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歴史・文化(アジア) 1 |
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「シルクロード鉄物語」 | 雄山閣 窪田蔵郎 著 |
シルクロード鉄物語 著者が訪ね歩いた遺跡や都市に残る鉄製品を通して、シルクロードの歴史を語る。 ここを全部、著者がご自分で歩いて見てまわったの、と驚くほど、扱われている地域が広い。モンゴルから中国、パキスタン、トルコ……磁石を持って歩いたという、すごい方だ。 物の知識のある人には歴史のいろんな面が見えるのですね。素人の視点とどこが違うのか、ということだけでも随分楽しく読んでしまいました。金属や工学の基礎知識のある読者なら、更に楽しめるのではないかなと思います。 そして、私のように知識がなくても、自分の足で歩いた人ならではの疑問や目のつけどころが書かれているので、読み進むのが楽しい。通りすがりの人が持っていたお手製の鍬の形、鉄砲密造工場、関羽が使った(とされる)大刀の重さ。製鉄の歴史についての本をいくつか読みましたが、この著者の視点が一番楽しかったです。 特に私が興味を持ったのは、中国の鉄官という専売公社(?)の話。 各地の鉄官の仕事内容や何人くらいが働いていたか、など組織そのものについての話も面白いのですが、古い文書の引用で、一日にどれだけ鉄ができれば利益が出たのか、についても触れてある。こういうところにまで興味を持って書かれているのが、ユニークだと思うのです。 |
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(2005.5.31) |
「ブータン ―「幸福な国」の不都合な真実―」 | 河出書房新社 根本かおる 著 |
ブータン――「幸福な国」の不都合な真実 この国は本当に「幸福」のひと言でくくれるのか? 中国、インドという大国に挟まれた小国の生き残りをかけた戦略と、そのために20年以上も抱え続ける大きな問題を明らかにする。 第1章 小国ブータンというブランディング大国 第2章 「国民総幸福」という、ソフトパワーによる安全保障思想 第3章 ネパール系の人々、ブータン南部に定住する 第4章 国籍を奪われ、難民として生きるということ 第5章 歴史の転換点で、ネパールの難民キャンプでふたたび働く 第6章 お金がないなら、知恵をしぼってエンパワーメント 第7章 ブータン難民たちの将来を見据えて UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)職員としてネパールの難民キャンプで働いた著者による、ブータン難民問題についての本。 前半は「国民総幸福」の国として知られるブータンのあまり知られていない難民問題の概要。後半はその難民キャンプでの活動について。エピローグでは難民問題全般についての意見が書かれています。 ブータンが超大国に挟まれた難しい地理的立場にあること、また近代国家としてのかたちを整えたのがインド独立前後という新しい国家であることはわかっていましたが、難民問題についてはざっくりとしか知らなかったので勉強になりました。 ですが、全体としてはバランスの悪い本という印象で、もったいないなと感じました。 度重なる民族主義的な法改正によってネパール系ブータン人難民が生まれた経緯は分かりやすいのですが、難民側の立場をとる著者の意見が前面に出過ぎているように思われました。 政府側の強硬な政策(それ自体はもちろん問題ですが)の背景は、シッキムのインド併合等過去の問題だけではない。政府は現在、未来の地域情勢を考慮なければならない、そういう視点が抜けているのがアンバランス。後半でも、難民キャンプの現実をじっくり読めるかと思ったら、意外と通り一辺にまとめられてしまった感じ。 一ボランティアではなくUNHCR元職員という立場から、もっとアジア事情全体の中のブータン事情も語って欲しいと思いました。 しかし、エピローグで書かれた難民問題全般へ意見には考えさせられました。 曰く、基本的人権のまさに基本である「自国へ帰る権利」「国籍への権利」「国籍を恣意的にはく奪されない権利」が、近年では国連人権理事会など限られた場でしか語られないことへの警鐘。 そして、難民問題の解決法である「本国帰還」「避難先での定住」「第三国定住」のうち、現在は三つめの方法ばかりに偏っており、本来は基本的人権の「自国へ帰る権利」(=本国帰還)をもっと議論の主軸にするべきではないか、というもの。 そうだよなあ、と思う。 本国からどんどん難民があふれ出す状態をどうにかしなければ、いくら支援してもきりがない。当事国が戦争中などならともかく、平時の国から難民が出国することに対して何かできることはないのだろうか。 それに、あふれ出さなければいいという問題でもない。 ブータンの例でも、国に残っても明らかな差別や不利益を被るのに、それを「国を追われたわけでない」という理由だけで国際社会が「問題無し」と見做すのはおかしいのじゃないかという気がします。 難民というのは、国家vs下位集団という対立の中からたまたま国境を越えた人たちを表しているだけなのかも。 問題の根本は国境線に囲まれた中にあり、そして、いろんな地域の難民問題が解決しないのは、国家主権に優先するはずの権利が、そうとは認識されていないからなんだろうか、といろいろと考えさせられました。 |
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(2014.6.30) |
「モンゴルを知るための65章」 | 明石書店 金岡秀郎 著 |
モンゴルを知るための65章【第2版】 (エリア・スタディーズ) 21世紀に入り、さらに日々変化し続けるモンゴル。好評を博した前著『モンゴルを知るための60章』に、新たな研究や知見にもとづく5章を加え、内容構成を細かく分類しなおし編集し、モンゴルの尽きない魅力をさまざまな面から描き出す。 第1章 モンゴル人の土地「モンゴリア」―流動的だった国土― 第5章 長城とシナ「古来の領土」―異なる国境の理解― 第10章 大草原と遊牧―草原が家畜を育み、家畜が人を養う― 第24章 モンゴル語の世界―家畜語彙― 第35章 オオカミの両面価値―脅威の中、畏怖と尊敬を抱く― 第40章 草原国家の伝統―国名や君主を変えながら受け継ぐ匈奴の伝統― 第50章 モンゴルの中原撤退―弱体化する帝国― 第51章 シナにおける漢の復権―元朝の滅亡とモンゴルのシナ喪失― 第57章 清代モンゴル人の民族意識―清の同盟者か被征服民か― 第59章 内蒙古自治運動の失敗と日本―徳王の誕生から逮捕まで― 第62章 ウランバートルの歴史―門前町から近代都市へ― モンゴル、満洲あたりの本に手をつけようと思いつつ、イメージを抱く材料が少ないのに気づいて、頼みの「知るため」シリーズ(勝手に命名)。目次は例によって抜書きです。 遊牧を土台に発展した生活文化の紹介、さまざまな民族が入り乱れる中からモンゴル帝国が作られやがて解体していく歴史、さらにもっと広く東アジアの勢力図変遷の一面としてモンゴルをとらえた視点――面白かったです。 著者の知人のエピソードで、故障した車を愛馬にするように話しかけながら修理する姿や、無闇に愛想を振りまくことはないが礼儀作法に厳しいことなどが印象的でした。日本人がやたらに「ありがとう」というのは確かに妙なのだろうな。 それにしても、やっぱり学校で習う世界史だけを基礎にアジアの歴史を見るのには無理があるんだなあと思った。 この本では、伝統的な漢族の領域を「シナ」と考え、「中国」を中華人民共和国の略称として用いており、二つを同義とはしていません。曰く『中国とシナを混同するとモンゴルは見えなくなる』と。 そうしてみると、51章の副題につけられた「元朝の滅亡とモンゴルのシナ喪失」という文にははっとさせられました。 国土ではなく民族集団を基に発展したモンゴルなのだから、元朝の終わりはシナ領域からの撤退に過ぎない。その後も一定の力を持った集団はいくつも存在して勢力を争っていたし、その中の何人かのハーンが権威を求めてチベットと接近したのだろう。そして、のちには彼らの勢力分布図が内モンゴル、北モンゴルという線引きの中へ吸収されていった――。こういうことはモンゴルの目線に立って見なければわからないのでしょうね。 中国とシナ――確かに、この二つを切り分けて考えるのは中華思想文明の影響を受け、漢字で書かれた資料で学ぶ日本人はなにかと誤解しがちなんだろう。そんなことをあらためて考えました。 少しは中華から離れた枠組みが感じられたような気がします。ぼちぼち、この地域の本にも手を出してみようかな。 |
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(2014.8.12) |
「馬賊で見る「満洲」 ―張作霖のあゆんだ道―」 |
講談社選書メチエ 澁谷由里 著 |
馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道 馬賊が誕生した清末期。あるものは官憲の銃弾に倒れ、あるものは混乱を潜りぬけ略奪者から脱却し、軍閥の長として中原の覇権をうかがう。覇権に最も近づいた男=「東北王」張作霖とその舞台の激動の歴史をたどり、併せて日本にとって「満洲」とは何だったのかを考える。 第1章 「馬賊」はなぜ現れたのか? 第2章 張作霖登場――「馬賊」から「軍閥」へ 第3章 王永江と内政改革――軍閥期の「満洲」 第4章 日本人と「馬賊」 終章 現代日本にとっての「満洲」・「馬賊」 モンゴルからまたちょっと移動。まだ自分の中に素地を作り切れていない地域なのでなかなか読み進めませんでしたが、面白かった。 治安が乱れた清朝末期、匪賊の中から、単なる強盗ではなく有力者と警護契約を結ぶ馬賊が現れて力を強めていく。ちょうど清軍の近代化時期にあたり、従来の身分社会の底辺層から身を成していくことが可能だった。 そんな馬賊の一人だった張作霖は勢力を広げ、軍に帰順。王永江と出会い、日本軍の支援を受けて満洲地域を配下に収めていく。しかし、東北部での権力を確立する前に国政に乗り出さざるを得なかったことがのちに問題となっていく――。 といったような話でした。大変端折っておりますが。 馬賊という満洲ならでは(?)の存在が力をつけてのし上がっていった時代背景、その中でも張作霖が政治的センスのあるパートナーと手を結んで馬賊体質を脱却していったというところも面白い。 終章では、著者がなぜ「満洲」という地方性に注目して近代中国史を見たのかが簡単に書かれています。 満洲は「清朝の故地である」という清帝国内で独特の地域であったこと、他地域とは行政・軍事面で体制が異なっていたこと等から、清帝国の単なる末端と捉えるより満洲独自の地域文化の中からこの時代を見ることに意義がある、と。 今風に言えば「自治区」「特区」という感じでしょうか。それなら確かにそういう視点が必要ですね。 もうひとつ印象的だったのは、「満洲が漢族の土地」と認識されるようになった要因のひとつとして日本の満洲への介入を挙げていること。 もともと多くの漢族にとって満洲は縁もなく、中国の一部という認識もなかったろう。それが、漢族移民の張作霖による地方政権ができ、張学良が後を継ぎ、それが日本によって失われた。そして、満洲から関内に逃れた漢族を中心に満洲を故地と見る心性が生まれたのではないかと。 近代的な国家、国境意識がされつつあった時代に、最後に「中国」と認識された地方、ともいえるのでしょうか。意見いろいろあるでしょうが、そう考えるのもちょっと面白いなあ。 |
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(2014.9.5) |
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