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ノンフィクション・伝記 5

「まっくらな中での対話」 講談社文庫
茂木健一郎 with ダイアログ・イン・ザ・ダーク 著

   まっくらな中での対話 (講談社文庫)


 ドイツ生まれのソーシャル・エンターテインメント「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。真っ暗闇の空間へ、案内役の視覚障害者に導かれ、おずおずと入っていく参加者は、視覚が遮断されることによって、それ以外の感覚が解放される心地よさに気づく。暗闇で癒される脳と心。その謎に、茂木健一郎が迫る。

第一部 <暗闇での対話> 対談
  第1章 火の音を聴き、木の香りを嗅ぎ、土の柔らかさに触れる
  第2章 人は変われるよ。その証拠に体験してごらん

第二部 <異なる文化を歩く> 座談会
  第3章 「見る文化」と「触る文化」
  第4章 感動と発見の毎日
  第5章 暗闇で癒される脳と心
  第6章 想像力こそがコミュニケーションの源


 正真正銘の真っ暗闇の中で行われるワークショップ「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を体験してみた脳科学者・茂木健一郎と主催者、スタッフとの対談集です。暗闇体験はないけれど、読むだけでも面白い本でした!

 数人のグループで、視覚障害者のアテンドに付いて真っ暗な会場に入っていく。
 暗闇の中では人はどうやって周囲を知覚するのか。闇は体験者にどんな影響があるのか――もっとも、会場の中で行われることなどはネタばれになってしまうから(?)書かれていないのですが。ときに、持ち寄り式で皆でお弁当を食べる試みもあるそうです。

 後半の座談会では、アテンド役の視覚障害者が彼らの「暗闇の日常」を語ってくれて、これはほんとうに面白い。わくわくしました。

 目が見えないけれど、大好きな阪神が勝つと新聞を買いに行く。「阪神が勝って、その新聞を買いに行くんだよ。嬉しいじゃない。新聞をこう手に取るでしょう。これ楽しいでしょう」

 富士山と聞いて、目の見えるある人は「風呂屋の壁に描かれた絵」を思い出したけど、目の見えない僕が浮かべるのは「円錐形」。

 ぶつかるのは「危ないこと」ではなくて「痛いこと」。ぶつかればいいんです。それは、失敗じゃない。

 お化粧は自分でやります。「これは粒子が細かいから、たっぷりつけても大丈夫かな」と感覚として覚えていくんです。

 回転寿司は適当に取って、取ったものは全部食べます。

 自動販売機にもそれなりに法則がある。冷たいものを飲みたければ、ショーケースの幅をはかって、大きいペットボトルを買う。大きいので温かい飲み物はまず無いから。でも、時々違うのを買ってしまいます。でも、そこは潔く(笑)



 なるほど、目が見える、見えないというのは、周囲のものの受け止め方、働き掛けの方法が違うこと。ただ、それだけなんだなあ、と読み進めるうちに思うようになりました。

 視覚障害について語る時に必要なのは倫理的な理屈ではなく、科学的な思考法だと思うんです。
「可能性、個性を尊重しましょう」というのは、倫理的、道徳的な発想です。でも、実際に科学的事実として、視覚のない人は、ある人が見るために使う脳の領域を他のことに使えるわけだから、他の才能が開花する可能性は高いんですよ。

 例えるなら、決められた土地で何の作物を作るか、というようなもの。目の見える人は米を作ってるけど、視覚障害者の人は他の野菜を栽培しているようなもの。



 面白い、と思ったのは、脳の中では<話す/聞く>は同じ部分で行い、<話す/見る>は違う部分でする。だから、紙のメモではなくて音声メモを聞きながら話すのは難しいのだそうです。へ〜! でした(笑)
 ふと思ったのだけど、同じ「見る」でも対象によって違う場合はあるのでしょうかね。私は仕事中に「あそこに電話して、納期確認して、発注書を書く……」など言葉で考えながら色出しすることはできるのですが、絵を描く時にはこれがうまくできないんですよね。だから仕事終わらないんだ(笑)

 そして、この「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」はエンターテイメントとして行われていますが、その「面白さ」は単に物珍しい体験、というだけではないようです。
 こういう言い方は私はあまり好きではないのですが。
 暗闇には「癒し」の効果があるらしいという言葉も印象的でした。体験者の多くが、自分自身を形作ると同時に、縛りつけてもいる社会的立場や思い込みを忘れてリラックスできる、と語るそうです。

 確かにこの本を読んでいると、普段の自分が持っている「感覚」の狭さを思わされました。
 普段、脳の使い方があまりに「見る」「見られる」ことに偏り過ぎていること。そして、触覚や匂い、音といった幅広い情報が気づかないままにされているのだな、と思います。

  癒しとは、脳の全体性を回復すること。

 とは、ちょっとゆっくり考えてみたい言葉だと思います。
(2012.2.5)


「空白の5マイル 
 ― チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
集英社文庫
角幡唯介 著

  空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)


 チベットの奥地、ツアンポー川流域に「空白の五マイル」と呼ばれる秘境があった。そこに眠るのは、これまで数々の冒険家たちのチャレンジを跳ね返し続けてきた伝説の谷、ツアンポー峡谷。命の危険も顧みずに挑んだ単独行の果てに著者が目にした光景とは――。


 著者が同じチベット語教室の方だったので(クラスは違う)出版時から知っていたのですが、ずっと読み損ねてました。ヒマラヤを源にチベット、インド、バングラデシュへ流れるツアンポー川。そのツアンポー峡谷に残されていた未踏破地域「空白の5マイル」をめぐる探検記です。

 いや、面白かった! グーグルアースがある時代に探検なんて成り立つのか、なんて考えてしまうのですが、そんなインドア人間に目もくれず、著者は行ってしまったのでした。
 19世紀後半以降、イギリス(英領インド)は当時鎖国中だったチベットの測量調査にひそかに乗り出していました。そして、ツアンポー川はどこへ流れているのか、ツアンポー峡谷周辺の様子、幻の大滝は実在するのか、という謎を解くために多くの探検家がこの地を訪れます。彼らに続くつもり満々の著者は果たしてその後継者となれたのか?

 未知の地域への探検は、用意した装備が現地向きでなかったり、地図ではわからなかった足場の悪さなどから困難を極めます。この本の肝にあたるので、ここでは書きませんが、いやとんでもないわ、探検家って。その体力、胆力、精神力に呆然となりました。
 もうひとつ印象的だったのは、その風景のスケールについて。
 日本の山岳地帯とは山や川の大きさが桁違いに違う、という描写が幾度も出てきます。その場に行かなければわからない、いや、その中に身を投じてみなければ到底わからない、という。著者本人の話から離れた3章の日本人カヌーイストの悲劇もそこから生まれたものでした。

 このインターネット全盛の時代に、探検家が行くべきところなど残されていないというのは、ある意味本当だと思う。
 地図の空白地帯をうめる行為はもう意味がなくて、あとは著者のように限界に挑み、命の危険ぎりぎりの状態からの生還、という行為しかないのかもしれない。
 でも一方で、国策や名誉とともに未踏の山を登っていた19世紀よりも、探検が単なる探検でいられる時代になったのかも、という気もしました。

 おまけですが、著者は2012年冬にGPSを使わず天測で、つまり六分儀と手計算で北極探検されてます。調査行だったようなので、装備を検討して再度挑戦されるのかもしれない。その話を早く読みたいような、でも危ないからやめて欲しいような、なんとも言えない気分です。
 ちなみに著者のブログ、面白いです。
       ↓
 ホトケの顔も三度まで

(2013.10.13)


「チベット語になった「坊ちゃん」
-中国・青海省 草原に播かれた日本語の種-
山と渓谷社
中村吉広 著

   チベット語になった『坊っちゃん』―中国・青海省 草原に播かれた日本語の種


 中国・青海省のチャプチャという小さな町にある民族師範学校で、ひょんなことからチベットの学生に日本語を教えることになった日本人教師の孤軍奮闘の物語。チベット語と日本語の文法の近似性に着目し、漱石の『坊っちゃん』の翻訳を授業で取り上げ、時に笑い、時に怒りながら育んだ、チベット人学生たちとの心の交流を描く。

序章 拝啓、さだまさし様
第1章 チベットとの出会い
第2章 チベット留学
第3章 チベット語の可能性
第4章 チベットの坊ちゃん先生 
第5章 息を吹き返したチベット語 
第6章 別れの時
膠着語の回廊 ―おわりに― 


 面白かった! 時々、時間経過が前後して読み難いところもありますが、それにしても面白い。爆走読書でした。
 チベット語を学ぶために留学した著者ですが、経営難の学校が日本語クラスを設けることになり、紆余曲折の末にその教職を引き受けることになります。

 チベット語と日本語は文法上の類似点が多く、それに着目した著者は日本語の本をチベット語に翻訳する授業を計画します。
 五十音の表音のしくみがチベット文字と同じであることから、学生たちはあっというまに文字を習得。語順もひとつの例外をのぞいて日本語と同じなので、みるみる上達していきます。言語学上の分類はよくわからないのですが、チベット語も日本語も「てにをは」で言葉をつなぐ膠着語で、英語や中国語とはまったく異なる系統の言葉なのだそうです。そうしてみると、中国語の教科書で日本語を学ばねばならないチベット人は要らぬ苦労を強いられていたことがよくわかります。

 さて、学校に寄贈されていた日本語の本の中から翻訳のために選ばれたのは、夏目漱石の「坊っちゃん」。日本人にはおなじみの物語はチベット人にもたいそう受けたらしい。そして、その授業風景も面白い。


 最初は大きな文字でかかれた三行程度の文章を四苦八苦しながら七人がかりで翻訳するのだが……(略)……黒板にチベット文字を並べた後から、別の意見も飛び出して議論が巻き起こり、興奮した生徒が右手にチョーク、左手に黒板消しの姿で黒板上で大暴れすると、負けじと別の生徒が立ち上がり、前の生徒が書いた新説を訂正し始める。

 教師「(茶代とは)宿泊料金以外に支払うお金のことだ」
 学生「部屋まで運んでもらった料理の代金ですか?」
   「食事の後で、特別なお茶が出たんですか?」
   「言葉はお茶の値段だけれど、宿のお茶は無料だし、この宿に特別なお茶は出ない」
   「お茶の代金なのに、お茶は無料なんですか? 全然わかりません」
   「労働に対する感謝の意味だ」
   「彼は宿の人を雇っていませんよ」
   「もしかして、これは賄賂のことですか?」



 電車で読んでいて、笑いをこらえるのに苦労しました。
 また、「坊ちゃん」の他にもさだまさしの歌を教材にリスニングや翻訳もしたそうですが、日本とチベット人の自然観、考え方の違い、またそれぞれの仏教の違いが伝わってきて面白かった。

 それにしても、学生たちの可愛いこと。
 先生の叱咤激励に感極まって涙を流す純情な子もいれば、古今東西の若者の例にもれず、教師を甘く見て授業をさぼる子もいる。でも、総じて勉強熱心には頭が下がるし、帰国予定が迫る著者を引き留めて「見捨てないでください」と泣く姿にはこちらも目頭が熱くなりました。

 日本語との比較を通じて、母語チベット語をより深く理解して欲しい。「チベット語は野蛮である」と教え込まれた記憶から抜け出し、自分たちの言語に誇りを持ち、その可能性を探って欲しい――そんな著者の願いも熱く伝わってきました。
 ところどころ、日本の国語教育への警鐘といえる言葉もあります。いまどきの小中学校とは縁がないので気にしたこともなかったのですが、こんな状態なんでしょうか。


 しかし、日本で行われている、個性を伸ばす自由作文や発言訓練の中で、「てにをは」の間違いを厳しく正さない授業は百害有って一利なしの愚行である。豊かな語彙を習得して、その中から適切な単語を正確に選び出す訓練は死ぬまで続くのに対して、文の正確な意味を読み取り、相手にも正確に伝える文法の素養は比較的短い期間で習得可能であることを忘れているようでは、日本語の将来は極めて危うい。


 また、中国の教育現場の実態も興味深かったです(もちろん、全ての学校がこうではないでしょうが)
 上に書いたように、言語の特徴を考慮しない丸暗記式の教育課程。チベット人が中国語で日本語を学ぶのは、日本人がフランス語の教科書で韓国語を学ぶようなものだ、という説明にはなるほどなあ、と思いました。
 また、師範学校が経営のために職業訓練校化して、担当するのは専門外の先生。教材は本屋で本を探してくる、という話。文学の先生が花の栽培を教えるって(絶句)。これがその昔、偉大な思想家を輩出した中国の話なのだろうか、と茫然としました。

 そして、その根底に社会問題、民族政策の綻びが見て取れることもありました。
 優遇措置に与るために、チベット族という書類で入学してきた漢族の若者。話すことはできても母語の読み書きができないチベット人学生たち。入学できても、家庭の経済状況や健康状態から休学を余儀なくされる者も多い。

 終盤を読みながら、「こんなに可愛い学生に、やめないでと懇願されるのを断るなんて」と一瞬考えた。せめて「教師がいなくても自力で残りを訳しなさい。皆にはそれだけの能力はある」と言ってあげればいいのに、と。
 しかし、そう勧めることすら漢語化を進めたい政府を刺激してあらぬ疑いをかけられるのでは、と心配しなくてはならないとは。情けなく、やるせない話と思いました。

 私は学者さんではないから、言語の価値というものはわかりません。
 でも、なるだけ多様であって欲しい。それぞれの言語は過去の集積であるのだし、多様であればあるだけ、それが出会った時に生まれる可能性も無限に多くなるような気がするからです。
(2013.7.23)


「蒋介石が愛した日本」 PHP新書
関榮次 著

   ?介石が愛した日本 (PHP新書)


 蒋介石ほど日本に深いかかわりをもった世界の指導者はいない。新潟での兵営生活、孫文の代理としての訪日、渋沢栄一との出会い――青年期の四年にわたる日本滞在と頻繁な往来は、彼をして、「日本の民族性を愛している。日本は私の第二の故郷である」と言わしめるほどであった。誰よりも日中の友好協力を切望していた蒋介石が、なぜ抗日戦に突入し、中共との内戦に敗れ、台湾へと退去せねばならなかったのか。蒋介石の思想と行動そして日本人への親愛の情を、彼を支えた三人の女性との関わりに光を当てて描く。

第1章 生い立ちと日本留学
第2章 革命の炎
第3章 西安事件
第4章 日中戦争から太平洋戦争へ
第5章 本土をあとに


 この時期の中国については日本、中国共産党、台湾原住民の立場からの本を読んできて、その渦中ど真ん中の国民党政府や蒋介石の人となりについてはあまり知らなかったので、興味深く読みました。
 でも、青年期から晩年までを駆け足で辿っているため、個々のエピソードは読み足りない印象。才色兼備で夫の運を一手に握った宋美齢はともかく、その他の妻たち(!)の話は不要だったのでは、とも感じました。

 第一印象、孫文の後継者として混乱する中国をまとめたのに、ぽっと出の共産党に大陸を持って行かれた不運な人。ですが、その理想に向かう姿勢が周囲には魅力的と映ったこともわかりました。
 当時、アジアの先頭を切って近代化する日本へ軍事留学した蒋介石は、発展を遂げつつも伝統や民族性も両立していた点で日本に憧憬をいだき、これを手本に中国の新時代を切り拓くことを考える。そして、帰国後は混乱する各地の軍閥をまとめ、孫文の後継者としての地位を築いていきます。
 しかし、満洲事変など日中関係が悪化したときも「中国にとっての日本は皮膚病、しかし共産党は心臓病」といって国内平定に力を注いだため、党内でも不満が燻りはじめて国民党政府は足場を危うくしていきます――。

 新潟県・高田での軍隊生活、また、彼に「両国の親善、アジアでの共存共栄」を語った渋沢栄一子爵への感銘が、日本との好関係を望む基盤になっていたことがよくわかりました。
 日本の軍部が満洲で暴走していった時期にも「政府と国民とは別であり、日本との友好は保つべき」と考えていたこと、また戦後も日本兵を捕虜扱いにしなかったり、ルーズベルト大統領へ敗戦国・日本への配慮を求めたことなどは特に印象深かった。台湾旅行でガイドさんが「蒋介石が日本を助けたんですよ」と言っていたのは、このことだったのか。台湾の2.28事件への対応はひどかったみたいですが。。。

 面白かったのは、ひとつに、彼が感銘を受けた渋沢の教養やアジア共栄の理想といったものは、むしろ中国的なものだったということ。皮肉というか、何とも複雑な気持ちになる。国の指導者が、国の枠を越えて「共存共栄」的なことを言い出すのは国を滅ぼすもとなんだろうか……なんて、ちらと思ったりもする。

 もうひとつは、あまり詳しくは書かれていないけれど。
 戦後の中国、そして台湾の立場は、多分にロシアや欧米の都合によって決められてきたのだということ。戦前からの経緯を見れば、どうしたって中国を代表するのは国民党政府じゃないの、と感じるのですが。また、1971年のニクソン・ショックはチベットにも大きな打撃を与えたけれど、ここでも日本を通して台湾を揺るがせているんですね。

 ついでに、もうひとつ。
 当時の思想系の雑誌「改造」社長の山本実彦が日本人の政治感覚を嘆いた言葉が、今の時代にもぴったりで驚いたりして。しみじみ我々日本人は政治が好きではないのね。

「民衆は政治にもっと熱を持つべきだ。我国のこの頃の因循なやり方はいったいどうしたことだ。既成政党の総裁は、そして元老の政治に対する認識はどうなのだ。いくら日本の諸種の組織が整頓に近づいたとはいえ、首脳者にもっと大局的な思慮の深い、勇断家があって欲しい。世界的の経綸のある人が欲しいのだ。中国の秩序が着々として保たれ、国内統制が目に立ってくるとき、われわれは我国の現状について深く考えさせられるのだ」


 蒋介石が思っていたように「日本と中国は切っても切れない関係」と考えたことは実はあまりなかったので、新鮮でした。
 文化的に深い関わりがある国が理解し合うことで互いに発展できる――。ひょっとして、日中国交正常化以来、大陸中国との交流を進めてきた人たちが思い描いていたのは、こういうことなのだろうか。そうだとしたら、共産党政府の中国にそれを望むのはひどく道理の通らない話ではないか、と思ったりしました。
(2014.4.12)


「台湾人生」 文芸春秋
酒井充子 著

   台湾人生


 日本統治時代に生まれ育った台湾の人びとにじっくりと聞いた。どこか懐かしい日本語で語られたのは、歴史に翻弄された人生。そして日本への愛憎。長編ドキュメンタリー映画「台湾人生」の監督による書き下ろしノンフィクション。


 かつて「日本人」だった台湾の人々の声を記録した本。
 著者と同じように、私もこれまでこのような人たちの話を聞いたことはありませんでした。もちろん、かつて日本が台湾を支配したことは知っていたけれど、生の声は知らなかった。まして「私は心の底は日本人」という言葉を聞くとは思いませんでした。

 日本の同化政策によって日本語教育を受け、天皇崇拝、国への忠誠心を教え込まれた大正末〜昭和冒頭生まれの人たち。生年を年号で言えるところからして、時代と当時の状況が急に身近に感じられました。
 話し言葉をほぼそのまま文章に起こしてあるので、本としてはやや読みづらいのですが、それもまた大切なこと。かたことの日本語もあれば、「あにはからんや」「この先生なかりしかば」などと古風、流暢な日本語で答える人もいる。
 それぞれ生き方も考え方も違うけれど、心の底に「自分は日本人」という感覚が刻み込まれていた、それでいてあくまで二級市民。だから口惜しさもいっそうだったのだろうと思いました。

 でもね、たったひとつ、政府から「過去の台湾の軍人軍属のみなさん、ごくろうさんでした、ありがとうございました」、その一言がぼくは欲しいんですよ。どうして、一言だけでももらえないかと。

 悲しかったのは(戦争から)帰ってから中国(中華民国)籍に入れられて。これはもうほんとに悲しかったですよ。日本軍人として戦った相手の敵の国の籍に入れ替えられて、なんだろうとぼくは日本政府を恨んだですよ。国が戦争で負けたからといって、こんな目に遭わなけりゃならないのかと。

(蕭錦文 1926年(大正15年)生まれ)


 いまの日本人の若い人よりもわたしは日本人。なんでその子を捨てたの? 私たちは捨て子なの。
(陳清香 1926年(大正15年)生まれ)


 また、学校でも軍隊でも差別を受けたにも関わらず、日本支配時代を懐かしみ、概ね良い感情を抱いていることにも驚きました。


 日本は敗戦して台湾を放棄したんだけど、それだけ長い間付き合って、文化、生活も慣れてくると、深い情が残って忘れられませんよ。
(タリグ・プジャズヤン 1928年(昭和三年)生まれ)

 日本に行けたらいいという希望があった。みんな共通の考えですよ。一番行きたいのは富士山と宮城(皇居)ね。
(楊水 1926年(昭和元年)生まれ)

 先生になるときは、やっぱり日本人の先生のようになろう、そういう気持ちでやってきた。
(宋定國 1925年(大正14年)生まれ)


 戦争が終わると、台湾の立場はより複雑になっていきます。日本人が引き上げると、台湾は解放されると喜んだ人もいたけれど、現実はもっと厳しい。二二八事件など大陸から来た中国人と台湾人の衝突は激しかったそうです。
「大陸の人は台湾を法で統治する気持ちがなかった」「単に戦利品、金になるものは自分のものと考えていただけ」。
 日本の統治時代の方がましだった、という人もいる。日本統治から国民党政権になっても、ほんとうに台湾は「外」の都合に翻弄されてきたのだと感じました。


 ただ、一冊読み終わって、飲み込みきれない何かを感じてしまったところもありました。
 この本に出てくる人たちの親日感情も、言ってみれば当時の日本の同化政策にまんまとはまったと捉えることもできる。だけど、彼らと教師の間や軍人同士で結ばれた絆がニセモノであるというわけにもいかない。
 記憶が長い年月の間に美化されたかもしれない。そうかといって、日台に分かれた人々の再会の喜びが減るわけでもない。
 国際社会や日本に望むことも人によって違う。台湾、と一言で言っても、実際は大陸から来た人と原住民の間には差別もある。原住民の間にも親日か否かの区別があった。なにより、戦後生まれの世代は違う未来を望むのかもしれない。

 時間とさまざまな出来事と感情をはぎ取っていったなら、この本ともまた違う台湾人の思いがあるんじゃないだろうか。

 いろいろ知らないことが多い、としみじみ思わされたので、他の本も読んでみます。でも、著者のひとことにはどきりとしました。

 日本という国がしてきたこと、してこなかったことすべてが今につながっている。

(2013.7.27)


「台湾・霧社に生きる」 現代書館
柳本通彦 著

   台湾・霧社に生きる


 1930年。台湾先住民・セイダッカによる史上最大規模の反日蜂起・霧社事件が起こった。事件後の霧社の人々の悲惨な生活と人間の尊厳に満ちた彼らの証言集。

序 章 霧社への旅
第1章 霧社に残った日本人
第2章 証言・オビンタダオの半生
第3章 棄民の里の皇軍兵士
第4章 慰霊碑の謎 
歴史を取り戻す台湾原住民 by 孫大川


日本人警官とセイダッカ(セデック)族の頭目の娘の間に生まれた下山一(はじめ)。
花岡二郎(ダッキスナウイ)の妻で、霧社事件の生存者のひとり高山初子(オビンタダオ)。
太平洋戦争中、高砂義勇隊として南方へ出征した米川信夫(ワリスピホ)、前田則夫(パワンナウイ)、中野愛三(バッサオマデ)、山本忠治(ペンガンパーワン)。
霧社事件の中心人物モーナルダオの娘マホンモーナとその養女となったルビマホン。

 これらの人々を台湾に訪ねた証言集。それぞれが同級生や同郷の知り合いなので、個人としてだけではなくコミュニティから見た事件の様子がうかがえます。また、証言者自身から提供された写真も多くて、それだけでも見応えのあるものでした。

 特に印象的だったのは、2章のオビンタダオの人生、そして3章で書かれた元「日本」兵たちの証言でした。

 セイダッカの頭目の娘であったオビンタダオは初子という日本名をつけられて、当時盛んに勧められていた警官と地元民との結婚の例に従い、花岡二郎(ダッキスナウイ)と結婚します。しかし、一年後におきた霧社事件で夫は自決。身重で残されたオビンはさらに半年後の第二霧社事件も体験。二つの事件により、故郷も縁者もあらかた失ってしまったという半生――その数奇なことは想像を越えています。

 彼女の話の中では、警察が第二霧社事件が起きることを前もって知っていながら止めなかったことも語られています。また、警察が原住民を味方蕃(日本に味方する集落)と敵蕃を戦わせていたことは他の本でも読んではいましたが、女子供にまで首ひとつ20円と懸賞金をかけていたとは知らなかった。もともと、首を狩ることを野蛮と蔑んだ警官がそれを奨励したことに驚きました。
 味方蕃のその後の運命も皮肉なもので、戦後、国民党政府の時代になると、蜂起した敵蕃が抗日英雄とされ、味方蕃は日本に味方したことを隠さねばならなくなってしまいます。

 オビンタダオはその後、同郷の中山清(ヒポワリス)と再婚して台湾で旅館を経営。戦後はあらたに中国名も使いながら、日本などからの訪問者に自身の体験を語り続けていたそうです。ですが「自分の孫とは言葉が通じないため、こうした話をしたことがない」という言葉には複雑な思いになりました。1996年に死去されています。


 もうひとつは、日本兵となったセイダッカの男たちの証言。
 他の本でも高砂義勇隊のことを読んでいましたが、実はどうにも理解できないものを感じていました。霧社事件から10余年ばかりで、何故かなりの人数が志願して日本兵となったのか――その心情が、この本でいくらかわかるような気もしてきました。

 語り手の一人は霧社事件当時は9才。セイダッカの男としては戦うことが当然なのに、事件後、頭目や父、兄を亡くして勇士と認められることがなくなってしまった。日本人に教え込まれた「大和魂」「天皇陛下の兵士」という考えに誇りを持つしかなかったのかもしれない。
「(あの戦争で)兵隊は負けていない、陛下が降参した、でも兵隊は負けていない」と繰り返す言葉は忘れがたい。
 また、別の一人は義勇隊に志願したことをこう言っています。

「どうして志願したんですか?」
「ヤマトダマシイが欲しいからですよ。仲間と血書をしたためて軍人に志願したけれど、若すぎると言われてなれなかった」


 そうやって、日本のために戦ったものの戦後は無きに等しい補償しかもらえず、若者へ語って残すこともできない(オビンタダオの場合と同じく、彼ら世代は北京語がわからず、孫世代は日本語もセイダッカ語も解さないため)。

「いままで戦争の話を聞きに来た日本人がいますか?」
「いや、あなたが初めてです」
「日本に言いたいことがあるでしょう」
「何もないですよ。ただ、会いたいのよ。日本語が話したいのよ」


 なんという数奇な運命の世代なのだろう、と言葉もありませんでした。

 著者は「殺し合った同士は、お互いが血縁であり、級友であり、知り合いだった。霧社事件の残酷さはここにもある」と語っています。
 霧社事件は植民地支配の罪、原住民族の誇りが引き起こしたと捉えられるけれど、一人一人の人間同士としてはセイダッカ、日本人といった区別を越えた関係が結ばれていた。
 時間が過ぎるうちに、その中の何が消え去り、何が受け継がれていくのか――いろいろ考えさせられました。

(2013.9.14)


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