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ノンフィクション・伝記 2

「聞き書き ダライ・ラマの言葉」 NHK出版
松本榮一 著

   聞き書き ダライ・ラマの言葉 (生活人新書)


写真家である著者が長年にわたって撮影した写真とインタビューによって構成されるダライ・ラマ14世との対話集。

第一章 すべては出会いに始まる
第二章 若き日のダライ・ラマ
第三章 聞き書き1 ダライ・ラマ「人間の幸せ」を語る
第四章 ダライ・ラマとダラムサラの日々
第五章 聞き書き2 ダライ・ラマ「人生」を語る
第六章 ダライ・ラマの日本訪問
第七章 大法要・カーラチャクラ
第八章 ダライ・ラマの旧都ラサ
第九章 世界を駆け巡るダライ・ラマ
第十章 聞き書き3 ダライ・ラマ「文明」を語る
終章  2006年3月 ダラムサラ

 ダライ・ラマ14世は宗教家でありチベット亡命政府の長である、ということで、説法や政治視点からの本がたくさん書かれていますが、その中では珍しい内容の本だと感じました。

 インタビュー部分で取り上げられているテーマは「幸福・慈悲について」「人生における価値観」「個人・国家のエゴ」など。仏教的視点からの言葉もありますが、話は現代教育、国際社会の共依存の関係など実際的なことが中心で、しかもシンプルでわかりやすいです。
 これを補足するような形で、著者の見たダライ・ラマの日常生活、1980年の日本訪問の様子、ドイツ人僧侶へのインタビュー、亡命政府と中国・インドとの関係についての簡潔な説明がさし挟まれています。
 著者とダライ・ラマとの交流は30年以上にもなるそうですが、インタビューにせよ写真にせよ、その信頼関係がなければできなかったような自然で説得力のあるものになっています。

 一番印象的だったのが、幸福についてのインタビューでの『仏教徒であるかどうかはさておき』という言葉でした。
 これには驚きました。だって、カトリックのローマ法王くらいの立場の方が「仏教はさておき」と言うわけですから。え、置いといていいんですか、と驚きもします。もちろん、おおむね仏教説法的な提言に戻るんですが(そうでなかったらもっと驚きますが)。
 これは、一神教的宗教観を頭において読むからこんなに驚くのだろうか。他の読者の方の感想もweb上で探して読んでみたいと思います。

 それにしても。政治家であっても宗教という視点に拘ったり、政策に利用することがあるのに――これだけの立場の宗教家が「宗教は別としても」という視点を忘れることなく、さらっと言えるということに、ちょっと感動しました。
(2007.5.4)

 

「素顔のダライ・ラマ」 春秋社
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ / ビクター・チャン 共著
牧内玲子 訳

   素顔のダライ・ラマ The Wisdom of Forgiveness


原題「The Wisdom of Forgiveness : intimate conversation and journeys」。中国系カナダ人である著者が、ダライ・ラマ14世との長年の交流の中で見たその人柄や日常、親しい人との会話、さらにチベット仏教の実践について語る。

第五章 最も利他的な人間
第六章 ゴムアヒルと数学
第八章 寝室のライフル
第十五章 サインされない何枚かの写真
第十六章 自分勝手な仏たち
第十九章 洗練された心、穏やかな心


 目次は、章数が多いのでいくつか印象的だったものだけ書いておきます。不思議な章題ですねえ。
 訳者あとがきにもあるように「法王のもっともプライベートな生活や素顔を紹介した本」。語り口も親しみやすく、「ダライ・ラマって誰?」という人にも薦めやすい一冊と思います。最終章ではダライ・ラマが著者に「インタビュー」するという面白い会話も書かれています。

 会話がふと途切れた瞬間や、話相手をからかうダライ・ラマの言葉もそのまま書かれており、その場の雰囲気が伝わってきます。そして、それを映す鏡であろうとしているような淡々とした文章からは、率直でユーモアがあり、慈愛と厳しさを併せ持つ一人の人の姿が浮かびあがってきます。

 一番印象的だったのは、1989年の天安門事件のニュースを見たダライ・ラマの言葉を思い出す、側近のロディ・ギャリ氏の証言でした。
 天安門事件がおきたのは、亡命政府が中国政府との対話までようやく漕ぎつけた頃のこと。ギャリ氏は法王に呼び出され、声明文を――中国政府に対する抗議と天安門広場の若者を支持するという文書を出すよように指示されます。そんなことをすれば、40年間の苦労の成果が台無しになる。「交渉が頓挫する」と抗議するギャリ氏に対して、

「確かにその通りだ。でも、今ここで意見を言わなかったら、これから私が自由や民主主義について話す道徳的権限がなくなってしまう。あの若者たちは今それを一番希望しているのだ。」


 こうして亡命チベット人の希望より中国人学生の願いを優先して声明は出され、ギャリ氏の予想どおり対話は中断されて――現在に至っているということです(ギャリ氏は今年5月と7月の会談の際に特使のひとりとなっているので、20年以上交渉に携わってるということに)。
 こういうエピソードを読むと、ダライ・ラマ14世はやはり強靭な意志をそなえた信念の人なのだ、とあらためて思います。そして、序章でデスモンド・ツツ大主教が語った言葉には深くうなづきました。

「私たちはダライ・ラマを心から尊敬します。それは法王が本当に、本当に善い人だからです。……(略)……法王のような方が生きていらっしゃる時代に共に生きていることを嬉しく思います」

 私は仏教にまったく馴染みがありませんし、信じ難いことも多いです。でも、同じ時代に生きている人に「人間という生き物はここまで良く生きられる可能性を持っている」と示されるのは、幸運なことなのだろうと思います。
(2008.8.4)

 

「チベット白書
- チベットにおける中国の人権侵害 -
日中出版
英国議会人権擁護グループ 報告
チベット問題を考える会 訳

   チベット白書―チベットにおける中国の人権侵害 (チベット選書)


原題「Human Rights Violations in Tibet」。1950年の中国によるチベット侵攻と、その後の弾圧についての報告。邦訳出版時の「日本のチベット報道」、改訂版出版時の「その後のチベットと日本の対応」を収録。

1 チベット人の居住区
2 チベットの人口
3 宗教と社会 ―1950年以前―
4 チベットの地位 ―歴史的背景―
5 中国共産党支配下のチベット―1950〜79年―
6 見せかけの「開放政策」―1979〜83年―
7 「開放政策」以後のチベット―1983〜87年―
8 犯罪と政治犯
9 地下組織
10 児童労働
11 人口計画の強制
12 移動の制限
13 漢人の移住と中国化
14 チベットの自治―理論と現実―
15 弾圧下のラサ―1987年10月―
16 展望
17 結論

 文化大革命前後のチベットの状況についての、なるだけ客観的な複数の証言を知りたくて手にとりました。
 日本では1989年に初版、2000年に改訂版として出されています。原書の出版年が書かれていないのですが、参考文献の中に1987年の報告(アムネスティ他)があるので、おそらく1988年に出されたものだと思います。
 二十年前の出来事ですし、それぞれの証言をどんな文脈でとらえるかによって見えてくるものは違うと思うので、内容の説明は省きます。が、政治犯の処遇や裁判、強制中絶などについての証言はあまりに痛ましいです。

 巻末の、日本の報道機関のチベット問題の取り上げ方についての二文はなるほどと思わされる点も多かったです。
 とくにチベットにおける虐殺がいつから行われたか、について。
 それが文革前にはじまっていたことをはっきりさせることで、第二次世界大戦後のアジア史のとらえ方が大きくかわる、という意見には目をひかれました。
 ただし、国家が掲げる主義や思想を無くすべきものとして語る姿勢は、私には疑問に思えましたが。

 あと、この本は証言をまとめた報告書なので、私の読み方が間違ってるのかもしれませんが。
 この本で、私は当時のチベットの状況(農業計画とか教育の内容など)と他地域(中国内外)との比較がなされているのだろうと思ってたのです。……が、比較がまったく無いんですね。原著には他にも資料があったのだろうか??
 食料事情などは欧米からみればぞっとする状況だったとしても、当時のアジア全般の生活水準から見たら、それほど非常識ではなかったかもしれない。
 少なくとも中国の他地域と比べなければいけないんじゃないだろうか。それは読み手への宿題、ということですか。

 こういう本をただ「ひどい、可哀想」と感情だけで読んでいてはいけない、と思いました。自戒とともに。
(2008.7.28)

 

「雪の下の炎」 ブッキング社
パルデン・ギャツォ 著  檜垣嗣子 訳

   雪の下の炎


原題「Fire Under the Snow」。チベット仏教僧である著者は、1959年のラサ蜂起に関与したとして投獄され、その後1992年に釈放されるまで31年にわたり政治犯として獄中生活を送った。監獄内での度重なる拷問と闘争集会、飢餓という絶望的な状況にもかかわらず、著者を支え続けた希望――消えることのなかった炎とは何か。

プロローグ
第一章 虹の下で
第二章 俗世との絆を断って
第三章 蜂起
第四章 逮捕
第五章 脱走
第六章 青空の下に逃げ場なし
第七章 織物名人
第八章 文化大革命
第九章 労働による改造
第十章 「舵取り」の死
第十一章 廃墟の中で
第十二章 新世代の分離主義者たち
第十三章 敵と対峙して


 (3/12:↓ に映画情報、復刊情報を追記しました)

 著者の覚書と取材テープをもとに書かれた自伝であり、中国によるチベット侵攻後の監獄の実態を証言するドキュメンタリーでもあります。著者は亡命時に監獄内で使われた拷問用具を持ち出しており、その後国連人権委員会で証言を行うなど精力的な活動を続けられています。

 読み終わって一番印象に残ったのは、清明さ、でした。
 監獄内での拷問の描写は、淡々とした文章であるためにかえって痛ましい。そんな体験にも関わらず、著者は何故これほど静かな視線で周囲を観察し、語ることができたのだろうか、と読み終えて呆然としてしまいました。
 それは、ダライ・ラマ法王の存在、亡命チベット人たちの活動が実を結ぶと信じたこと。そして何より「間違ったことが間違ったままにされるはずがない」という信念だったのではないか、と思いました。
 共同執筆者による前書きにあるように、

 パルデンがチベットの独立性を信じているのは、彼の経験上それが当然だからなのだ。ふたつの国は伝統、文化、言語、歴史において別のものである。彼にとって、それは牛乳と水が違うのと同じくらい明らかなのだ。

 ふたつの文化は異なっており、チベットが中国の一部でなかったことは明白である。事実が事実と認められないはずがない――そんな心情だったのではないでしょうか。

 また、第四章に書かれた、1959年のガドン僧院での学習集会のエピソードは印象的でした。そこでの官吏と僧侶との会話の何ともかみ合わないこと。
 ある中国人官吏が羊毛でできた僧衣を僧侶に示して、

「これは何からできているのか」
「羊毛です」
 官吏はあまりにも単純な答にめんくらった。通訳は質問を繰り返した。
「これは何からできているのか」
「羊です」僧は泣き出していた。
だが、彼の答は間違っていた。僧衣の出所は被搾取農奴の労働と答えるべきだったのである。


「諸君を育てたのは誰か」と訊かれたこともある。もちろん「母です」と答えたが、これも間違いだった。プロレタリアートの労働と答えるべきなのだ。

 あまりにばかげたエピソードに見えて、これがエスカレートしたあげくに人間が殴られたり殺されたりしたのかと思うと、読みながら腹が立って仕方ありませんでした。のちに監獄で囚人たちが受けた拷問の場面は読み進めるのも辛く、実際、看守でさえ直視できないこともあった、と書かれています。
 二年間ずっと足枷をつけたり、熱湯をかけるなどの拷問、また靴の革を煮て食べたというすさまじい飢餓を経ても、なお周囲を冷静に観察し続けた著者の精神力は本当に大変なものだと思います。

 そして、もうひとつ。これは私が漠然と感じたことにすぎませんが。
 1950年のチベット侵攻から文化大革命、その後……と上層部の方針が変化した時に、それが組織の末端である役人の行動をこれほど直裁に左右していた、ということには驚きました(自白のために拷問したり、翻って規制をゆるめたり、抗議活動を容認するなど)。

 命令系統はよく機能していた、といえるのでしょう。その一方で、失策をとめる堰のようなものがない社会だったのではないか。また、「囚人―看守」という関係は、監獄の外においても「役人と上役とその上役……」というように、繰り返されていたのかもしれないと思いました。
 譬えていうなら、上層部から庶民までの思想のバケツリレー。
 あるいは、ドミノ倒し。右から倒せば、表を上にしてどこまでも倒れていき、一度立て直して左から倒せば、今度は裏を上にして……。そんな連想をしてしまいました。

 この本が出版されてから十年。
 この間に亡くなった人も数多く、2008年現在も拘束されている人々がいる――そう思うと複雑な気持ちになりましたが、少しほっとすることも。
 書中に書かれた政治犯の一人タナク・ジグメ・サンポ。彼は1964年、38歳の時に投獄され、この本の出版時点で「2011年に釈放の予定」となっていましたが、2002年に76歳で治療のために釈放されたそうです。



 この本は1997年に出版、1998年に邦訳。その後は絶版となっていましたが、2008年12月復刊されました。
 復刊支援サイト( http://www.palden.info/ )では、口コミから復刊支援、復刊出版にいたる経緯も紹介されています。絶版本の復刊活動の際のご参考にどうぞ。

 また、映画「Fire Under the Snow」は2009年4月〜日本公開。
(日本語公式サイト→ http://www.uplink.co.jp/fireunderthesnow/
(2008.9.5)

 

「中国を追われたウイグル人
 - 亡命者が語る政治弾圧 -」
文春新書
水谷尚子 著

   中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書)


1990年代以降に中国から亡命、あるいは現在も獄中にあるウイグル人たちの証言。亡命ウイグル人への取材の中から武力によらない抵抗をおこなった人々の証言を集めたものであり、中国国内で行われている政治弾圧の一面を描く。

第一章 ラビア・カーディル ―大富豪から投獄、亡命を経て東トルキスタン独立運動の女性リーダーへ―
第二章 ドルクン・エイサ ―「世界ウイグル会議」秘書長―
第三章 イリ事件を語る ―アブドゥサラム・ハビブッラ、アブリミット・トゥルスン―
第四章 シルクロードに撒布された「死の灰」 ―核実験の後遺症を告発した医師アニワル・トフティ―
第五章 グアンタナモ基地に囚われたウイグル人たち
第六章 政治犯として獄中にある東大院生 ―トフティ・テュニヤズ―

 東トルキスタンは1949年以来新疆ウイグル自治区となっていますが、1991年のソ連邦解体後の中央アジア五カ国の独立をうけて、今も独立を求める声が高い地域。
 私は東トルキスタン関連の本を読むのは初めて。チベット問題を少し離れた視点から見たくて手に取りました。ですので、今回は紹介というより感じたところを書いています。参考にならなくてすみません。

 覚悟はしていましたが、逮捕、尋問、拷問についての証言には「これが、この十年ほどの間に行われたことか」と愕然となりました。
 印象的だったのは――。
 ウイグル人であっても漢人への対立意識の少なかった人がいる。それなのに、彼らが社会への不満、弾圧されることへの反発から、国の体制を敵視するようになったこと。また、(子供のうちには意識しなかったのに)成長するにつれて、少数民族に対する無知・無理解や差別意識に傷つけられたという言葉もありました。
 新疆ウイグル自治区では、1950年代に鉄道が敷かれ、チベットよりも早い時期から大規模な移住が行われた、と聞きます。
 漢化された社会に生まれ、育った子供の抵抗はどこから生じたものなのか。誰が種をまき、何を与えて、咲いた「花」なのか?

 第五章では、他の章の証言者とは少し異なる亡命経緯をたどったウイグル人5人の話が書かれています。
 彼らは経済難民あるいは政治亡命者で、共通項は「アフガニスタンにあるウイグル人の村を頼って行った」こと。これが2001年のことで、9.11のことを知らずにアフガニスタン入りして、そこへ侵攻した米軍に捕らえられてキューバのグアンタナモ基地へ移送。その後、アルバニアへ亡命しています。
 ここに書かれたグアンタナモ基地での扱いも相当ひどいけれど、彼らは「肉が食べられたから、中国の監獄よりはまし」と語ったようで。皮肉にせよ、悪名高いグアンタナモ基地が「ましな場所だった」と語られることはめったにないな、と苦笑してしまいました。

 イスラム世界には、豊かな者が貧しい者に施しをする習慣があり、「きっと誰かが助けてくれるに違いないと思った」そうです。
 しかし、同じ宗教であっても政治を理由に彼らを受け入れない国がある。また、政治・外交戦略のため、あるいは世論におされて亡命を受け入れる国もある。
 個人がまったくスケールの違う事情と向き合って、利が一致すれば生、しなければ苦しみと死を与えられるとは。

 とても厳しい話ばかり。その中で、第三章で書かれたウイグル人タレントが1999年にドイツへ亡命した時の言葉が、とてもシンプルで、かえって胸に残りました。

「嗚呼、たすかった! 私は明日も生きていける。命を危険に晒す心配はもうない。やっと自由の国に来れたのだ」。空港を出たところにある緑地の芝生に身を投げ出して、万感の思いで空を見上げた。
(2008.9.20)

 

「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」 文藝春秋
鈴木 明 著

  リリー・マルレーンを聴いたことがありますか


第二次大戦下の1941年秋、ラジオで流された曲「リリー・マルレーン」が前線の兵士たちのあいだで人気となった。歌はドイツ軍だけではなく、戦線を越えてイギリス、フランス、イタリアの兵士の間にも広まっていった。著者は1970年、マレーネ・ディートリッヒが歌うこの曲を耳にして、その背景を知るためにヨーロッパを旅する。

 良い意味で、もどかしい本でした。曲名の他は歌詞も歌手の名もはっきりとはわからない――そんな状況から始まった旅。その思い出も交えながらの文章は寄り道も多い。なかなか求める情報に出会えないもどかしさと、熱いこだわりがじんわりと伝わってきました。

 日本ではディートリッヒの歌う「リリー・マルレーン」が知られているそうですが、もともとは無名の女性歌手ララ・アンデルセンによって1939年にレコードに吹き込まれたもの。このレコードがドイツ軍向けのラジオで流されて、「リリー・マルレーン」はあっというまに兵士たちの間に広まった、と書かれています。
「リリー・マルレーン様」「ララ・アンデルセン様」と宛名された兵士からのファンレターの山が、ララを人気歌手の座に押し上げます。しかし、そのあまりの人気を危惧したナチスによって曲は放送禁止となり、原盤は廃棄され、ララ自身も監視下におかれるようになった――。こうして、ララ自身はこの曲から離れていってしまいます。
 しかし、ラジオ放送を耳にしていた連合国軍兵士の間でも、このメロディは親しまれていました。
 アフリカの戦線にいたイギリス兵がこの曲を覚えて帰国し、別の歌詞で歌われるようになります。他にもフランス語で、イタリア語で歌われて広まっていく。やがて、前線を慰問していたマレーネ・ディートリッヒが自作の歌詞で歌うようになったそうです。

 ひとつの歌が敵味方を問わずに兵士の間で歌われる、ということが、私には何とも不思議に思えました。同じ時代の日本では、こんなことあったのでしょうか。慰問活動ではどんな歌が歌われたんだろう? 知らないことが多すぎて、どうにも感想が書けないのですが。
 本の中で紹介されている二人のもと兵士の言葉がとても印象に残りました。

 フランス人兵士。ドイツ占領下のパリで抵抗運動を続けていた彼は、自分はフランス人だからドイツの歌は歌う気になれなかった、と前置きしながら、こう語っています。

「……しかし、戦争というものを、あれほど的確に表現した歌は、やはり第二次ヨーロッパ戦中になかったと思っている」
「あの歌の特長は、上から作られたものではなく、兵士たちの間で自然に歌われ、それがまた自然の形でフランスにまで拡がっていったということに大きな意義があると思う。……兵士は独特の感覚で、軍歌ではない自分の歌を発見するのだ」


 また、1941年12月ソ連領内へ進軍していたドイツ軍兵士の言葉も紹介されています。
 進むことも戻ることもできない状況下、敵軍兵士とは100mと離れていない地下の穴で過ごした数週間。その間、ラジオからかすかに流れる「リリー・マルレーン」を毎晩心待ちに聴いたと語られています。

「大地の底から、ラテルネ(街燈)が見えるのです。そこにリリー・マルレーンがいるのです。わかりますか。一歩外はすべて死の世界です。リリー・マルレーンを、毎晩、毎晩、どんなに待っていたことでしょう。口では表現できません。ただ、戦いの終わりを、平和を祈っていました……」

 巻頭には、リリー・マルレーンの楽譜が載せられています。たった12小節の短い曲。ゆっくり音符をたどってメロディをかたちにしていくと、歌詞や歌い方によって可愛らしくもせつなくも、楽しげにもなりそうな不思議な印象がありました。
(2007.8.25)

「軍事学入門」 ちくま文庫
別宮暖朗 著

   軍事学入門 (ちくま文庫)


戦争は何故、どのように起きて、何を残すのか。戦争をなくすためにはどうしたらよいか。19世紀以降の戦争を例にあげて、軍事と外交について論じる。

「自分では絶対にしない思考に触れたい」と衝動買いしてみました(たまにこういう時があるのです)。この点では満足です。さっぱりわかりませんでした(?)。
「入門」と題されるだけあって、目次を見ると、なるほど尋ねてみたいと思う項目がたくさんあります。
 たとえば「戦争はどのようにはじまるか」「戦争の大義とは何か」「国境線をなくすと戦争はなくなるか」「軍人は好戦的か」「戦争経済を考える」。
 また、現実に直結した項目もあります。「北朝鮮は暴発するか」「中国による台湾侵攻は可能か」など。
 本文は話し言葉調で書かれているので、「とっつきやすそう。これなら苦手な分野でもいけるかも」と読み始めましたが……。これがまた、さっぱりわからなかったです。

 これは口述筆記なのか、と思うくらい、ねじれた文章が多くてわかりづらい。「〜が〜、だから当然〜となる」という文形も多いですが、「当然」がなぜ「当然」なのか、わからない。この手の本を読みなれないためでしょうか(しかし、入門書なのに)。また、時制を無視した語尾には混乱させられました。今の日本には海軍があるらしい、と何度思ったか。

 面白い(というと語弊がありますが)話もありました。
 第一次大戦の開戦原因。ナポレオン戦争以後の為政者の戦争観の変化。植民地が独立できた理由。また、「動員」「無条件降伏」などの言葉の意味が説明されているのですが、漠然と思い込んでいた意味とは違うことを知って勉強になりました。

 しかし、それにしても文章がちょっと妙で(私にはそう思われます)、気になって仕方ありませんでした。
 歴史事実を冷静に分析しているのかと思うと、気がつくと感情的な語り口でもって結論に落とし込まれるようで、気持ち悪かったです。
 ただ「世界には、こんなことを考えている人がたくさんいるのだ」とかなり驚きました。たったひとつ、私がうなづいたのはこの文だけです。前後の文章はうなづけなかったんですけど。

「平和とは単に『祈る』『願う』では達成されません」

 きれいごとでない話をするためには、この本に書かれているようなことをもっと知っておいた方がいいのかもしれない。政治家やら軍人やら、いろんな考え方をする人たちがいるのだから。そうは言いつつ、個人的には「同じ土俵に立たない方がいいのでは?」という気もします。

 とりあえず、今はもうお腹いっぱいです。この手の本はしばらく読みたくありません。多分。
(2007.8.25)

「平和の地政学」 芙蓉書房出版
N・スパイクマン 著  奥山真司 訳

   平和の地政学―アメリカ世界戦略の原点


原題「The Geography of the Peace」。1943年の著者の死後、残されたノート、スライドなどを元に書かれたもの。「リムランド」理論など、第二次世界大戦から現在までのアメリカの国家戦略に影響を与える著者の考えをまとめた地政学の概説書。

地図
T 戦時と平時における地理
U 世界の地図化
V 西半球のポジション
W ユーラシア大陸の政治地図
X 安全保障の戦略
解説 米国の世界戦略とスパイクマンの理論


 第一章は軍事力、生産力などを統合的に見た国家の「パワー」や、地理に注目して国際情勢を分析することについて。
 第二章ではさまざまな形式の地図をとりあげて、その長所と短所を説明。地政学的分析のために適切な地図はどれか。
 第三章では国の地理上の位置だけではなく降雨量や農業生産地などにも注目しながら、国家のロケーションが安全に深く関わることを語る。
 第四章では、地政学では世界は「ハートランド」「リムランド」「沖合いの陸地」に分けられること。その中のリムランドが世界情勢を分析するポイントとなること。
 第五章では、戦時の戦略だけではなく平時のパワーの使い方にも注目して、第三次世界大戦をいかに防ぐかを論じる。


 うちには当てはまるカテゴリーがないので、ひとまず似たような本と一緒にしておきます。
 宴席で「北極の上を飛行機が通れる」(だったか)話を聞いて、多分この辺りだろうと目星をつけて読みました。難しくてよくわからなかったけれど、資源の生産量、穀物生産地帯、降雨量の分布、人口密度などすべてひっくるめて国のパワーと捉えて地図を見ているところ(三章)は、とても現実的な話で興味深かったです。

 我ながら意外でしたけど、決して嫌いな話ではなかったです。
 ただ、「味付け」がないので食べられません。譬えてみますと、歯ざわりとか食感は好みの食材。ただ、生で出されると困るかんじ。もう少しドラマチックな塩がふってあったら、喜んでぱくぱく食べそうです。……自分の読書傾向の根っこを見つけた気がしました。
 以下は、印象に残った文章の抜書き。

 平時の安全をめざす「政治戦略」と、戦時に勝利をめざす「軍事戦略」の間には具体的な関連性があるのだ。

 大航海時代のヨーロッパは世界中に支配を拡大しており、このようなヨーロッパ中心の地図というのも正確であったということがいえる。なぜなら、政治支配を世界に広げたのはヨーロッパであり、世界中の国家のパワーポジションを主に決定していたのもヨーロッパ内の勢力の安定度だったからだ。

 「方位図法」を使った世界地図をくわしく分析してみるとわかるのは、自国を図の中央においた投射図を使ってあらわしてみると、世界のどの国も「世界中に包囲されている」という風に見ることはできるということだ。

 陸地の分布状況や地形の特徴。……(中略)……これらは、国家の平和と安全が危機に陥ったときに国家の間や大陸の間の関係を条件づける「根本的で変化しない要因」なのだ。

 モンスーン地帯は(ヒマラヤ)山脈などのおかげでひとつのまとまりになっているわけではない。ビルマとインドシナ半島の間の山脈は海まで伸びており、この偉大な二つの国家間が交流する際の大きな障壁となっている。仏教が新疆とタイを通るルートによってインドから中国に伝わったことを考えてみても、この地域で直接的な交流を維持するのがいかに困難なのかがよくわかる。。……(中略)……したがって、インドとインド洋沿岸は、中国とは別の地政学的カテゴリーに区別されるべきである。

 リムランドを支配するものがユーラシアを制し、ユーラシアを支配するものが世界の運命を制する

 このような人々は、将来ユーラシア大陸の心臓部への最短ルートになるという理由から、北極海は最も重要な交通区域になると主張している。

(以下、解説より)
 スパイクマンは地政学分析を使うことによって、各国がそれぞれ「戦争という手段に訴えかける行為を必要としない世界を築くことができる」としている。……(中略)……結局のところは「バランス・オブ・パワー」の維持こそが平和の維持につながるという考え方を強調している。

 我々日本人は、世界は七つの海と三つの大陸で成り立っていると教わる。ところが、「地政学的に」世界の状況を考えるアメリカ(とイギリス)の戦略家たちは、このようなイメージを持っていない。彼らは世界を「たったひとつの大きな陸地と、それを取り囲んでいる海から成り立っている」と考えているからだ。
(2008.9.25)

 

「発掘捏造」 新潮文庫
毎日新聞旧石器遺跡取材班 著

   発掘捏造 (新潮文庫)


2000年秋に毎日新聞によって報じられた宮城県上高森遺跡での発掘捏造はなぜ起きたのか。極秘取材の経過を記録するとともに、背景となった学界の体質や報道のあり方を問う。

プロローグ
第一章 スクープの背景
第二章 取材活動の開始と推移
第三章 決定的瞬間をとらえる
第四章 報道の影響と課題
座談会
シンポジウム「前期旧石器問題を考える」

 上高森遺跡の捏造発覚と最初の報道までの経緯をしるしたものです。記者たちが勉強しながら取材を行なったとのことで、考古学に縁がない読者でも問題点をつかみやすく書かれています。
 取材経過を中心に構成されているので、良くいえば読みやすい、悪くいえば週刊誌ぽい印象でした。新聞社は最初の報道に際して慎重な態度を崩さなかった(疑惑ではなく捏造といえる時点の判断、また研究者のプライバシーはどこまで守られるか)ようなので、もっと淡々とした文章の方がよかったのでは、と感じました。

 私も考古学などまったく縁がないので、前期旧石器時代とはどのくらい昔なのか、前後の時代区分、出土品をどのように測定・分類するのか、などから説明されているのはありがたかったです。
 そして、年代測定の技術的な難しさ、在野研究者に依るところが大きい分野なのにその功績がなかなか認められない、学界の閉鎖的な体質、発掘の上での金銭的な必要など、複数の問題がからみあって事件の背景となっていることも語られています。
 ことに、年代の古さや「発見」の劇的さなど、わかりやすさに飛びつくマスコミの体質についてふれた第四章は興味深かったです。

 そして、事件そのものとは関係ないのですが。いくつも紹介された同業の学者さんのコメントが印象的でした。
 どの分野でもそうなのでしょうが、研究というのは気の遠くなるような地道さや慎重さが必要な、(部外者から見れば雲をつかむような)手探りで行なわれる作業なんですね。
 出土品の形状や様式の中につくり手の意識を感じ取る繊細さ、それを既存の出土品と結びつけられるかどうか判断する知識と論理性、また、あるはずのないものがある、あるべきものがない――こういう不自然さを見逃さない感覚が必要なのかもしれない、と考えました。
 以前に読んだ「文化としての石器づくり」の中に、出土品と間違われないように「後片付け」をきちんとすることと書かれてありまして、面白いなあ、と思っていたのですが。冗談じゃないらしい。

 なので、「柱穴から離れたところにも埋納遺構が欲しかった」だから埋めた、というこの事件の研究者の言葉には呆れてしまいましたが、それを叱った仲間の研究者の言葉に目をひきつけられました。

「ないことが重要なんだ。何もない空間が大事なんだ」

 何かあること、あるいは無いことが意味するものを知る研究者が、何故こんな行為に至ったのか。上のような事件背景を読みながら考え込んでしまいました。

 あと、すごいなあ、と思ったのがこの言葉。

「(学問の世界に身をおくものとして)突飛に思える発見があっても、柔軟に受け入れるよう肝に銘じている。だが、それでも約束事はある。論理の範囲を超えてはいけない」 (江原昭善博士)

 思考を柔軟に、という言葉はよく聞きますが、後半部分に唸らされました。基準になる枠組みを自身の中にしっかり構築しないと柔軟さも持てない、ということでしょうか。
(2008.1.18)

 

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