十分の酸素ボンベが用意されなかったこと、フィッシャーの疲労、顧客に対して引き返し時間(具体的な時刻や酸素ボンベの使用ペースによる判断)を守ることが徹底されなかった、などフィッシャー隊の混乱ぶりが伝わってきます。

 そして、そんな経緯を読んでいると、幾度も同じ疑問に立ち返ってくることになります。 つまり、8000m級の山の上で契約書にどれだけの意味があるのか? 
 「ガイド」という仕事を引き受けた以上、ブクレーエフには非難されても仕方ない点があると思います。それでも、嵐の中に一人で出て行って三人を救助したのは彼であり、その言葉には重みがあります。

「コーチにはなれる。救助隊員になってもいい。しかし、誰に対しても成功や安全を保証してやることはできない」
「他人から、その人の野心をとるか生命をとるかの恐ろしい選択をまかされなくてすむように、人は誰でも、自分で自分の生命に責任を持つべきだ」

 ガイドとガイド会社が契約書に縛られているように、顧客もまた、自分が払った代金が成功保証のように思われる幻想に囚われて命を落としたのではないかと感じました。
(2006.6.8)

「死者として残されて」 光文社
B・ウェザーズ 著   山本光伸 訳

   死者として残されて―エヴェレスト零下51度からの生還 (海外ヒューマン・アドベンチャー・シリーズ)


アマチュア登山家であった著者は1996年5月にエベレスト遠征隊へ参加、頂上へ向かった日に雪嵐に襲われた。発見された時には昏睡状態で、蘇生の可能性がないという高山での慣習的判断からその場に取残されたが、その後、自力でキャンプへ辿りついた。
長年、鬱病に悩まされ、家族に反対されながらも登山にのめりこんでいたが、この事故をきっかけに人生観が変わったと語る。重度の凍傷で手や鼻を失いながら日常生活に戻り、もう一度家族との絆をとりもどそうとする。

 「空へ」「デスゾーン」で書かれた遭難事故の生還者の一人です。が、事故の状況についてはおおまかに書かれる程度で、この本の中心は著者のそれまでの人生と壊れかけた家族関係を修復しようとする決意の物語です。先に読んだ「空へ」で描かれたウェザーズはやや神経質な感じの病理医、登山経験はあるけれどアマチュアにすぎない顧客で、その人となりについてはあまり触れられていませんでした。ですので、登山隊に参加した経緯を知って驚きました。

 父親の転勤について世界各地に移り住んだ幼少時代、大人になってから病を負って苦しむ日々。家族への愛情、それにもかかわらず家庭に居られずに仕事や登山へのめりこんでいく様子が描かれています。
「安らかな気持ちや幸福感、爽快感といった感情は持てずにいた」著者は、世界各地の高峰をめぐりながら山で死ぬことを望んでいたといいます。
 他人から見れば、仕事は順調で穏やかな家庭があり、思いつく限りの趣味に没頭する時間と経済力がある。いいことづくめではないか、と思えるのですが、その裏で自分自身をもてあましている苦しみ、奥さんの孤独感や理解し合えないことへの苛立ち、子供たちの父への愛情……どれもがわかるような気がして、何ともいえない複雑な気持ちになりました。

 ですが、読み進みながら人間の生命力、意思の力、ユーモアも強く感じました。救助隊にも諦められ取残されて、雪の中で意識を取り戻した時に目に浮かんだ家族の姿。彼らに会うまでは死ぬのは嫌だ、と思った。そうして本当に立ち上がって、ろくに目も見えない状態で歩きだしたことに圧倒されました。
 生き延びようとする本能、意思の力を人間は持っているのだ、ということが伝わってきます。

 また、帰国後のエピソードが印象的でした。子供たちと映画を見たり、自分の手で再びハンバーガーを持って食べられるか考える、再生手術した鼻を「育てる」様子などユーモアたっぷりの言葉で語られています。 小さなできごとに喜んだり、がっかりしたり、興味をそそられる様子は穏やかで、前半に描かれたウェザーズとは別人のようです。もちろん、書かれていないだけで精神的、肉体的な苦しみはあっただろうと思います。それでも、小さな幸せをいくつも数え上げる文章には胸をうたれます。
(2006.6.8)

「ドクター・ヘリオットの素晴らしい人生 上」「下」 集英社文庫
J・ワイト  著   大熊 榮 訳

   ドクター・ヘリオットの素晴らしい人生〈上〉 (集英社文庫)

   ドクター・ヘリオットの素晴らしい人生〈下〉 (集英社文庫)


「ジェイムズ・ヘリオット」のペンネームで、イギリス ヨークシャーでの獣医生活を自伝小説にしたジェイムズ・アルフレッド・ワイト。彼と同じく獣医である息子による伝記。

 上巻では、子供時代から獣医を志して勉強した青年時代、不況下で幸運にも見つけた就職先でのできごと、シーグフリード・ファーノンのモデルとなったドナルド・シンクレアや妻ジョアンとの出会いが書かれています。
 下巻では、父の死をきっかけにはじまった神経症とその回復、長年の夢であった小説の執筆、やがてその作品が出版されて世界中に名を知られるようになったことが書かれています。

 父親の思い出を語ったほのぼのとした本なのかな、という予想は、半分はいい意味で裏切られました。

 まず、感じたのは「慎重な文章」ということでしょうか。
 前書きで「文を書く才能は小学生で見切りをつけた」と語る著者が、父親の残した手紙や習作、診療日記などをもとに書き綴っています。全体に淡々とした語り口で、まるで既にある絵をなぞろうとするような注意深さが窺われます。
 事実と、伝聞や憶測が混同されないように伝えようとする文章。伝記を書く、とはそういうものなのかもしれませんが、落ち着いた文章に満足感を覚えました。

 また、知人でも詳しくは知らなかっただろうアルフレッドの複雑で奥深い面が書かれています。
 喜怒哀楽を表に出そうとしない性格、病気に悩まされた時期があったこと、苦労人の両親に対して長い間、負い目を感じていたこと、将来の生活への不安や家族への強すぎる責任感……。それにも関わらず、あれだけ穏やかな作品を書き続けていたことを知って驚きました。

 アルフレッドは自伝小説の形式をとる前には、獣医の話を人称や人物をかえて書いていたそうです。
 習作のどこがどのように変えられ、実在の人物のエピソードがどのように書かれたのか、知ることができるのはファンには嬉しいことでした。
 ただ、作中人物のモデルとなったことについて、ドナルド・シンクレアとの行き違いがあったことは意外でした。そして、アルフの死後、彼が後を追うように亡くなったということを知ってつらい気持ちになりました。
 風変わりだけれどユーモアある魅力的な人物、ドナルド。彼とアルフが職業上のよきパートナーであり、尊敬できる友人関係であったろうことは作品からも窺えます。ドナルドの姿がシーグフリードとして作中に残ったことは、やはり素晴らしいことだったのではないかと思うのですが……。

 単に息子から見た父、だけではなく、友人として、同僚としてのアルフレッドを書こうとするところがよかったです。アルフ自身が望んでいたように、作家である前に獣医であることを忘れなかったという、落ち着いた穏やかな人柄を知ることができました。

 アルフレッドの死にあたり、新聞に寄せられた追悼文が紹介されています。

『(ヘリオットの作品には)ひとのよさの輝きとでも言えばいいのだろうか。それに触れると、自分ももっとましな人間になろうという意欲を掻き立ててくれるようななにかがある』

 本当に、その通り。
 ジェイムズ・アルフレッド・ワイト氏は1995年2月に逝去されました。
(2006.12.1)

「歴史写真のトリック
 〜政治権力と情報操作〜
朝日新聞社
A・ジョベール 著  村上光彦 訳

   歴史写真のトリック―政治権力と情報操作


右派左派を問わず、全体主義の多くの国で政治的意図から報道写真に修整が施されてきた。20世紀初頭から後半にかけてドイツ、ロシア、中国などで製作され、宣伝や報道に使われた写真と原本を比較することで情報操作の痕跡を追う。

 某お絵かきソフトを使えば、どれも私にもできる、と思うと背筋が寒かったです。絵画、音楽もプロパガンダに使われるけれど、写真ほど効果的に利用された芸術はなかったと思います。では何故、写真だけが特別なのか。

 ひとつには「真を写す」と書くように、嘘や意図の入る余地がない物と多くの人に考えられているから。
 ですが、カメラは人の目に映るようには撮影できないもの。きれいな景色に夢中でシャッターをきると、たいてい後で脱力します。
「ごみ袋が写ってる」「後ろに誰か居たなんて気づかなかった」
自分が見た(ように感じた)通りに撮影するには、ごみ袋をどける、通行人に立ち退いて(!)もらう、レフ板で光を調整するなどの操作が必要です。
 作為がないどころか、写真とは作為でできてるものだ、とさえ思えるのですが。何故こんな名前がついてるんでしょうね。
「作為のないもの」と認識される写真だからこそ、真を写さないことが可能となったのかもしれません。
 もうひとつには、意図に合わせた修整が容易であるから。
絵画の場合、絵にあわせてキャンバスを足したり切り落とすのは難しいでしょうが、写真は必要な部分だけ印画したり、合成することが可能です。覆い焼きで部分の印象を弱くしたり、逆に強調することもできます。
 そんな実例が、この本には満載されてます。裏切り者は最初から存在しなかったかのように消え去り、独裁者の神のごとき権威を高めるために背景を切り取る。まあ、よくこんな根気のいる作業をちまちまと……と呆然としたのでした。

 写真が生まれた当初から、例えば肖像写真の乱れた髪を整えるなどの修整は既に行われていました。写真を加工することは善意だったかもしれない。それが、いつから政治の道具になり下がるようになったのか。
 文章と同じように画像、映像も言葉を持っています。何かを告げることと、告げずに黙っていることは、同等に近い重みがあるのだ、と考えさせられる内容でした。
(2005.4.1)

 

「チベット遠征」 中公文庫BIBLIO
S・ヘディン 著   金子民雄 訳

   チベット遠征 (中公文庫BIBLIO)


原題「Erovringstag i Tibet」。著者はスウェーデンの探検家。1893年からチベット入国を試み、断念せざるを得なかった二回の遠征の様子、そして1908年に許可を得て第三次遠征隊がヒマラヤ山岳地帯を横断した旅を、著者の挿絵とともに記録したもの。

 まず、挿絵がとても雰囲気があってすてきでした(もちろん本文にも大きな楽しみがありましたが)。
 前半、失敗に終わった二回の遠征の章では、夜の闇や風、野生動物の群れといった風景を中心に描かれています。後半は入国を許され、監視つきながら旅をすることができるようになったので、じっくり観察したのでしょう。タシルンポの寺院と僧侶の姿、祭事の様子が細かく描かれています。

 訳者あとがきによれば、この本は1927〜35年の第四次探検行の資金集めという目的もあり、特にアメリカの読者を意識して書かれた、とのこと。読み物としての面白さ、わかりやすさを重視しているようです。
 隠者やモルモットを襲う熊の描写など、ちょっと想像力働かせすぎだなあ、と感じることもありましたが、当時の探検物語を読むつもりで楽しみました。

 文章と挿絵のとりあわせ、というのは、私にとっては至福の本。気に入った挿絵は「狼に追われる野生ロバ」、怒ったヤクのスケッチ数枚、従者の肖像数枚、「騎乗するチベット人」「タシルンポの寺院都市の街路」「タシルンポの新年祭」など。
(2007.1.20)


「セブン・イヤーズ・イン・チベット」 角川文庫ソフィア
H・ハラー  著   福田宏年 訳

   セブン・イヤーズ・イン・チベット―チベットの7年 (角川文庫ソフィア)


世界の屋根と呼ばれるチベット高原の聖都ラサへ。第二次大戦下、インドの捕虜収容所から脱走、ヒマラヤ山脈を放浪した末にチベットへ辿りついたオーストリア人登山家の手記。二年に及ぶ逃避行、そして外国人としては例外的にラサに受け入れられ、やがて少年時代のダライ・ラマ14世の個人教授をつとめた日々が描かれている。同名の映画の原作。

 山の話ということで、再読してみました。やっぱり映画より格段に面白いです(B・ピットがあまり好きでもないし)。
 前半、厳しい寒さや見上げる高峰の美しさが印象的です。脱走当初は数名いた仲間のうち、結局意思を貫いてラサへ辿りついたのは登山家である著者と友人P・アウフシュナイターだけだったということからも、精神的にも体力的にも粘り強さが求められる旅だったことがわかります。収容所から脱走して、という経緯から装備は良いわけがありませんし、常に追われて、しかも入国自体が許されていないチベットの都へ向かう……過酷な旅なのですが、どこかユーモアの漂う文章に引き込まれてしまいます。

 後半はラサに迎えられ(かなり後になるまで強制退去を命じられることを恐れています)、町に馴染んで友人を作っていく様子が楽しい。著者たち二人を受け入れたチベットの人たちの温かさやユーモアを楽しむ心が伝わってきます。年間の行事や様々な習慣が描かれて、1950年の中国による侵攻以前の記録としても貴重なものだと思います。

 聖俗が一体となって国を動かす文化、世界の屋根といわれる場所にしては意外なほど多様の商品がならぶ市場の様子。保守的な精神と新しい物を取り入れる柔軟さ、前進力。正反対に思えるものが混在している風景は何だか不思議で、でも魅力的です。
 著者は2006年1月7日、93歳で逝去されました。
(2006.5.28)

「チベットの娘 -リンチェン・ドルマ・タリンの自伝- 中公文庫
R・D・タリン 著   三浦順子 訳

   チベットの娘―リンチェン・ドルマ・タリンの自伝 (中公文庫)


原題「Daughter of Tibet」。チベット人女性として初めてインドへ留学し、その後西欧文化とチベットの橋渡し的役割を担ったリンチェン・ドルマ・タリン(1910〜2000)の自伝。前半では、著者の自伝とともに20世紀前半のチベットの生活、信仰、政治など旧チベット社会を描く。後半では占領下のラサの様子、中国訪問の旅、インドへの亡命について書かれている。

第一章 我が家の背景
第二章 父と長兄の暗殺
第三章 ラサで過ごした子供時代
第四章 母の死
第五章 チベット女性として初めてダージリンに留学する
第六章 最初の結婚
第七章 タリンの公子のもとに嫁ぐ
第八章 田舎の荘園生活
第九章 権謀術数うずまくラサ
第十章 チベットの祭りとダライ・ラマ十四世のラサ入り
第十一章 チベットの習慣と信仰
第十二章 前摂政レティンの失墜
第十三章 チャムドの陥落と中国の侵攻
第十四章 ラサの恐怖
第十五章 ダライ・ラマ法王に随行して中国を訪問する
第十六章 チベット、中国にはむかう
第十七章 1959年3月のラサ決起
第十八章 命からがらインドへ
第十九章 ブータンで足止めをくわされて
第二十章 チベット難民の子供の教育に携わる
エピローグ


 以前に一度絶版になったものの、リクエストによって単行本が復刊されています(私が読んだのは1991年出版の文庫版)。
 初読時には、インド留学していた少女時代の思い出話が印象に残りました。買い食いが楽しくてやめられなかったとか、季節の行事の準備の様子などがユーモアある文で語られていて面白かったです。
 明るくて負けん気が強い、しかし少々わがままなお嬢さんの姿が可愛らしい。この少女が成長して、やがて家族と別れ、厳しい旅の末にインドへ辿りついて難民の子供の教育に携わるようになる。何という大変化だろうと思いつつ、それを受け入れて黙々と行動し続ける姿に、何ともいえない静かな感動を覚えました。
 また、女性は政治には関わらないので、そのような話題には傍観者としての意見しか述べられていません。しかし、傍観者ではあっても「わたしはこう思う」という言葉がまっすぐな印象で、強さを感じました。

 そして今回(2008/6)、再読してみて興味をもったこと、ひかれたこと。

 旧チベット社会について。
 土地は政府の所有物であり、貴族や僧院に対して荘園が貸し出されたこと。「貴族:農奴」という単純な封建社会ではなく、有力貴族を頂点に小貴族や富農、小作人がいて、それぞれに労働や納税の義務があり、同時に財産所有や利益が保障されたと書かれています。
 ことに小作人と土地所有者との関係について、主人の畑・自分の畑で働く日が区別されていたり、灌漑用水すら均等に分けられていたということには驚きました。
 また、職人たち(鍛冶屋、靴屋、大工など)の各ギルドの長は政府高官に列せられる、貧しい者でも僧となって出世することができるなど、いわゆる「上昇」の道もそなえた社会構造だったことがわかります。

 一方で、著者の身内の超堕落(笑)僧侶や貴族同士の権力争い・腐敗のエピソードも描かれています。いろいろな人間がいるのは当然のことで、それを内包できるだけの成熟した社会だったという点に興味がわきました。
 裕福でなくても衣食は足りており、不作の年には政府の備蓄穀物が放出されたこと。また、仕事の前に祈りを捧げるなど仏教が人々の心に浸透していたとも書かれています。過去のチベットについて語る著者の言葉は簡潔です。

 中国人が来るまで、チベット人は幸せな民族であり、それなりに快適な生活を送っていました。
 生活様式にはさまざまは欠点もあったでしょうが、人々は心みちたりてのんきに生きていました。


 著者は有力貴族の家柄ですから、貧しい生活をどれだけ知っていたかはわかりません。
 ですが、インド亡命時には使用人が家族を置いてまで著者に付き添ったこと、またタリン家の義父が悪路を行く際に、地元民が背負ってあげたいと言ったエピソードなどからは、主人に対する親愛の情が伝わってきます。少なくとも、搾取する者・される者という言葉だけでは括れない関係があったのだと感じました。


 結婚制度について。
 多くのチベット人は一夫一婦であったけれど、家族の絆を強めるために一夫多妻、一妻多夫を行うこともあったそうです。正直いえば、「姉二人の夫と、妹も結婚」「姉の一人は、数年後に他の男と結婚することになっている」という状況はさっぱり理解できないのですが。
 面白いな、と思ったのは、ツァロンの妻である著者と妹チャンチュプ・ドルマがシッキムのタリン家の兄弟と縁組した時の話。
 最初はタリン家のジグメーからチャンチュプ・ドルマへの申し込みだったのですが。 これを、ジグメーと著者の縁組にして、ジグメーがラサに来てはどうかと提案してみる。これに対してタリン家は、息子をそちらにやることをできないが、ジグメーの弟とチャンチュプ・ドルマを結婚させて(つまり、兄姉と弟妹が縁組)シッキムに来てくれると嬉しい、という。
 ……くどい説明にようですが、本当にこういう話なのです。そして、ツァロンはこの話に『乗り気だった』そうなのです。
 どうやら、「家」のための結婚ではなく、「つながり」のための結婚なのでしょうね。それも、つながる数が多ければなお良いという感じでしょうか。どういう文化なのか、まだまだわからないなりに興味がわきます。
 こんな結婚をした著者と夫ジグメーですが、穏やかで幸せな関係だったようです。狩猟をめぐる夫婦の会話は微笑ましかったです。
 そして、第二次世界大戦下、世界中がレーダーや戦闘機、核兵器を抱え込んでいた時代。こんな国もあったのです。

 1939年当時、ラサでは多くの人々がラジオを持っており、日々世界のニュースを聞くこともできました。また、第二次世界大戦が終了して、平和宣言がなされるまで、チベット全土の僧院では、戦争の終結を祈る法要がおこなわれていました。

 何だか不思議な気分になりました。
(2003.7.25)

 

「チベットはどうなっているのか?
 - チベット問題へのアプローチ -
日中出版
P・ギャルポ 著

 チベットはどうなっているのか?―チベット問題へのアプローチ (チベット選書)


1987年9月にラサで起きた大規模デモの経緯とその後のチベット情勢について。また、1988年の和平提案(ストラスブール提案)の概要とその影響について語る。著者が教授を勤める大学所属研究所の発刊誌に1988〜89年に掲載された文章他を収録。

第T部  チベット動乱の真相
 第一章 チベットの1987年決起
 第二章 87年決起後のチベット情勢
 第三章 チベット3月決起と戒厳令

第U部  チベット問題をどうみるか
 第四章 チベットにおける中国の宗教政策
 第五章 ダライラマ法王の新提案
 第六章 パンチェンラマの死を悼む
 第七章 中国の武力鎮圧
 第八章 ダライラマ法王とノーベル賞

第十四世ダライラマ法王のノーベル平和賞受賞講演


 1990年出版の本ですが、その後も情勢は変化し続けています(和平提案の結果や95年のパンチェンラマの誘拐など)。そのため、他の本と比較したり、読み取りなおしたり……ちょっと草臥れてしまいました。全体像を知りたい場合は、やっぱり新しく出版されたものを読む方がいいと肝に銘じました。

 ですが、読んでよかったと思ったのは、1987〜88年にかけて行われたデモとその鎮圧の経緯、また1988年のストラスブール提案に対する亡命チベット人の間の抵抗感など、関係者の当時の心情を感じられたことです。

 デモ前後の状況については。
 宗教祭事への政治権力の介入、チベット沈静化を国際社会へアピールする場の設定、そこでの僧侶による抗議――細かい状況は違うにしても、同じような出来事が20年経った今も繰り返されているということにやりきれない思いがしますし、その理由を考えさせられもします。

 また、和平提案をめぐって、亡命政府の要人の間にすら賛否両論があったという話には驚きました。
 政府体制は民主主義を取り入れようとしてきたのに、それに逆行するかたちで法王によって重大な決定がなされた――そこには亡命チベット人社会の複雑さがあるのでしょう。
「法王は完全無欠ではない。間違えることもある」「顧問や補佐官の間違った助言の結果である」「過去の犠牲者を思えば、受け入れかねる」などの反対意見からはそれぞれの方の思いが伝わってきます。このあたり、私もまだ勉強途上で感想が書きにくいのですが。

 そして、今回(2008/4)、再読して目をひかれたところ。それは僧侶によるデモを批判的に書いた外国の新聞記事に対する、著者の意見でした。

「チベット人の価値観を理解していない」
「仏教徒であるチベット人は、物や地位、名誉を捨てて他人のために犠牲になれる人が尊敬され、賛美される。したがって、出家の身である僧侶が人々の先頭に立ったのは自然なことである」


「そういうことか!」と手をうち、そして当事者であるチベット人と外国人(もちろん、自分も含めて)との意識の差のようなものに愕然とさせられました。
 もちろん暴力行為はよくないのですが、それでも「彼は何を考え、何のために、どんな行動をとったのか」そこを想像できるような知識を持っていなかったことが恥ずかしかったのでした。

 それにしても。1990年にこんなことを書かれていたのに、今はどうなんだろうか。
 もしかしたら、チベットに対する世界の理解は、今もたいして変わっていないのだろうか――。そんなことを、オリンピックばかりのニュースを眺めながら考えていたのでした。

 あと、個人的に発見、というか気がついていなかったのですが。
 和平提案に含まれているヒマラヤの環境問題。仏教やボン教(チベットに古くからある宗教)の教えにより自然との調和を重視するチベット人にとって、これは信念に関わる問題でもあると語られています。
 私が環境問題と聞いてすぐに思い浮かぶのは、天候の変化、それが毎日の生活にどう関わるのか、といった物質的な面ばかりです。地球上には、同じ地球のことをずいぶん違った捉え方をする人たちがいるのだなあ、としみじみしてしまった。
(2006.10.3)

「ダラムサラと北京 
 提唱と往復書簡1981-1993
風彩社
チベット亡命政府 情報国際関係省  西依玉美 訳
 

  ダラムサラと北京


1981年から12年にわたるチベット亡命政府と中国政府との連絡と政治的信号の記録。1987年に亡命政府より提唱された「五項目和平案」とそれをめぐる書簡が中心。後半の「モンゴル帝国とチベット」では、13〜14世紀のチベットとモンゴル帝国の歴史的関係をたどり、中国が主張するチベット領有権に対して反証する。

もとになっているのは、亡命政府の情報国際関係省が発刊した小冊子他。
「ダラムサラと北京」
(原題「Dharamsala and Beijing initiatives and Correspondence 1981-1993」:1994刊行)
「モンゴル帝国とチベット」
(原題「The Mongols and Tibet」:1996.3刊行)

目次は大きい章題のみ(2000年発行の第一版。その後重版されて装丁は変わっていますが、多分、内容の変更はないと思います)

・ダラムサラと北京 提唱と往復書簡
・チベットに関する新華社のインタビューへのコメント(1994)
・ダライラマ法王3月10日声明(1999)
・ダライラマ法王64歳生誕祝賀パーティー(1999)

・モンゴル帝国とチベット 二国間の関係の歴史的検証
・添付資料


 この本に収録されているのは、いわばビジネスメールや社内資料の類。なので、感想というのは述べられないのですが、時々取り出してはニュースを見る参考にしています。
「完全な独立は別として、他の全ての問題は論議され、解決される」という1979年のケ小平の言葉を受けて、関係者が動いていた時期の記録になります。

 『往復書簡』といいながらも、ほとんど往復になっていないのですね。
 中でも、「閻明復からのチベット亡命政府への文書」と「チベット亡命政府から閻明復の文書への回答」をつき合わせて読むと、北京とダラムサラの対話がどれだけかみ合ってこなかったのかが窺われました。
 経緯を知るだけならweb上で概要を調べればいいのかもしれませんが、こういう本を読んで「本当に、本当にかみ合わなかったんだ」と感じるのも大切な気がします。そこから、また別のものが見えてくるのかもしれない。

 また、上の文書の中では、この本に載っていない法王の記者会見についても言及されています。
 90年代前半、こういう記者会見の内容はどうやって、どのくらい知られていたのでしょうね。個人がネットを見られるようになったのがこの頃だと聞いたことがありますが(私はさっぱり知りませんでした)、新聞やTVで扱われなければ知らない人の方が多かったでしょう。
 今は、報道機関なり個人が取り上げれば、数時間以内に概要を知ることができる(自由に閲覧できて、の話ですが)。同時に、間違った内容が流布したり、あからさまに取り上げない場合も、うっすらと気づくことができる。不思議な世の中だと思う。
 そして、それでもなお光が当たらない場所があるのだ、と思うと複雑な気持ちになります。
(2005.4.16)

「雪の国からの亡命」 地湧社
J・アベドン 著 三浦順子/小林秀英/梅野泉 共訳

  雪の国からの亡命―チベットとダライ・ラマ半世紀の証言


原題「In Exile from the Land of Snows」。亡命者、医師、神官など、様々な立場の5人のチベット人の体験を通して、チベットの文化と占領前後の人々の暮らしを記録している。巻末の謝辞によると400人以上へのインタビューを元に、60人を超える人の協力を得て書かれている。

 1 崩壊前夜 1933〜1950
 2 占領 1950〜1959
 3 亡命 1959〜1960
 4 再建 1960〜1974
 5 闘い 1959〜1984
 6 チベット医学
 7 巡礼
 8 守護の輪
 9 とらわれたチベット 1959〜1965
 10 長い夜 1966〜1977
 11 チベットに還る 1977〜1984
 写真
 チベット関係史年表
 地図1 歴史的チベット
 地図2 今日のチベットとインド・中国


 外国人に知られていないチベット医学や儀式体系について書かれた章は、それぞれが1冊の本にもなるような細かな内容で、研究者の必読書と呼ばれるのも納得がいきます。読み進むのも辛い虐殺と拷問の記録や、亡命者の子供の成長と亡命政府の活動、僧侶たちの修行内容の記録、と連ねられた事実に圧倒されました。
 しかし、事実をただ並べるだけに終わらなかったところがこの本の価値のひとつと思います。5人の人物の体験が互いに少しずつ接触し、最後に亡命政府の長であるダライ・ラマ14世に集約するようにまとめた構成は読み物としても優れていると思いますし、法王のインド訪問の行程を細かく記録した「巡礼」の章の文は、物語を読むように美しいです。

(以下、2005.12 再読時追記)
「THE SHADOW CIRCUS The CIA in Tibet」なる映画を見に行って、おや、もっとややこしい話じゃなかったっけ、と思い、一部のみ再読してみました。

 上は題名そのまんまで、CIAがチベットで何をしてたのかという内容の映画ですが、本を読み返せば確かに背景は映画より複雑でした。本一冊読んだ程度ですから、この出来事に対する意見は述べられませんが、立場によって事の見え方、表現の仕方は大きく変わるのだな、としみじみ思いました。
 本によれば、CIAの関与あって設立されたインドの特殊部隊の存在を亡命政府は公には認めていない、インドは認めている、と書かれています。映画を作ったのは亡命者社会で育った方で、インド、ネパール政府の視点には触れていません。また、映画ではアメリカの思惑、疑念といったものが主に取り上げられていますが、本ではそれよりも隣接国の切羽詰った事情が迫ってきます。いろんな立場からの意見・表現を知ることの重要さを感じました。

 ちょうどキューバ危機の頃の出来事、東側陣営に対してアメリカ政府ではどんな意見があったのだろうか。これまであまり気にして調べていませんでしたが、1947年に独立したばかりの若い国であったインドはどういう立場であろうとしたのか。そういえば上の映画はBBCでも放映されたそうですが、インドの宗主国であったイギリスはどんな風に見ていたんだろうか。そんなことが気になりました。
(2004.8.14)

「ダライ・ラマ 平和を語る」 人文書院
L・リンザ− 著

   ダライ・ラマ平和を語る


(2003.1.30)

「ダライ・ラマ自伝」 文春文庫
ダライ・ラマ14世 著 山際素男 訳

   ダライ・ラマ自伝 (文春文庫)


原題「Freedom in Exile」。ダライ・ラマ14世が生い立ち、亡命生活の苦悩、世界平和への願いを語る自伝。

 以下、目次です。

 第一章 白蓮を持つ人
 第二章 獅子の玉座
 第三章 侵略――嵐の到来
 第四章 南へ避難
 第五章 共産主義中国
 第六章 ネール氏の拒絶
 第七章 亡命を決意
 第八章 絶望の年
 第九章 十万の難民
 第十章 僧衣を着た狼
 第十一章 東から西へ
 第十二章 魔術と神秘について
 第十三章 チベットからの便り
 第十四章 平和への提言
 第十五章 普遍的責任と善意
 ダライ・ラマ略年譜


 一人称で語られた自伝。「チベット わが祖国」と取り上げられていることや視点はほぼ一緒です。違いをあげるなら、こちらの方がより法王個人の視線に近いこと、交流を持った人々について細かく書かれていること、1959年の亡命行の経過が詳しく語られていること(第七章)。そして、本の約半分(八章以降)が、インド政府の保護下での亡命者の生活基盤の確立、亡命政府の成立を語っていること、でしょうか。そして、こちらもとても読みやすいです。

 少年時代の思い出やインド亡命後の章でも、好奇心旺盛でユーモアをそなえた法王の姿は(失礼ながら)とてもチャーミングです。ただ、最終章では制圧下チベットでの凄惨な出来事にも触れているので、ここは覚悟して読まれた方がいいと思います。

 宗教的な事柄(転生、宣託など)を受け入れられるかどうか、読者によって個人差があると思いますが(私は苦手なので)、それでも法王の人柄とそれを育んだ仏教思想の深さが伝わってくるような本だと思います。
(2002/2008.3.26)

「チベット わが祖国」 中公文庫
ダライ・ラマ14世 著 木村肥佐生 訳 

   チベットわが祖国―ダライ・ラマ自叙伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)


原題「My Land and My People , Memoirs of the Dalai Lama of Tibet」。チベット仏教の指導者ダライ・ラマ14世による自叙伝。

 写真は改版版のもの。以下、目次です。


第一章 農夫の息子
第二章 悟りを求めて
第三章 心の平和
第四章 隣人・中国
第五章 侵略
第六章 共産中国との出会い
第七章 弾圧のもとで
第八章 インド巡礼の旅
第九章 決起
第十章 ラサの危機
第十一章 脱出
第十二章 亡命、海外流浪へ
第十三章 現在と将来
訳者あとがき
資料と解説


 ダライ・ラマ十四世の自伝であり、チベットの歴史、宗教、文化についても書かれています。

一〜二章は高僧の生まれ変わりとして見出され、首都ラサで仏教について学んだ少年時代の思い出。
三章は中国進駐以前のチベットの文化について。僧俗二重の社会制度、土地制度、軍隊、宗教観についての概要。
四章は紀元前から1950年までのチベット民族の歴史と隣国・中国との交流について。
五〜九章は1951年の中国進駐と統治下のチベットの状況。1954年の北京訪問と1956年のインド訪問の様子。
十〜十二章は1959年3月の「チベット動乱」の経緯とインドへの亡命。
十三章は亡命政府と中国政府との対話、国際社会への働きかけ、亡命者たちの現状と未来について。

 自叙伝なのでチベットの歴史、文化については概略程度しか書かれていません。一人称の語り口はところどころにユーモアが感じられて、読みやすいので、チベットの現代史の大枠を知るには良い本だと思います(当然、チベット人側の視点なので他の本と合わせ読まないといけないのですが)。
 チベット人の視点といっても、中国侵攻以前の自国の社会への批判的な意見も書かれていますし、中国の政治家に対する好意的な評価もあります。物事を客観的に、公正に捉えようという姿勢が伝わってくるようで、何度読んでも背中が伸びる気がします。

 3月に入ってから少しずつ読み返していたのですが、もたもたしているうちに世が慌しくなってしまいました。チベット本土の人たちが仕事を得る機会、働きに見合う正当な収入を得て、信じるものを信じていると大きな声で言える――そんな状況になって欲しいと思います。
(2002/2008.3.16)
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