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ノンフィクション・伝記 8

 

「パンと牢獄
  ―― チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート
集英社
小川真利枝 著

  パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート


チベット人の真意を映す映画を撮影したことで、中国で囚われの身になり、獄中で「国際報道自由賞」を受賞したドゥンドゥップ・ワンチェン。インドのダラムサラで道端のパン売りから始め、ついにはアメリカに亡命して、家族を養い、夫の釈放を待ち続けた妻ラモ・ツォ。この夫婦と4人の子どもたちの、十年の軌跡を追ったノンフィクション。

第1章 路上でパンを売る人
第2章 物質的なものは東、精神が宿るのは西
第3章 新天地・アメリカへ
第4章 再会 
第5章 ドゥンドゥップの秘密


 2008年――12年前のオリンピックイヤーに人生が大激変したチベット人夫婦のノンフィクション。といっても、10年にわたる取材期間のほとんどは妻ラモ・ツォと子どもたちの生活を描いています。なぜなら、夫のドゥンドゥップ・ワンチェンは映画撮影を理由に投獄されていたため。
 彼が釈放そして亡命して家族と会うことができたのは10年後。その空港での再会場面から本は始まっています。

 政治犯の妻、亡命者、子ども4人との生活を支えるために街頭でパンを売る女性――さぞ悲しく辛い生活だろう、という最初の考えは、読み始めてすぐに崩れてしまう。
 崩れただけでなく、そのかけらを払い落して立ち上がるラモ・ツォのしなやかさ、まっすぐさには目を瞠るばかり。もちろん苦労もありますが、毎日できることを淡々として、時にけらけら笑いながら「生きていく」。その強さが細やかに描かれています。
 子どもたちもまた逞しい。英語を覚えてアメリカでの生活にも慣れ、「北斗の拳」の決めセリフを放って笑い転げる(笑)。何年もラモ・ツォの近くで過ごしてきた著者ならではの視線ですね。

 難民になる――住む場所、守ってくれる公的機関を失って生きるとはどんなものなのか。
 それを、「悲しい」「つらい」でひと括りにすると見えなくなるものがある、ということがよくわかる。当然、「笑いを忘れない」「家族の絆を感じる幸せ」という言葉で括ってもやはり捉えきれないものがあるのですが。
 誰かを何かの枠組みで括ろうとしない、ただその人の生き方を見つめることしかできなかったから、著者はこの本を書いたのではないかな、と感じました。

 文中で「難民」について、ちらりと引き合いに出されたエピソードがありました。数年前、SNS上である漫画家が難民を揶揄して批難を浴びていたのですが(それは私も見たことがあった)。それを漫画家は「問題提起として描いた」と弁明されていたんですね。そこは初めて知ったのですが――ああ、やっぱりおかしいな、と思いました。
 表現が稚拙、という点は横に置くとしても、ご本人としては理屈を通したつもりなのでしょうが、そこには屁理屈しかなく、何万という人間の生き方を傲慢にひと括りにしたのがあのイラストだったのだな、と理解できました。

 閑話休題。

 ラモ・ツォの多忙な日々とその中での努力には驚かされます。夜明け前に起きてパン生地をこね、わずかな時間を使って英語とチベット語の読み書きを学ぶ、免許証を取得する。世界中のチベット支援団体に夫の釈放の働きかけを訴える。アメリカ移住後はハウスキーピングの仕事を掛け持ちして家族を支えています。

 ラモ・ツォは「私は活動家ではなく、生活者」と語る。アジテーションをするのではなく、まずは家族の生活を守るために経済活動をし、家庭の仕事が最優先だというポリシーがあった。


 そんな彼女がサンフランシスコの街を颯爽と車で通りすぎる――そんな映像を著者の映画「ラモ・ツォの亡命ノート」では見られます。そういえば、ラモ・ツォの出身はラブランという大寺院がある栄えた土地柄。都会育ちの女の子だったのだそうですよ。

 さて、こうして家族の姿を読み追ううちに、次第に「そこにいない誰か」の穴の存在が気になっていく。夫のドゥンドゥップ・ワンチェンとはいったい誰なんだ――それが終章で明らかにされます。

 彼は北京オリンピックについての「街角インタビュー」を録ったことを理由に2008年に逮捕・投獄。6年後、釈放されて故郷へ帰るも公安警察の監視下に。そして、釈放から3年後についに亡命を果たした。

 私もドゥンドゥップ・ワンチェンが録った映像を何度か見ていたので、その映像がどのように中国から持ち出されたのかを知って感慨深かったのでした。また、投獄中は文字通り世界中で釈放を訴えるキャンペーンが行われていたけれど、その間も彼がどれほど過酷な体験をしていたかを知りました。
 ドゥンドゥップ・ワンチェンは幸運にも亡命がかなったけれど、実は数多いる無実の政治犯の一人にすぎない。映画ができ、本が出版されることで「解決」と忘れられてはいけない現実は今も続いているんですね。

 また、私が以前から気になっていたのことの答えもありました。
 それは彼が選んだ手法がなぜ「映像」だったのか、ということ。読み書きはあまり堪能ではなかったようですが、それでも文字の方が国外に「持ち出し」やすいのでは、と思っていたのです。
 この本で初めて知りましたが、書物の影響力も知った上で「インパクトがあるから」と映像にしたそうです。中国のTVでチベット旧社会の批判番組を見て育ったけれど、亡命チベット人社会に触れて異なる考え方を知った、という言葉には説得力がある。また、抗日ドラマを見ていたので日本人はみんな残虐だと思っていた、と笑いながら著者に話したそうで。
 なんというか、何が幸いするかわからないものです。

 ドゥンドゥップ・ワンチェンは無事に亡命したけれど、これからの課題も山積みです。言葉のわからない異国で、ぽつんと家に残っていなければならない彼の姿が寂しそう。また、インドとアメリカで育った子供たちには、昔ながらのチベット社会の父親の権威という言葉がぴんとこない。ホスト国の文化とチベット伝統との葛藤も難民社会の現実なのでしょうね。

 ですが、夫婦の穏やかさとユーモア、たくましさ、したたかさがきっと家族を守っていくのだろうな、と感じられる明るい文章でした。
(2020.7.17)

 

「チベットの現在 ―― 遥かなるラサ 日中出版
諸星清佳 編・著

  チベットの現在―遙かなるラサ


いま、チベットはどうなっているのか?長年チベットを追い続けてきた編著者が、自らの訪問ルポと関係者の証言により中国の圧政下にあえぐ実情を明らかにする。

序   チベットはどうなっているのか ―― 現代チベットを理解するために by 諸星清佳
第一部

進め、ラサへ ―― 西寧ルポ / 諸星清佳
蔵中交渉の実態 ―― 17か条協定をめぐって by 諸星清佳

第二部

遥かなるシガツェ ―― 在日亡命チベット人・西蔵ツワンの半生 by 西蔵ツワン
追放された新聞記者 by 諸星清佳
 
第三部

チベット蜂起50周年におけるダライラマ法王の演説(2009年3月10日) by ダライラマ / 訳・諸星清佳
日本外国特派員協会におけるダライラマ法王の記者会見(2009年10月31日) by ダライラマ / 訳・諸星清佳 
中国 ― チベット間の対話 by ケルサン・ギャルツェン / 訳・中村高子


 2014年の出版。著者が2009年にチベットのラサを目指した時の体験談や在日チベット人の言葉をもとにチベットの今を浮き彫りにしようとする一冊 ―― そう、まさに『遥かなるラサ』。ラサに「行かれなかった」人たちの記録です(ただ一人、2008年3月にラサの騒乱に居合わせた人の証言を除いて)

 腐心と無理押しを全開にしてもラサへ向かうことができなかった著者のレポートは、緊張感とどこか笑いを誘う文章であっというまに読んでしまいました。中国事情に詳しい人の本は私はあまり読んでいないので興味深かった。ずうずうしくて勝手で、でも世話焼きの中国人と、暢気と用心深さを併せ持つチベット人との距離感が生々しく感じられました。

 在日亡命チベット人、西蔵ツワン氏の体験談も穏やかな語りながら、大変な苦労をされたことが伝わってきました。(実は、何度かお見かけしたことがありますが、いつもにこやかに控えめに話される、すてきな方です)
 チベット侵攻後、中国によるプロパガンダ教育を受けて育ち、そのために両親はツワン少年を「温泉へ行く」と騙して亡命の旅に出たそうです。親子の間に猜疑心という深い溝をつくる ―― 子供への洗脳教育は家族も壊してしまうのだ、とあらためて恐ろしく感じました。

 その他、1951年の17か条協定の正当性、中国の改革開放政策、またチベット亡命政府の中道政策についても触れて、中国とチベットの近年の関係をざっくりと掴むことができます。
(2017.12.31)

 

「チベットの先生」 角川ソフィア文庫
中沢新一 著

  チベットの先生 (角川ソフィア文庫)


原題「mkhas-btsun-gyi-rtogs-brdzod(ケツン・サンポの回想記)」。チベット仏教の名僧、ケツン・サンポ。チベットの小さな村に生まれたケツン少年は、人類の叡知の伝統に学ぶことを志す。秘蔵経典の口頭伝授と瞑想、長じて究極の教え、ゾクチェンの修行に励む彼を、中心のチベット侵攻が襲う。インドへの亡命、そしてチベット仏教の特使として、日本へ―。人類学者の著者が慕い、師と仰いだ高僧の精神探求の旅路と波乱万丈の生涯、そしてチベットの大地から消えていった優しく偉大な文明の記憶を鮮やかに描く。

雪の国から来た先生たち ―序文にかえて―

第1章 少年の頃
第2章 ロチェン・リンポチェとの出会い
第3章 扉が開かれる
第6章 夢と現実 
第7章 高い頂をめざして 
第9章 不吉の前兆 
第12章 インドの日々 




 年明けからすごい本と出会ってしまったなあ。
 著者がチベット仏教を学んだケツン・サンポ師の自伝を翻訳し、師との出会いのエピソードも収めた本(だから中沢新一・訳が正しいと思いますが。なお、過去に出版の「知恵の遙かな頂」の再訳らしいです)

 ともかく。数奇な運命に導かれた人物の話は、ただ辿るだけでこうも面白いものか、と感嘆。誤解を招く喩えかもしれないけれど、こんな伝記の前になまじなファンタジーもスピリチュアルもかなわない。

 ごく普通の少年がお寺の小坊主として下働きしながら勉強して、何人もの仏教の師に恵まれて修行を積んでいく。高名な僧もいれば、長年洞窟に籠もって修行するためにまったく世に知られていない僧もいる。それぞれが智慧に富み、精神、人格も優れた師たちで、まさに綺羅星のよう。
 よく「
(中国侵攻以前の)チベットには星のようにたくさんの素晴らしい高僧が多く居た」という言葉を聞くけれど、こういうことだったのかとわかるような気がする。

 特に印象的だったのは、カンギュル・リンポチェとドゥンジョン・リンポチェ。


 私(ケツン・サンポ)はこのラマ(カンギュル・リンポチェ)から生きたサンガというものが、一体どんなものかを学んだ気がする。

 カンギュル・リンポチェの周囲につくられていたサンガはまったくこの世のものとも思えない、芳しい雰囲気に満たされていたのである。そこにしばらくいるだけで、人の感情はまるで絹の布で濾過されたようにきめ細かくしなやかで優しい、微細な動きをしながら人と人の間を行き来するように変わっていった。偉いラマだからとか、男だからとか、大人だから、というような権威が人の関係を律しているのではなく、幼い者も成熟した者も、みんなが利他をめざす慈悲の心によって結ばれ、おたがいを尊敬しあってひとつのサンガがつくられている。



 ただ情けないことに、私には書かれている仏教の修行も言葉もさっぱりわからなくて。これ、仏教の知識のある人の感想を聞いてみたいな。

 そして、まるで美しい虹のような時代が一転、1959年の中国のチベット侵攻後の亡命の日々へ。
 チベットでは未来の暗さを予見して早々に亡命した人もいれば、逃げ出すべきとわかっていながら手立ての無かった人も多くいたことが描かれています。
 ケツン・サンポはまさにその渦中から脱出してブータン、ネパールを通過。亡命先で日本の仏教学者の指導を乞われて日本へ。駒込の東洋文庫で古文書の研究に携わり、10年間日本に滞在したそうです。

 何とも不思議な縁です。
(2018.1.16)


「独りだけの海  上・下」 舵社
ナオミ・ジェームズ 著  田村協子 訳

  
独りだけの海―女性による初の世界一周ヨット単独航海の記録 (上) (海洋文庫 (1))

  
独りだけの海―女性による初の世界一周ヨット単独航海の記録 (下) (海洋文庫 (2))


原題「At One With the Sea」。1977〜78年にかけて、女性として初めて単独世界一周のヨット航海を行ったナオミ・ジェームズの航海記。上巻では、生い立ちから少女時代、ヨーロッパでの生活、ヨットとの出会い、結婚、世界一周航海への出発、大西洋の日々などをユニークな人生観を織り交ぜて展開。下巻にはマスト・トラブルによるケープタウンへの緊急入港からイギリスへの帰投までが収められている。


 仕事の繁忙期を乗り切るために手にとりました(^^;)
 著者はきっとランサム本に出て来る子どものように毎夏ヨットを操っていたんだろうなあ、と思ったら、意外にも海とは縁がなくて成人してから初めてヨットに乗ったようです。しかも、それからたった2年で世界1周、しかも単独航行したという……。そんなことができるんですねえ。

 著者はニュージーランドでほぼ家族だけと幼少期を過ごし、大人になってヨーロッパへ旅行。無一文といってもいい状態で放浪の旅を続けて、やがて海辺を通った時に偶然ヨットと出会う。乗組員と恋に落ちて結婚。ヨットの扱いをたった2年で覚えて、単独航行を思い立つ――と、桁ハズレに変わってる人ですね。

 そんな勢いで生まれた計画がうまくいくのか、と思ったら、いろんな人の助けで出航まで漕ぎつけます。しかし、すぐにトラブル発生。急ピッチで進められた装備や通信機の不具合が続くのですが、これがダートマス(イギリス)出港後、フランスの沖合で早々に見つかるので、読んでいてさえ不安でした。

 ただ、本人の視点で書かれているから、実際はそれほど無謀な計画ではなかったのかもしれない。一応ベテランたちがアドヴァイスとともに送り出したのだから、充分な気骨、体力、機転と判断力を持っていたのでしょう。。。多分。

 ナオミが出会うヨットマンたちのユーモアある言葉がすてき。出港を祝う電報のひとつでは――

(地球の上で)三回ばかり左折して、それから一回右折すれば、元の懐かしい我が家だ!」

 いいですね!

 喜望峰を回ってからはずいぶんと落ち着いた文章になりました。それでも波風だの転覆だのいろいろありましたが。
 補給に立ち寄った喜望峰とフォークランドで迎えてくれた人達の親切と温かさが印象的です。
 町の人たちは著者を食事へ招いて、お風呂も使わせてくれたり。新鮮な野菜や本を贈ってくれたり。また、故障した装備品の手配や修理にも懸命にあたってくれたと書かれています。やはり、昔から幾多の船を受け入れてきた土地柄、こういう気風なのでしょうか。

 トラブル続きの上巻を過ぎて下巻では余裕もできたのか、ヨットに舞い降りた鳥をじっくり観察したり、この航海と自分の人生を見つめる言葉もありました。

 五か月経っても、未だに私には、なぜこの旅をしているのか、説明しがたいのだ。……(中略)……何か変わったことをやりたいと思えば、人間はそれをやることが出来るのだ。海と一体になる私の生活の良さは、自分の限界が私自身の肉体的、精神的構造の大きさによって規定されるところにある。私の成功または失敗は、外界から何らの影響を受けることなく、私自身の努力に懸っているのだ。私は自由な行為者であり、そして個人でありたいと思っている。


 これほど破天荒な人はそうそう居ないだろうから、ぽかんと口開けて読むしかないのですが。いや、こんな人もいたのだと思うと、なんだか小さな悩みなど暴風で吹き飛ばされます。
(2018.2.7)

 

「アグルーカの行方
 ― 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極 ―
集英社
角幡唯介 著

  アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極 (集英社文庫)


1845年、英国を出発したフランクリン隊は北極探検中にその姿を消した。ヨーロッパとアジアを結ぶ幻の航路を発見するために出航した一行は、北極の厳しい環境と飢えにより総勢129名が全滅。極寒の地で彼らはどんな光景を目にしたのか。著者は冒険家の荻田と二人、その足跡を辿る旅に出た。三ヶ月以上にわたって北極の荒野を進んだ壮大な探検記。

序章  レゾリュート湾
第1章 バロウ海峡
第2章 ピール海峡
第3章 ビクトリー岬
第4章 ワシントン湾 
第5章 グレートフィッシュ川 
第6章 不毛の地
終章  キナパトゥの国


 読んだのはハードカバーですが、文庫版へリンク。

 19世紀半ば、アジアへの航路開拓のために北極圏を探検した英国のフランクリン隊。極寒と飢餓のために全員が死亡したとされていたが、一方で最後の生き残りがいたとも語られている。最後のひとり『アグルーカ』と呼ばれた男は実在したのか。彼はどこへ消えたのか。フランクリン隊の足跡をたどる冒険の記録。

 当時の冒険とは文字通り地図の空白地帯、「世界」の外側をめざす旅だったんですね。地図は踏査済みのある地点までしか書かれず、しかも合っているとは限らない。現代ではまず知ることのできないそんな感覚を、GPSやハイテク装備を使いながら追体験する旅の記録。例えば、グーグルアースで現地の地面の状態を見たり軽くて丈夫なゴムボートを支度しながら、衛星電話は基本使わず、GPSにも頼りきらない。
 現代の技術を駆使しながらも人間の体感、感覚に直結するところは原始的(?)なままにしておく。これが、この著者の冒険スタイルなのでしょうね。

 零下30度にもなる厳しい自然環境の中、綿密にカロリー計算された食糧を積んだ橇を人力で引いて氷とつららの海を渡る。食べることでしか体力を維持できない環境で、食糧の残りを、仕留めた野生動物の肉を、氷の地平線を見つめる。果たして、生きて目的地まで辿りつけるか――その一点に集中している緊張感に、読みながら鳥肌がたちそうでした。

 かつて、船を失い食糧を失って四散したフランクリン隊隊員たちはそれぞれが想像を絶する過酷な最期を迎えています。そんな中で生き残ったアグルーカとは何者だったのか。
 イヌイットたちの昔語りの中にひっそりと伝えられてきた人物の正体は諸説あるけれど、著者は同じ体験をした者として辿りついた結論を最後に述べています。それが真実かどうかはわからない。ただ、同じ極限状態を体験し同じコースを歩いたからこそ、100年以上昔の人たちのとった行動が想像できるわけで、やはり説得力があります。

 実体験を基礎にした考察が著者の旅の目的と考えるのなら、チベットでの冒険行を描いた「空白の5マイル」よりも、この北極圏の旅の方が著者のスタイルと合っているような気がしました。

 圧巻だったのは旅の終盤。
 おそらく「アグルーカ」以来、人が足を踏み入れなかっただろう不毛地帯は、実は植物とそれを食べて生きる野生動物たちの世界。人間の姿のない、壮絶なまでに美しい平野です。そこを歩きとおし、やがて一本の道が現れ、道は読者を人間世界へと連れもどしてくれる。現代社会の便利で楽な事どもにほっとしながら、それでも頭のかたすみにあの豊かな広野の風景が残っている――。

 そこで読者は、多くの探検家が幾度も世界の果てを目指した気持ちをほんの少しだけ体験できるのです。
(2019.8.15)

 

「定本 黒部の山賊」 ヤマケイ文庫
伊藤正一 著

 


終戦直後、北アルプス最奥の地、黒部周辺を根城にして跋扈する「山賊たち」がいたという。そんな混乱期、著者の伊藤正一は三俣蓮華小屋の権利を譲り受け、山小屋経営に乗り出そうとしていた矢先、「山賊たち」と出会う。彼らとのスリリングな出会いにはじまり、彼らの協力を得て山小屋を再建。そうした「山賊たち」との奇妙な生活や山のバケモノたちの話など、まだ未開の黒部にまつわる逸話が満載された不思議な魅力が綴られる。

 山賊というと、思い浮かべるのは昔話の『山を根城に通りかかった旅人を襲って身ぐるみ剥いで……』というイメージですけど、そういう話ではない(笑)
 彼らは猟師であり、山の生態、山で生き抜く術を知り尽くしている。現代ではこういう人はほぼいなくなってしまったからどう呼べばいいのかわからず、そうなると「山賊たち」という呼称もしっくりきます。

 今から80年ほども昔の話なので、山と人との関わり方には驚くばかり。野生の熊に餌をやって懐かせたとか、「山賊たち」にとって山は庭先なので、よそ者の密猟者が歩いただけでその痕跡がわかるとか。ただただ、別世界の話です。

 また、登山者が目にした山の不思議は、ひょっとすると下界住まいの自分も体験することがあるのかもしれないと考えて寒気がしました。
 山小屋を目指して朝出発したのに、歩くうちに何故か同じ小屋へ戻って来てしまった登山者。オーイという呼び声は山のバケモノだから、オーイと応えた人間はそのまま呼び交わしながらいなくなってしまった。埋葬しても何度も地表に現れて人を呼び込む白骨――どちらかといえば、ありがたくない体験ですけど。

 読めば読むほど、ただただ「山は下界とはまったく違った世界なのだ」と感じました。
 ちょっとした山を歩いてわかることとは違うのでしょうが、木があっても森とは違う、山のあの重量感がその秘密なのかなあ、なんて考えたりして。

 山の怪異はもちろんのこと、厳しい環境下で人間がどれだけ無力であるか、人里の理と違う何かが山にはある――そのことを山に暮らして体得していったのが「山賊たち」なのでしょうね。
 遭難者救助のエピソードは、おそらく今も本質はそう変わらないのかも。装備がよくなり登山道も整備されたとはいえ、人体は熱を奪われれば死に至るという事実は変わらない。遭難者の遺族との意識の行き違いはやるせない。

 80年も昔というべきか、それともたった80年前なのか。伝説といまの現実との橋渡しをしてくれるかのような不思議な本でした。
(2022.4.1)

 

「米原万里、そしてロシア」 かまくら春秋社
伊藤玄二郎 編

  米原万里、そしてロシア


米原万里の生涯とロシアとの関わりを探る手掛かりに――ジャーナリスト、作家、文学者、家族が語る米原万里の思い出とロシア文化。

 米原万里さんと交流のあった人たちの寄稿集。思い出を語る人もあれば、ロシア文化の魅力を主に語る人もいるという、おおらかで味わいある本でした。

 印象に残ったのは、万里さんの文体、建築好きだったエピソード、ロシアの歴史についての章でした。

 妹である井上ユリさんの思い出の中で、建築好きの万里さんが知人の家を訪れた時の話。
 建築雑誌に掲載されたこともある家の間取りを覚えていた――というだけなら、記憶力の良さだと思うのですが、面白かったのはリフォーム後の家であるにも関わらず、「この家知ってる、雑誌で見たことある」と言われたそうで。雑誌の間取り図と写真から建築の構造を掴んで、それを記憶していたとは驚きのエピソードでした。

 また、ロシア語通訳者の語る米原さんの文章について。

 米原万里の文章を読んでいると彼女の声が聞こえてくる


 声が「聞こえる」文章といわれて、納得。確かに、確かに。
 知人だけではなく、私のように読者としてしか接点のない人にもそう思わせるというのは、他の作家さんではなかなか聞かない話ですよね。

 通訳者であるこの章の著者は、米原さんがプラハで受けた、自分で説明できるまで深く理解させる教育と、通訳が2言語の話し言葉と書き言葉の計4つの中を行き来することを理由に挙げています。

 そして、ロシアの歴史について書かれた章「1666年のソ連崩壊」。
 1991年のソ連崩壊のきっかけがウクライナ独立宣言だったこと、さらに歴史をさかのぼれば「ロシアなるものにウクライナが含まれるか」、そしてその「ロシアとは?」という命題が繰り返しこの地域に現れた(らしい)ことが書かれていました。興味をそそられたので、ロシアとウクライナの歴史、宗教観についてこの著者の本を探してみようと思います。

 どの章を読んでも「今日も荒れ模様」のロシアの思考と精神の大胆さというか、スケールの大きさに辿りついてしまう。この2月のウクライナ侵攻のあと、ネット記事で見かけた『ソ連は崩壊したのではない』という言葉が思い出されました。「崩壊」というのはいわゆる西側メディアがいう事で、ソ連は単にその壮大な社会実験を「停止した」だけにすぎない、と。

 広大な国土も人も変わらずあって、またあらたな模索を続けているだけなのか、と考えると、歴史の見方も変わってきますねえ。
(2022.6.1)

 

「姉・米原万里」 文藝春秋
井上ユリ 編

   姉・米原万里


プラハのソビエト学校における少女時代を共に過ごし、その闘病生活も看取った3歳下の妹、井上ユリ(故・井上ひさし夫人)が綴る、食べものの記憶を通した姉・米原万里の思い出。食卓を彩った数々の食べものを通して、米原家のユニークな面々を描き出す上質なエッセイ集。

 リンクは文庫版へ。

 ソビエト学校のサマーキャンプ、トルコ蜜飴、家族の話――米原万里さんのエッセイで読んだお馴染みのエピソードが、妹・ユリさんの視点からも見ることで立体的に感じられました。また、当人からは語られない万里さんの姿も。
「自分の事になると優柔不断に思い悩む」ところは可愛らしいというか、人間くさくて印象的でした。どうも相当に風変りな家庭ではあったようだけれど、家族どうしの愛情と思いやりが感じられました。

 さて、マイペースで自分の世界に没頭しがちな万理さんと、ちょっと離れたところから見ているような妹のユリさん。
 慣れない異国の学校をともに乗り切ったせいか、姉妹二人の絆がこれほど強かったのかと驚きました。妹への手紙に詩を書くなんて、学生が文学に傾倒する雰囲気のあった世代なのかなあ。
 お二人の姿を読むと、プラハ生活でその後の人生により大きな影響を受けたのは姉の万里さんの方のようにも思います。考え方やこだわりが日本人離れしているというか。
9〜14才という特に多感な時期、大人にさしかかる頃の経験だからかもしれませんね。

 帰国後の姉妹はそれぞれの生活に没頭していったようだけれど、異なる道を歩きながらも、時々なつかしい料理の味に引き戻されて同じ思いを抱いているのが面白いです。
 ともかく、大食漢ぞろいだったらしい米原一族。その家族の思い出の食べ物は、ロシア風のしっかり重めの黒パン、ソーセージ、チェコのクネードリキ、“スペインの小鳥”。家族の誰かが手に入れては、皆で味を確かめてみる姿がおかしい。(でも、たしかにヨーロッパのパンはおいしかった。わかります)

 食べ物といえば、あらっと思ったのはここ。
 万里さんのエッセイ「未知の食べ物」では、来日したロシア人政治家(ゴルバチョフやエリツィン)を例に挙げて、未知の食べ物をどれくらい受け入れられるか――いわば未知の許容度が、政治家の政治的革新度が比例している気がする、と語っています。

 エッセイを読んだ時は「なるほどなあ」と面白く読んだだけでしたが、妹・ユリさんはこのことについて、ちょっと異なる意見を書かれていまして。


 姉は自由な精神の持ち主であるし、そうあるべく努力もした。でも、本人は未知の食べ物に対して勇敢ではなかった。この説は姉自身にはあてはまらない。
未知のものにたいする怖じ気は、むしろ第一子に生まれた人に共通の慎重さではないだろうか。



 外国の料理人が日本食を受け入れない、いうことが多かった。
 性格、生まれ育った環境、自分の食文化への誇り、いろいろな要因が未知の食べ物への接し方を規定する。思想の本質にまで敷衍してしまうのはちょっと飛躍しすぎだ。



 なるほど、なるほど(倍にしてみた)。似て非なる姉妹ならではの冷静な指摘でした。


 もうひとつ、時代を感じるエピソードも面白かった。
 父・昶が当時東ヨーロッパにいた日本共産党幹部であったために、ソ連から毎夏に黒海沿岸の避暑地へ招待されたそう(クリミア半島のセヴァストーポリ、ソチ、ヤルタというのが複雑な気持ちになるけれど)。

 元貴族の格式ある別荘や豊富な果物を食べた思い出が語られるのですが、その後、中ソ共産党が対立するようになるとその余波でソ連/日本共産党の関係も悪化。避暑地への招待は当然なくなり、帰国途中に寄ったモスクワでは下っ端役人に迎えられて小さなホテルの部屋をあてがわれた。
 ところが、北京へと移動すると党をあげての歓迎で、子どもである二人でさえスイートルームを使った。


 大人になって料理の勉強のために高級レストランやホテルを見て回った。しかし、子どもの時に平等であるはずの社会主義国で体験したほどの贅沢は、市民社会の歴史が長い西ヨーロッパには存在しなかった。しかも、その贅沢は一般市民の目の届かないところにあった。やはりソ連はつぶれるべくしてつぶれたのだと思う。


 東西冷戦時代のまんなかに置かれていた姉妹の視線が身近に感じられました。

(2022.6.20)

 

「米原万里を語る」 かもがわ出版
井上ユリ 小森陽一 編
井上ひさし 吉岡忍 金平茂紀 執筆

  米原万里を語る


作家はいかに生まれ育ったか? その類い稀なる魅力とは何か? 実妹と義兄弟が愛をこめて語る米原万里万華鏡。

 「米原万里、そしてロシア」と似た構成ですが、よりシンプル。
 あちらはたくさんの人から見た万里さんとその思想を語ったものだったけれど、この本では語る人数は少なく、でもそのぶん故人の人となりや考え方が伝わる気がしました。

 面白かったのは、万里さんの知性を育んだ教育について。
 プラハのソビエト学校の思い出と勉強の厳しさを語るのは、妹のユリさんと、ともに学友であった東大教授の小森陽一さん。
 万里さんのエッセイでは楽しさ(学ぶ楽しさ含め)を強く感じたのですが、やっぱりその内容は日本の教育とは比べ物にならない厳しさだったのですね。

 宿題を忘れていく、しない、なんてありえない、という厳しさ。勉強の内容も分野をまたがるようにより立体的に学び、かつ自分の言葉で説明できるまで内容を咀嚼する。そこまでしないと「基礎学力とは言えない」という厳しい言葉にちょっと項垂れました。はい。
 「ペロポネソス戦争の陣形」には脱帽。日本でもやりませんかね、関ヶ原の陣形と戦略……。

 そして、日本の教育の中でも、特に現代史の欠落を指摘したジャーナリスト・金平茂紀さんの3章は印象に残りました。

 ちょうどオバマ大統領誕生の時期にTBSアメリカ総局長として現地におられた方です。初の黒人系大統領の誕生の衝撃は日本にはほんの一部しか伝わっていなかったのだな、とわかりました。

 選挙活動の地方演説には地元住民が期待を持って集まってくる、オバマは聴衆の中に入っていき握手する、自分の言葉で政治を語る。
 当選を果たした勝利演説では、単に票を獲得したとか抱負だけではなく、アメリカ人がオバマを「選んだ」ことの意義と歴史的位置づけを語っている。
 演説にちりばめられた黒人差別のエピソードは子どもでも学んだことがあるもので、だからこそ演説の意味をしっかりと掴みとることができる。知っていたからこそ、差別の歴史がひっくり返ったことを理解できる。こうして、次の有権者が育っていくのですね。

 また、ソ連の1991年8月のクーデターの時にも金平さんは現地にいて、万里さんに「ちょっと見にいかない?」と誘われて街に出た時の様子が書かれています。戦車の砲身の先に花が挿しこまれ、子どもたちが歌を歌って、モスクワの人たちは本当にうれしそうだった、と。

 民主主義という思想が生きて立ち上がる瞬間というのは、おそらくしばしばある。でも、背景を知らなければ見えない、気づかないのでしょうね。


 もうひとつ、表現者としても万里さんの姿にふれた2章。
 2005年、国際ペンクラブで中国の言論状況への関心が高まっていた時期のエピソードは初めて知りました。

 亡命作家たちから彼らの境遇の厳しさを訴えられて、その場にいた多くの会員が応える言葉をなくした。その中で、万里さんは「作家は民衆とともにいてこそ」と叱咤して、その言葉に周囲が凍りついたといいます。
 そう思っていたとしても、多くの「恵まれた」立場の作家には言いづらいこと。けれど、社会主義国の良い面も暗い面も自分事としてよく知っている万里さんだからこそ、率直なひとことが言えたのですよね。

 いろいろ本を読むほど、米原万里さんの思考の基盤には、芸術にも発明にも秀でた「表現者」という面があったことがよくわかる。表現者としての立ち位置も持っていなければ、こういうことは遠慮してしまって言えないものでしょうね。

 つくづく、もっと作家としても長く活動してほしかったな、と感じました。

(2022.7.20)

 

「女の見た終末ソ連」 岩波書店 同時代ライブラリー
松浦信子 著

  女の見た終末ソ連


クーデターから,ソ連邦崩壊へ至る世紀末の激動を人々はいかに生きているのか.ユーモアとコモンセンスを唯一の武器に,1人の主婦が特派員助手の資格をとって素人的な体当り取材で描いたロシア的な奇妙な日々の報告。

T 終末の断面
U 熱い三日間
V 八月革命以後



 ロシアの市民目線を感じられる本を探して見つけました。書かれたのはソ連邦崩壊時ですが、かえって過去とのつながりというか、今のロシア人の心に何が残っているのかを想像する手掛かりになったかなあ。

 著者は1988年から民放モスクワ支局勤務だった夫の「助手記者」として記者証を得て、ソ連崩壊(1991)直前の市民の姿を記録。雑誌に寄稿されたレポートをまとめた本です。おや、米原万里さんが通訳として活躍された時期とも重なりますね。

 前半はソ連初のミスコンや秘書のアメリカ訪問談など「やわらかめ」の話題ですが、後半はソ連崩壊の直前、1991年8月クーデター3日間の市民目線での記録。これは読み応えありました。

 読み始めてすぐに「あっ、ソ連ってこんなに考え方の違う国だったのか」と衝撃。ミスコンの話です。
 1988年に初めて開催された「ミス・ソ連」コンテスト。西側では当時すでにフェミニズムの観点から批難されがちなイベントだったのに、外国人ジャーナリストも招いての記者会見で出た揶揄まじりの質問の意味がソ連の主催者側はわからず、文字通り言葉を失ってしまったらしい。なぜなら、多くのロシア人にとってミスコンは女性らしさを賛美するという、これまでにない発想だったから。

 いままでソ連女性は男のように、というより馬のように働くことばかり求められてきたのです。ミスコンは初めて女らしさややわらかさに社会的地位を与えました。


 「進んだ」「遅れた」と二分する考え方では知りえないことだなあ、と感じましたよ。

 一方、そうやって男性と同じように(それ以上?)働いてきた「おばちゃん」パワーに圧倒されることも。
 ソ連に不慣れな外国人ジャーナリストを表立って、時には裏で手を回して支える秘書たちの手腕! 「指示がないから」としれっと業務報告をすっぽかしたり、新参者の足をひっぱるあざとさも。ちょっと可愛いですけどね。
 秘書の仕事ぶりの半端さについては、ソ連社会では仕方のないことかもというコメントも。電話帳や地図さえないような状況では合理化を意識して働くわけもないし、万事命令式のソ連では、イニシアチブをとったがゆえにシベリア送りになったりするのだから。


 さて、中盤からは8月クーデターの3日間の記録。

 当日の朝、非常事態を告げるラジオを聞いたTV局員、運転手、秘書たち。さらに、戦車が通る街を歩く市民、政府庁舎(通称・ホワイトハウス)前に集まる若者、動員された兵士――さまざまな人々の取った行動とその思いが綴られています。

 特に印象的だったのは、何人もが「またスターリン時代に戻るのでは、という恐怖を抱いた」と語っていること。戦車の横を市民が歩く光景は一見平穏を保っているようにみえるけれど、多くの人がその心の中で社会的弾圧の影に怯えていた。


「ラジオを聞いて妻はわっと泣き出した。戦争の記憶のある妻の母が、できるだけたくさん食料を集めなければと言う。しかし、こんな状況で買出しなんかしたって役にたつものか」

信頼している友人とだけ電話で情報を交換しあったが、あとで振り返ると「自分でも知らないうちに言葉遣いに気をつけていた」という。家族や知人を密告者とする恐怖が非常事態宣言ひとつで市民の心によみがえってきたのだ。



 そして、軍の兵士に対して意外にも温かい視線が多かったことに著者は驚いています。
 おばちゃんが兵士に食事を差し入れたり、話しかけるたりする。怖くないのかと聞けば「市民を攻撃するとは思わない」という。KGB部隊はおそろしいが、兵士は徴兵されただけの若者で上の命令を聞かねばならないのだから、というわけだ。

 一方の軍側も困惑はあった。いつもの演習だと思って命令通り出動した若い兵士がモスクワへ入ってから非常事態に驚いた、という証言も。(今のウクライナ侵攻の初期にも似たようなことを語る兵士がいたようですね。。。)市民に銃を向けることを悩み、帰ってしまおうかと考えた部隊もあったらしい。

「どんな兵隊だって、父や母を撃ってはならないことくらい知っている。これはひとにぎりの狂った人間がやらせようとしていることだ」


 人間としての良心から目の前の市民への攻撃を思いとどまった兵士さらにはKGB特殊部隊員もいたということに驚きました。そこにはアフガン戦争帰還兵の不満や国への不信感もあったそうです。

 そして、ホワイトハウス防衛に集まって来た若者についての言葉が印象に残りました。

 15才から30才までだよ。彼らは1985年にゴルバチョフが政権についた時、高校生か大学生。人格形成期に共産党イデオロギーの桎梏を受けないで済んだ第一世代なんだ。ソ連の将来に絶望して育った我々の世代とは感受性が違うのさ。自由で、恐怖がない。恐怖の記憶さえない。


 歴史を動かすなんて出来ないと思いがちだけれど、そんなことはないのかもしれない。一握りの数の政治家が変化を起こして希望を差し示すだけでも、若者は育ってくれるのだ、と感じました。

 その一方で、そこまでに社会主義がロシアに残した傷跡についても考えてしまいました。本の最後は「心の病をどうするか」という章で締められています。

 上にも書いたように、市民同士が密告を恐れて本音を隠し、夜にアパートのエレベーターが動けばKGBが来たのでは、と怯える癖がぬけない。国の物を盗めば死刑だが、隣人の物を盗んでも罪とはならなかった。そうしなければ生きられない状況にあれば、盗みへの罪悪感を抱かなくなる。

 74年の全体主義で、我々はなにが善でなにが悪かの基準を失ってしまった。これこそが一番のガンなんだ。

 人間に備わる「やっていいことと悪いこと」の本能的感覚を国家が組織的に破壊したことで、ソビエトの人間は存在の根拠から切断されたのだ。



 そして、普遍的な規範が失われたこととウソの公認は表裏一体となってしまう。

 著者は、この国の人々はプロパガンダに囲まれて育ったために、それが嘘くさいと感じても事実を見分けることが極端に不得意、と書いています。
 嘘くさいとわかるということは、論理的な思考の種は有るのに、それを発展させていくことが苦手ということでしょうか。さらに「目的が手段を正当化する」という思考が重なれば、権力を行使する側も批判する側も、どちらの主張も真実からは遠ざかってしまう。それがまた、人の心から拠り所を奪ってしまうという悪循環になっているのかも。

 1991年、チェルノブイリ原発事故の5年後に日本の医療チームが現地へ招かれた。住民が自国の医師の診断を信用しないために西側から招いたのだそうです。
 検診後、日本側は「私たちをキリストのように拝むのですよ。放射能障害よりも社会的心理的障害の方が大きいように見受けられた」と語ったらしい。


 本一冊を読んで人の心がわかるわけもない。
 ただ、疑心暗鬼と自尊心、自己中心と他者への優しさ――どの国とも同じようにロシア人も持つ相反する性質を断片的に見るだけでも、かの国への想像力を持つための手掛かりにはできるかもしれない、と感じました。

 著者は「日本文化を特殊だと考える日本人には、(ロシアを)理解しやすいかもしれない」と語っています。

ソ連人は自分たちをヨーロッパ的世界とアジア的世界の「中間にいる」「どっちにもなりきれない」したがって「世界の中で特殊な」集団だと意識している。


 西欧的価値観からだけソ連を見るのではなく、集団主義、平等主義、女性原理、ウェットな温情といったアジア的な心情を手掛かりにすれば、ちがったロシアが見えてくる。そこが日本とソ連の対話のルートになりうる、と。

 1990年のコメントなのだけれど、これは30年後の今も生きて……いるのだろうか?

(2022.7.20)


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