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歴史・文化(アジア) 2

「ブータンに魅せられて」 岩波新書
今枝由郎 著   

   ブータンに魅せられて (岩波新書)


「国民総幸福」という理念はどのように生み出されたのか。近代化がすすむヒマラヤの小国ブータンの人々の生活、宗教観を見ながら、「豊かさ」について考える。

一章 遥かなるブータン ―雲上の国をめざして―
二章 仏教が息づく社会 ―ブータンでの暮らし―
三章 陽気に、おだやかに生きる ―ブータンの人びと―
四章 ヒマラヤが聳え、雨雪が降り、森林が茂る限り ―独自の近代化への挑戦―
終章 ブータンはどこへ向かうのか ―「国民総幸福」という理念―


 著者はチベット仏教研究者で、一章はブータンを初めて訪れることになった経緯を、二〜三章では1981〜90年に国立図書館顧問として滞在、その間に目にした人びとの暮らしや文化について語っています。四章ではブータン独自の近代化の方針と具体的な政策について。終章では1976年に第四代国王によって宣言された「国民総幸福(GNH=Gross National Happiness)」という理念についてまとめられています。

 チベット文化圏のしあわせな風景にふれたくて、買ってみました。何せ「国民総幸福」提唱の地ですから、ものすごく期待しました(笑)。
 ずいぶん前に読み終わっていたのですが、面白くて何度も読み返すうちにUPするのが遅れました。しみじみと温かい心地にもなりましたが、それ以上に考えさせられたり心惹かれる言葉が多かった。

 前半に書かれた、ブータンの社会について。
 おおらかな時間感覚、自国文化を大切にしながら異文化をも受け入れる懐の深さが感じられました。
 特に、生活の中に仏教が生きているという点には興味をひかれました。切手に仏画を描くことの是非が真剣に討論されたという話からは(使用済みの切手が捨てられたり、仏画に消印を押すことへの抵抗感がある)、仏像・仏画を「鑑賞」ではなく「拝む」意識が生きていることが伝わってきます。
 また、著者と同じ風景を見たブータン人が、著者には見えない瑞祥を「見て」喜んだというエピソードも印象的。
 目で見えるものがどれだけ確かなのかはわからない。見えないから無いとは言い切れない――そのことを受容するのは簡単なようで難しいと思います。著者が自分とブータン人の意識の間に越えようのない違いを感じた、という言葉をしみじみ読んでしまいました。
 また、こんな風に仏教が生きている国でも信仰は個人的なものと考えて、宣教活動は禁止されているという点には驚きました。

 4章では近年のブータンの経済政策、1959年のチベット動乱以降の周辺国との外交関係が書かれていて興味深かったです。
 国内政策は「国民の利益優先」「伝統文化の保護」という考えに立っており、登山禁止条例(山への信仰や農繁期にポーターとして働く負担を考慮したため)、観光客の寺院見学・撮影への規制(住民の参拝を妨げないため)、公式の場での民族衣装着用の義務付けなどがあります。「国民が必要と感じたときに必要なだけ開発をおこなう」という姿勢には惹かれるものがあります。どの国もが簡単にできることではないですが。

 また初めて知ったのですが、ブータンでは河川を利用した水力発電が最大の産業とのこと。ヒマラヤの自然を生かした経済政策であるので環境保護も重視しており、国土に占める森林のパーセンテージ(下限)が決められたり、環境を劣化させる工業・商業活動の禁止が法律で定められているそうです。

「ヒマラヤが聳え、雨雪が降り、森林が茂る限り、わが国は安泰であり、政府はそうあるように努める」

 という第四代国王の言葉には重みが感じられました。

 外交については、主にインドとの近年の関係が語られています。
 1949年、インドがブータンの外交権を持つという、いわば不平等条約が結ばれます(インド・ブータン条約)。その後、インドの援助を受けながら、意向を重視しながら、しかしブータン独自の意見を表明しつづけるという地道な方法で友好国としての立場を築いていく。そして、2007年に外交権に関する条項が廃止されるに至ったという(かなり端折りましたが)、この粘り強さには感嘆しました。思えば、かつてのシッキム然り、ネパール然り、難しい地域なんですね。
 また、ブータンは君主制から今年2008年に立憲君主制に移行する予定とのこと(このあたりの制度がさっぱりわからないのですが)。民主化の経緯はざっくりとしか書かれていませんが、小国の手探りの発展の様子は、何というか「国って本当に人の手が作るのだな」と感じられて読み応えありました。

 そして、待望(笑)のGNH。
 まずブータンにはこれに相当する特別の名前がないということを知って驚きました。直訳語が一応あるけれど使われず、演説などではただ「国民が喜び、幸せであること」と語られるそうです。
 宣言された当初、経済専門家からは「幸福をはかる尺度」がない、として懐疑的な意見が多かったそうです。そうだよなあ、と私も思いましたが、これに対する国王の答えも書かれていました。

「仏教国の究極目的として掲げたのが『国民総幸福』である。しかし、幸福(happiness)というのは主観的なもので個人差がある。だから、それは国の方針とはなり得ない。私が意図したことは、むしろ充足(contentedness)である。それはある目的に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが人間にとってもっとも大切なことである」

 抽象的な概念ではなく、実生活に即した考え方であることが素晴らしいと思いました。中身が決まらないうちから、やたら名前をつけたがるどこぞの国のお偉方とはひと味違うね!
 今では、GNHに類する考え方が他にも提唱されているそうで、少しばかり興味がわきました。

 終章にはブータンの首都ティンプの2007年春の風景が書かれています。
 2008年の第五代国王戴冠式(いつなんでしょうね。検索してみましたが「春から夏頃」としかわからなかった・笑)へ向けて整備される道路、都市、一方で首都では大仏の建立が進んでいる。民族衣装を着て、携帯電話でおしゃべりする人々もいる。この風景を見てみたいと思いました(好きなんです。ツボなんです)。
 ブータンにあって、他の先進国に足りないもの。世界が新しい「豊かさ」を得るために必要なこととして、著者が挙げた言葉が印象的でした。

「いかなる時、いかなる事柄に関しても『それが、より人間的であることと何の関係があるのか』という問いかけである」
(2008.4.11)

「中央アジアを知るための60章」 明石書店
宇山智彦 編・著   

   中央アジアを知るための60章【第2版】 (エリア・スタディーズ26)


18人の執筆者による記事を編集した体裁の本。シルクロードの時代から現代までの中央アジアの歴史、言葉や音楽、生活習慣の紹介、またソビエト崩壊後の各国の政治の変動が論されている。

 上に書いたように取り上げられている事項がともかく幅広いので、私のように「中央アジアってどこからどこまで?」という初心者でもざっくりと地域の全体像を描くことができます。「環境問題」「流行歌手」「最近の世界情勢との関わり」まで紹介してくれるのに驚きました。各章が4、5ページとコンパクトにまとめられ独立した内容なので読みやすいです。
 以下は邪道な読み方ですが、わたしは文化と民族問題、政治動向について知りたかったのでとりいそぎ必要な章だけ取り出して読んだりしました。
(2003.9.23)

「図説 モンゴル歴史紀行」 河出書房新社
松川 節 著   

   図説 モンゴル歴史紀行


アジアの草原地帯にいくつもの遊牧民族国家が興亡をくりかえした時代とモンゴル帝国の歴史を追いながら、草原と周辺国との交流で培われた文化を紹介する。

 匈奴、突厥、ウイグル、モンゴルという大勢力の興亡、遊牧民の暮らしや仏教の伝来という、文化の特徴的な部分がおおまかに紹介されています。中学以降、歴史の本から遠ざかっていた身には写真つきのざっくりした説明が嬉しいです。
 上記のような大きな国が草原を支配した時代の間には、小部族が肩を並べた時期がはさまっています。その流れを読みながら、何とたくさんの民族の名前と言葉が出てくるのだろうと驚きました。もちろん長い歴史のこと、既に今は途絶えた血筋まで含めれば、星の数ほど名前が上げられるのだろうと思うのですが。現在のアジアの地図に載っているいくつかの国名の中に、こんなにたくさんの異なる視点(民族)があると考えると、国境って何だろうなあと不思議になります。

 特に目をひかれたのが、18世紀に書かれた4言語(満州語、モンゴル語、チベット語、漢語)の対訳語彙集。これを持って旅した人がいたのか、それとも寺院や商人の家に置かれて遠来の客があるたびに取り出されたのだろうか。そんなことを想像しました。
(2005.3.26)

「モンゴル 甦る遊牧の民」 社会評論社
松田忠徳 著   

   モンゴル・甦る遊牧の民


モンゴルが社会主義体制下にあった時代から、その文学を翻訳、日本へ紹介してきた翻訳家の著書。作家たちとの交流を通して、訪れるたびに変化する近代モンゴルの姿を描く。

 政治向きの知識がないので、その方面の感想は省くこととして。……と言ったら、この本の肝の感想がなくなってしまうのですが。すみません。

 いくつか引用されている、かつて反体制と言われた作家の詩がいいです。難しい言葉もなく、誰が読んでも伝わる明快な比喩がちりばめられて、穏やかな力強さが感じられます。
 モンゴルでは1941年から1990年代初めまで、従来のモンゴル文字の教育がされなくなり、キリル文字(ロシアのアルファベット)が使われたそうです。上の詩を書いた作家は1982年に亡くなっているそうですが、この詩はやはりモンゴル文字で書かれたのだろうか、どんな思いで言葉を綴ったのだろうと、ふと思いました。

 国によって色んな社会状況があるけれど、何かを言えなくなることと、何かを言わせられることとはとても近いことなのかもしれない。
(2005.3.20)


「モンゴル帝国の興亡」 ちくま新書
岡田英弘 著   

   モンゴル帝国の興亡 (ちくま新書)


13世紀に誕生したモンゴル帝国はユーラシア大陸東西を結ぶ草原を支配し、その版図は北アジアのみならずロシア、東ヨーロッパ、北アフリカ、中東、インドにまで及んだ。その後の世界史に大きな影響を与えたモンゴル帝国の歴史を概説する。

第一章 モンゴル帝国の建設
第二章 元帝国の発展 
第三章 西方のハーンたちと明朝・朝鮮
第四章 オイラト時代
第五章 北元の復興


 序文に書かれた歴史観が独特で、目をひかれたので借りてみました。
 歴史には地中海世界、中国世界に起源を持つ2タイプがあり、その他の地方にはそのどちらかの亜種の歴史がある、という。

 同じ歴史でも、地中海では変化を主題とする歴史が、中国では天命の正統に変化がないことを主題とする歴史が書きつづられて十三世紀のモンゴル帝国の時代になった。

 ううむ、他の本と同じく過激(?)な歴史観だなあ、と思いつつも、興味深かったです。中国関係の歴史を読む時には覚えておこう。

 内容は、といえば。
 チンギス・ハーンから現代のモンゴルまで、新書一冊での大疾走。振り落とされそうになり、実際ところどころついていけなくて草臥れました(汗)
 でも、遊牧文明から見ると世界はこう見えるのか、と想像できて、それだけでも面白い。学校で習う歴史を裏から見るようなものですね。
 一方で、とことん「モンゴル系民族によるモンゴルの歴史」の描写。ここまで視点を固定すれば、確かに世界はこう見えるんだろう、とも思う。

 ヨーロッパからアフリカまで影響を及ぼした帝国のわりには、世界史の中の位置づけがわかりづらくて歯痒いです。学校で習う日本史が世界史とリンクしないのと似ているように思う――接しているのに、つながらない。接点に在る意義が一方の視点でしか語られない、という感じ。
 著者の言われる「中国型の歴史観」は、アジア史を見る上での大事なアプリケーションだけど、相当な情報量が抜け落ちるような気がして……あんまり、この著者の本ばかりを読むと危ないなあ。

 とはいえ、大疾走の本だからこそ俯瞰でき、感じるものもあって面白かったです。
 ハーンの直轄領と、私領が入り乱れた帝国であったこと、帝国の経済・軍事は直轄領民だけが負ったこと、財産の等分配が普通であったことなど、興味深い。また、ハーンではなく特定の大臣や諸王にだけ従属する民がいたことなど読むと、歴代中国の国々よりも中世ヨーロッパの封建制度の方が近いイメージではないかと思ったりします。そしてやっぱり、どう見ても元=モンゴルじゃないわな。


 以下は、覚書的ですが。
 人名や民族名の表記も気になってきました。
(これまでも何度か「おかしい」と読書感想の中で書いてきましたけど)日本人がモンゴルとか中央アジア、中国の本を読む時は、きっとカタカナ/漢字表記が混在する理由を常に意識しながら読むべきなのでしょうね。

 その民族が使った言葉や文字は何だったのか。
 ある表記を選ぶ根拠は何なのか。
 自称/他称のどちらなのか。

 本に書かれた言葉(漢字)は著者と読者の都合であって、当人が本当にそう名乗って、署名したとは限らないのですよね。あたりまえか。
(2011.2.20)


「西域 探検の世紀」 岩波新書
金子民雄 著 

   西域 探検の世紀 (岩波新書)


19〜20世紀初頭の西域は西洋世界からの探検隊が活躍する場であり、インドの富を求めて南下するロシアとイギリスがぶつかる係争地ともなっていた。そこでは銃火を交えることこそなかったが、情報・外交戦がおこなわれ、探検隊の調査は高度な情報収集作業でもあった。そこへ、アジアの新興国である日本が参入した――西本願寺による西域探検隊の派遣である。彼らに政治的な意図はあったのか、それとも純粋に学術的な調査隊であったのか。

序章 ラホール博物館―キプリングの「キム」―
第一章 情報戦の幕開け
第二章 西域発掘競争
第三章 西本願寺 西域探検隊
第四章 西本願寺 第二次探検
第五章 探検時代の終わり―西本願寺第三次調査隊―
終章 グレイトゲームに終わりはない


 「楼蘭」「莫高窟」といえばシルクロード、TV番組のテーマ曲しか知らなかったので、政治と考古学調査が関係ある、ということが意外で面白かったです。歴史を無味乾燥に語りたくないという著者の考えから、当時ヨーロッパでブームになった小説をからめて西域を語られています。また、探検家が残した手紙や紀行文を参照しながらの文章は明解で、読んでいて気持ちいいです

 日本の近代史に明るくないので、当時の日本に、アジア大陸のこんなに奥まで「大日本帝国」にする意思があったのか、なかったのか。想像もつきません。でも、当時の西域は緊張した地域であり、純粋に学術目的の調査隊であっても、それを信じてもらえる時代ではなかった、ということはわかりました。

 大国の進攻という構図は、昔も今も続いている(今のように鉱物資源や油田が目的ではなかったのでしょうが)。そこに争いがある限り、どんな現地調査も色メガネで見られるしかない。調査したいところへ行けない、なんて事態もあったはず。悔しがった人もいれば……もちろん冷や汗かいた人もいたのでしょう。
(2003.8.19)

「チベットの潜入者たち  ラサ一番乗りをめざして 白水社
P・ホップカーク 著 今枝由郎/鈴木佐知子/武田真理子 共訳

   チベットの潜入者たち―ラサ一番乗りをめざして


19世紀後半以降、中央アジアはロシア、イギリス、中国の注目する地域であり、西欧人未踏のチベットは探検家たちの憧れの地でもあった。外国人を受け入れないラサを見たいと、入国するための知恵を絞る探検家、宣教師、スパイ、登山家達。彼らの旅と、関係国のチベットをめぐる外交政策について書かれている。

 挑戦者たちの意欲、意外な工夫、滑稽なまでの熱意。それと外国人を拒んだチベットの意識のすれちがいのようなものが妙に心に残りました。
登山について「突飛ではあるが邪悪な意図はない」と説明するエベレスト登山隊、「キリスト教からはぐれた未開の人を救いたい」という宣教師、東洋の神秘に憧れた者の気持ちもわかる。一方、伝統と宗教を守りたいと願うチベットの姿勢にも感じるところがある。
「彼らの願いはただ、そっとしておいて欲しかっただけなのだ」という著者の言葉が切ないです。それでも20世紀に、そんなひっそりとした願いがいつまで叶えられただろうか、と複雑な気持ちも残るのですが。

 A・シャクルトンの南極行とも近い時代のこと、探検ブーム(?)の流れのひとつとして読んでも面白いのではないでしょうか。
(2004.7.5)

「ダライ・ラマの微笑
〜最新チベット事情〜
蝸牛社
牧野聖修 五十嵐文彦 共著

   ダライ・ラマの微笑―最新チベット事情
(2005.2.27)

「チベット 奇跡の転生」 文藝春秋社
V・マッケンジー 著  山際 素男 訳

   チベット 奇跡の転生


原題「Reincarnation」。1984年に亡くなったチベット仏教僧ラマ・イエシは、スペイン人の少年オセルとして転生した。外国、特に欧米人に対して仏教の教えを広めたラマ・イエシであれば不思議ではないが、しかし輪廻転生はほんとうにあるのか? 弟子のひとりであるイギリス人ジャーナリストが、ダライ・ラマ法王へのインタビューをまじえて、転生とその意味を考える。

第1章 ラマ・イエシとの出遇い
第2章 西洋が試金石
第3章 人間としてのラマ
第4章 ロシア王女、ジーナ
第5章 コパンの壮大な夢
第6章 再びコパンへ
第7章 ラマの死
第8章 死と再生
第9章 オセルの誕生
第10章 生まれ変わりはどこに
第11章 ブビオンの幼児
第12章 確証を求めて
第13章 ダラムサラでの就位式
第14章 ラマ・ゾパは語る
第15章 ダライ・ラマ法王
第16章 ラマ・オセルの物語
第17章 そして、いま


 この本、以前に見かけたことはあったのですが、題名を見て「あ、奇跡は興味ないから結構です」と思ってほとんど読んでいませんでした。もったいないことをしたな、と思うほど面白かったです。(正直、この題名は一見胡散臭くて、やめた方がよかったんじゃないかと……)

「転生」は本当にあるのか? 著者自身は「確信した」方ですが、それを信じる人、確証を持てない人、それぞれの言葉を知ることができるのがよかったです。
 型破りなやり方とその慈愛でもって、欧米の若者の心をとらえたラマ・イエシ。前半では、彼の言葉や魅力的な人柄を語るエピソードが弟子たちの証言とともに語られています。
 後半ではラマ・オセルの誕生・成長を見守りながら、転生とはどんなものか、何のために起こるのかを追求しています。

 ラマ・オセルのその後が気になってweb上を検索してみましたが、情報はあまり見つけられませんでした。
 しかし、訳者あとがきにあるように「彼がどんな人間になり、何を世界にもたらすかが大事」であり、転生ということにあまり囚われるのもいけないのでしょうね。

 題名を見るとオセルに注目した本のようですが、著者の書きたかったことは、結局は前半(ラマ・イエシとの交流)に集約されている気がします。一回読み終わったあと、試しに9章(オセルの誕生)から再読。最終章から巻頭にもどってラマ・イエシの成し遂げた事を読んでいくと、さまざまな言葉に初回とは異なる思いを抱くことができました。

 キリスト教文化の中で育った著者がラマ・イエシから受取った言葉は、仏教に馴染みのない私にとっても受け取りやすいものでした。個人的に目をひかれたのは、

「東洋的形にこだわる必要はありません。仏教が浸透したすべての文化は、おのおの仏陀を独自の形で描いています。西欧は西欧の仏陀をうめばいいのです」

「イタリア人の仏教儀式ではスパゲティを振舞ったらいいのに」などと破天荒な方だったらしい。

 そして、チベット仏教周辺でしばしば聞かれる「検証してください」という言葉がここにも書かれていました。そうか、自分のこの貧弱な頭脳(笑)で、胸を借りるつもりで体当たりしてもOKなんですね。
 それと同時に、理性だけでなく心に響いてくるあたたかな言葉も多かったです。

「あなた方は自分自身に対して限られたイメージしか持っていません。それがすべてのものの限界――愛の限界、智慧の限界、慈愛の限界のもとなのです」
(2003.4.12)

「チベット」 創元社
F・ポマレ 著   今枝由郎 監修  後藤淳一 訳

   チベット (「知の再発見」双書)


フランス人の研究者によるチベットの文化と歴史、2002年現在のチベットを取り巻く政治情勢など、幅広い内容をまとめた入門書的解説書。

 チベットとは、チベット人とは――言葉の解説から始まり、7世紀の仏教伝来以前の文化の説明、その後の仏教の波及とそれが政治と結びついていった歴史が前半にまとめられている。後半は、西洋がチベットとどのように関わってきたかについて。主に19世紀の中央アジアをめぐる西欧列強の抗争について書かれている。最終章では中国への併合の経緯と現代の状況について。

 監修者による序文にあるように、幅広い事柄がわかりやすく書かれており、写真や資料図も多くて手にとりやすい、まさに入門書でした。参考文献のいくつかは読んだことがあったので、それらを頭の中でまとめなおすことができました。どう考えてもこっちを先に読めばよかったです(涙)。
 仏教伝来以前の歴史については、神話の紹介、という形でしか読んだことがなかったので、その世界観が要約されていたのが助かりました。また、18〜19世紀の清との複雑な外交関係は、清側の見方も調べてみたいと思いました。しかし、漢字が苦手です(苦)。

 西洋人によるチベット探求をとりあげた章は興味深かったです。金や麝香といった富の宝庫として、あるいは野蛮な風習の未開の地として伝えられた国が、やがて東西交流が下火になるにつれて(西洋において)忘れられていく歴史には不思議な気分にさせられました。

 ただ、現代の政治問題に関しては、チベット視点しか書かれていないことが物足りなかったです。中国側からの見方を書かないのは公平ではないと思うので。前半がとてもわかり易くまとめられていると思ったので、もったいない気がしました。

 探検家スウェン・ヘディンによるスケッチや巻末に紹介されているチベットの詩人の作品は何とも美しいです。
(2006.10.1)

「図説 チベット歴史紀行」 河出書房新社
石濱裕美子 著 永橋和雄 写真

   図説 チベット歴史紀行 (ふくろうの本)


世界の創世神話から仏教の伝来、吐蕃(とばん)の繁栄と衰微、東アジア広域に影響力をもつ宗教国家として歩み、そして20世紀半ばに中国の支配下におかれてから現在までの歴史を、チベット文化紹介のコラムとともに辿る。

 神話に始まり、仏教の伝来と浸透、各宗派が発展していった流れがまとめられています。各宗派の成立、権力者との結びつきについて、かなりページ数が割かれています。
 17世紀以降、僧侶が世俗を統治するという独特の国家体制。国の中では僧院勢力の間の権力争いがあり、対外的には宗教的権威として周辺民族と関わってきたという歴史があります。支配、所領、国境という言葉で説明される国の形ではなく、別次元の権力を持つ勢力であったことが感じられました。
 曼荼羅の構造がざっくりとながら説明されていて、その考えに則ってつくられた「立体曼荼羅」としてのポタラ宮の解説も面白かったです。

 周辺諸外国とどのような関わりがあったかについては、少しもの足りない気がしました。「チベットから見た外国」という印象を受けましたので。「チベット」(創元社)の方が近隣諸国の中のチベットの姿を思い描きやすかったです。

 お寺はもちろん、仏像の写真が豊富。それも、日本のお寺にあるようなすっきりあっさり系ではなくて、黄金きらきら、極彩色がまぶしい……もちろん目は大きく太くて「ああ、インドに近いのだな」と思いました。濃ゆい仏像、結構好きです。
(2007.10.2)

「現代チベットの歩み」 東方書店
A・T・グルンフェルド 著   八巻佳子 訳

 現代チベットの歩み


チベットの初期の歴史の説明から現代の政治問題までが広く扱われている。

 チベットと中国の関係に焦点をあてる本が多い中で、この本は第三者であるいくつかの国の思惑とからめてチベットの歴史を考察しているところが興味深い。また、人口、輸出入高などの数字データが上げられていて状況を実感する手がかりとなっています。少々とっつきにくい印象を持ちました。
(2003.3.21)

「活仏たちのチベット
 - ダライ・ラマとカルマパ -
春秋社
田中公明 著

   活仏たちのチベット―ダライ・ラマとカルマパ


チベット仏教はアジアの歴史と社会の中でどのような役割を果たしてきたのか。転生ラマ制度が歩んできた歴史をチベットの地理条件、国政とからめて語る、チベット文化論。

第一章 プロローグ
第二章 古代帝国の栄光
第三章 仏教の復興と転生ラマの誕生
第四章 ダライラマ政権の成立
第五章 チベット動乱と転生ラマ
第六章 チベットの現在と未来


 平易な言葉使いや制度の特徴を説明するために喩えが用いられていて、門外漢にも読みやすいです。宗派の長の入れ替わり、存続を会社の成長や経営者交代になぞらえるなんて発想が面白い。一面をわかりやすくとらえていると思いました。また、チベットの将来について語った本では「どうあるべきか」と述べるものが多い中で、著者の考察の「どうなれば皆が得をするか」という観点が新鮮です。

(以下、2008.4 再読時追記)

 著者はインド、チベットの仏教および美術研究が専門の方。
 副題など見ると一見専門的な本かと思いますが、あとがきに「広く親しまれる本となることを期待する」と書かれているように、くだけた言い回しや俗諺を挙げた文章は読みやすいです。転生ラマ制度を歌舞伎や相撲の名跡にたとえたところは、お見事! と思いました。

 また、他の書籍では見たことのない考え方ですが、チベットにおける仏教は「単なる宗教ではなく社会システム」であり、「最大の産業」という一面があったと語られています。宗教に馴染みのうすい日本人も「これならわかる」と言える気がします(是非はともかく)。こういう面を忘れない視点が、私は好きです。
 最初に手に取る入門書とは思いませんが、2歩目、3歩目に読むと視界が広がって面白いです。

 教義そのものの説明はほとんどなく、チベット仏教が分裂、抗争をくりかえしながら成長、成熟してきた歴史が書かれています。支援者との結びつきが宗派同士の争いにも関係してきたという歴史は、なまぐさいけれど(え?)面白いです。

 また、チベットの厳しい自然環境と農業生産力の低さの中で出家が人口調節システムとなっていたこと、アジアの大国(中国とインド)の間にあって交易が盛んだったこと。宗教を輸出することで、いわば不労所得者(すごい言い方ですよ)である僧侶集団が社会発展に貢献することにもなったという考察。仏教がチベットの花形産業であったという説明には、なるほどと思いました。

 それと同時に。寺院が何百年ものあいだ社会システムとして機能してきたことを読むと、チベット人にとっては仏教は身に染み込んだものなのだろうな、とあらためて感じました。
 これだけの伝統があっては、宗教心のかたちが変化することはあっても、そう簡単に捨てることなどできないでしょう。こういうことは是非も思想も科学的根拠も関係ないのだな、と思います。

 2000年に出版された本なので、最終章に書かれた将来への展望は丸まま飲み込むわけにはいかないのですが、それでも「どうなれば皆が得をするか」という視点には、今も説得力を感じます。
 チベットは今後どうなるかと考えた時、この制度は近い将来に注目を浴びるだろうことは想像がつきます(今回再読したのも、そのためなので)。その時にはまた読み返してみたいと思います。
(2003.3/2008.4.1)

「チベットの少年-高僧の生まれかわり-」 世界文化社
I・ヒルトン 著
 ダライ・ラマとパンチェン・ラマ
(2003.2.10)

「チベットと日本の百年」 新宿書房
日本チベット行百年記念フォーラム実行委員会 編

   チベットと日本の百年―十人は、なぜチベットをめざしたか

(2003.1.19)
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