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歴史・文化(アジア) 6

「チベットに舞う日本刀
 ― モンゴル騎兵の現代史 ―
文藝春秋
楊海英 著

  チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史


日本の陸軍士官学校で学んだ最強の騎兵軍団、その悲劇の興亡。「日本刀」と「騎兵」が織りなすチベットとモンゴルの悲劇の歴史を、南モンゴル生まれの著者が、重厚で複眼的な歴史観に基づいて、現地取材も行ない再現する。

 戦中戦後のモンゴルと日本を描いた本を探して手に取りました。前からこの著者の本は気になっていたのでいい機会、それにモンゴル、チベットまで含めて中国の少数民族政策を浮き彫りにしており、そこも勉強になりました。

 大陸・満洲国でのモンゴル人と日本人の交流――独立国家を夢見たモンゴル人と騎馬民族の戦闘能力を求めていた日本人の蜜月期。日本人がもたらした教育、文化、近代的な軍隊が興安軍官学校のモンゴル人学生たちの民族自決の夢を育んでいた。しかし、日本が敗戦するとモンゴルは大国の都合で分割されてしまう。南モンゴルは生き残りのために中国への忠誠を示さねばならず、やがて「夷をもって夷を征す」という共産党の戦略に利用されてチベット侵攻にむかうことになる――。

 モンゴルの若者たちの民族復興への熱い思い、日本を通してもたらされる西洋近代技術への期待が痛いほど伝わってきました。当時を知る人物たちへの細やかな取材、さらに(著者の父親がこの世代なのだと思いますが)生きた話を聞けたことがこの本が生まれた熱量の元なのでしょうね。
 モンゴル人は決して小規模な民族ではなかったと思うのですが、もともと「国」でなかったことがこのような悲劇を辿った遠因なのか、と考えてしまった。もしも、世界中で近代国家が形成されていた時期に、草原を『国・国土』と表明していたら、終戦後に違う運命があったのだろうか、と。

 さて、モンゴル人の卓越した騎馬戦闘能力が日本によって近代的に統括された、おそらく東アジア随一の陸軍が中国に丸まま転がり込んだことが、さらなる悲劇を生んでいきます。
 モンゴル人が生き延びるために文化的に親類のようなチベットの制圧に力を貸していくという点が痛ましい。この人民解放軍によるチベット侵攻についてはチベット人、中国人の視点からの本も読んできましたが、あらたな視点を得てさらに立体的に考えることができるようになった気がします。

 印象的だったのは、「農奴解放」とお題目を掲げた人民解放軍の中でも漢民族とモンゴル人とではかなり違いがあったこと。

 モンゴル人は武器を捨てた男を無為に殺すことはせず、残された女子供に対しても無下にすることはなかったらしい(それに気づいて投降したチベット人も居た)。中国人の殺戮に「やりすぎだ」と憤怒し、生き残ったチベット人をこっそりと逃がしてやったモンゴル兵もいた。
 また、青海近辺のモンゴル人は同胞のいる人民解放軍に協力した者もいれば、文化的に近しいチベット人の側にたって戦った者もいた――つまり、同民族で命を奪いあう場面も多々あったのでしょう。
 他方のチベット人の方にも、もとより(中国兵には勝てても)モンゴル兵にはかなわない、という恐れがあったようです。チベット人が、同じチベット仏教を信奉するモンゴル兵を「ターラー菩薩の軍隊だから負けるのも仕方ない」と感じたエピソードも収められていました。いずれにしろ、遊牧を『反乱』と見做して遊牧民を殺したり、寺院を空爆し機関銃で掃射したのちに切り込むという陰惨な戦闘であった点には吐き気を覚えましたが。

 ひとつ、なるほどと思ったのですが。
 著者は青海地方を進軍した人民解放軍の作戦を綿密に調査しているのですが、その中で作戦名に使われた地域名称に注目しています。
 チベット人、モンゴル人が住む地域では、川や山、草原などの地名にもチベット語モンゴル語がつけられていました。しかし、人民解放軍はそこに番号(○○区画など)を振って進軍していったといいます。つまり、そもそもそこは「中国の領土」などではなかった。侵略行為だったことが明らかなのだ、と。


 読み終わって、これまで私がまったく知らなかった事情が戦後の中国大陸にあったことを知って愕然としました。そして、モンゴル人と日本人がかつてこれほどに密接な関係であったとは。
 私は比較的興味を持ってこの辺りの歴史を見ていましたが、それでも知らないことが多すぎる。この本に書かれたような歴史が戦後の日中関係の中で語られずに避けられてきたことに痛みを覚えました。中国の政治体制が変わらなければこれまで通りいつまでも隠匿されるだろうし、南モンゴルでは語り継ぐことも難しいほどに多くのモンゴル人が殺されてしまった。

 最終章で著者が日本に「自虐にも自尊にもなるな」と警告するのは、事実を知る自由のある国・日本への希望と期待なのだろう、と感じました。
(2019.1.15)

  

「日本陸軍とモンゴル
― 興安軍官学校の知られざる戦い ―
中公新書
楊海英 著

  日本陸軍とモンゴル - 興安軍官学校の知られざる戦い (中公新書)


1930年代に満洲の地で、日本陸軍が関与し、モンゴル人へ軍事教育を施す目的で作られた興安軍官学校。日本の野心と中国からの独立を目論むモンゴルの戦略が交錯する中から生まれた場所だ。本書は軍事力により民族自決をめざすモンゴル人ジョンジョールジャブや徳王らの活動、軍官学校生らが直面したノモンハン戦争から敗戦にいたる満蒙の動向などを描く。帝国日本に支援され、モンゴル草原を疾駆した人びとの物語。

序章  軍人民族主義とは何か
第1章 騎兵の先駆と可愛い民族主義者
第2章 民族の青春と興安軍官学校
第3章 植民地内の民族主義者集団
第4章 興安軍官学校生たちのノモンハン 
第5章 「チンギス・ハーン」のモンゴル軍幼年学校 
第6章 「草原の二・二六事件」と興安軍官学校の潰滅 
終章  「満蒙」残夢と興安軍官学校生の生き方


 かつて清朝の領土に組み込まれていたモンゴルが独立した国家建設を目指して日本と手を結び、しかし日本の政策変化と敗戦によって夢断たれていった経緯が描かれています。
 日本に留学し民族自決という希望を育てていた若いモンゴル人青年たち。しかし、日本人の中でもモンゴル独立について賛否は分かれており、結局は『日本の植民地としての自治』『二等市民としてのモンゴル』ばかりがモンゴル人に押しつけられていったことがよくわかりました。

幼少時から強烈な「モンゴル愛」を胸中に醸成し、青年期には日本でアジア主義の思想と民族自決の理論をジョンジョールジャブとガンジョールジャブ兄弟は学んでいる。 ……(中略)……しかし、人生最高の理念がそれを教えた側の人間の都合で折り曲げられた。


 結局、宗主国と植民地という関係性が生々しく生きていた時代である以上、いくら美しい理念が語られても絵に描いた餅以上にはならなかったのでしょうね。
 また、文化の違いも関係悪化の原因だったのかも。日本人の上官から「馬を貸せ」と迫られたモンゴル人が怒りをあらわにしたエピソードが書かれています。モンゴル人にとって馬は家族同然の戦友であり、個人の財産であることを日本人はまったく理解していなかった。そんな行き違いがあれば、仮に同等の立場の2国であっても協力することは難しかったのかも。

 結局、日本の敗戦とともにモンゴル人はある者はソ連へ、ある者は中国へ向かった。統一されたモンゴル国家という夢は四散してしまった。

 あとがきで著者はモンゴルについての中国の見解、日本の見解どちらも事実ではない、と語っています。つまり、中国は『悪いのは日本で、モンゴルは騙されていた。そのモンゴルを中国共産党が解放した』と主張し、一方の日本は『軍部の一部が満蒙独立という幻想を煽った』と反省して中国へ謝罪する――しかし、そこにモンゴル人自身の意志はまったく映されてはいない、と。
 モンゴル人自身が独立を求め、そのために日本を利用するも統一モンゴル建国を果たせなかった、という事実さえ消されてしまう。それが植民地となることか、と思ってぞっとしました。

 ふと目をひかれた箇所。こんなこと考えてたのか、昔の日本は。

……日本軍も壮大な戦略を有していた。南北には「ソ連、外蒙古方面からの赤化防止」と南京国民政府との交渉、東西のラインでは「中央アジア防共回廊の建設」計画を練っていた。モンゴル軍政府の支配地域から西の寧夏と甘粛、青海と新彊を通ってアフガニスタンのカブール経由でドイツと手を握る「欧亜連絡通路」という構想だった。


 多田等観や矢島保治郎がチベットを訪れた時期と近い気がするのだけど、そういう空気があったのかな。気になってきました。
(2019.1.27)


「世界史のなかの満洲帝国 」 PHP新書
宮脇淳子 著

  世界史のなかの満洲帝国 (PHP新書)


歴史の表舞台から消滅して60年。日清・日露戦争を通じて「10万の生霊、20億の国帑」によって購われた大地――。なぜ満洲に日本人が大挙して向かうことになったのか。清朝中国、モンゴル、朝鮮、そしてロシア。さまざまな利害と思惑が生み出した満洲帝国とは、いったいなんだったのか? その数奇な運命を詳細にたどる。

第1章 満洲とは何か
第2章 満洲の地理と古代
第3章 東アジアの民族興亡史
第4章 元朝から清朝へ 
第5章 ロシアの南進と日露関係 
第6章 日本の大陸進出――日清・日露戦争 
第7章 日露戦争後の満洲と当時の国際情勢 
第8章 満洲帝国の成立
第9章 日本史の中の満洲
第10章 日本敗戦後の満洲


 この前までに読んでいた数冊に登場する「満蒙」という言葉がどこかぴんとこなくて、「それ、いっしょくたでいいの?」と思ったので、少し別の視点の本を探してみました。

 かつて中国東北部に日本が建てた国家・満洲とはどんな国だったのか。それを現代の政治や思想をからめず、あくまで地域の歴史として捉えようとした一冊。というわけで、元朝や朝鮮半島、ロシアとの関係もからめて満洲と呼ばれた地域の歴史を辿っています。時間軸ではなんと中国文明のはじまりまで含まれていて、ちょっと遡りすぎでは、という気持ちもしましたが。

 モンゴルが外蒙古・内蒙古と分裂した経緯に清とロシア、あるいは日本や西欧列強の思惑が大いに関係していたことがわかりましたが、同じ理由で朝鮮人、満人の上にも混乱がもたらされていたことに嘆息。また、ノモンハン事件が象徴的であるように、ソ連、日本の代理戦争のような紛争がモンゴルと満洲で繰り返されたことを読むにつけ、「いや、いっしょくたはダメでしょ」とあらためて思ったのでした。

 満洲国の経済活動、文化・教育などを淡々とまとめた後半の章は興味深かったけれど、そこに辿りつく前が長くて、正直いって少々辛い。ウスリー江越えられずに力尽きそう。後半から先に読めばよかったな、と。

 あと、全体を通してあらためて思うのですが、やはり中国の歴史観というのは世界史の中では特殊なんですね。よく市町村で編まれる地方史の大スケール版みたいだと思いました。例えば、中国の歴史では元朝は滅びたことになっているが、それはあくまで中国地域(?)での話で、元朝皇帝は内モンゴルへ去っただけでその子孫も続いているわけで。他の世界史の記録と同じ読み方はできないことを心得ておかないと、と肝に銘じました。
(2019.3.3)


「墓標なき草原 〜内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録〜 上 」 岩波書店
楊海英 著

  
 墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上) (岩波現代文庫)


他に先がけて文革の火蓋が切られた内モンゴルでは、かつて日本時代に教育を受けた者たちが「内モンゴル人民革命党」一派として粛清され、階級闘争論によって漢族による草原の開墾とモンゴル族の迫害が正当化され、略奪と殺害がエスカレートしていく。悲劇の実態を、体験者の証言を軸に克明にたどる。

序章 「社会主義中国は、貧しい人々の味方」

第一部 「日本刀をぶら下げた連中」
 第1章 日本から学んだモンゴル人の共産主義思想
 第2章 「亡国の輩になりたくなかった」
 第3章 「モンゴル人は中国の奴隷にすぎない」
第二部 ジュニアたちの造反
 第4章 「動物園」の烽火 
 第5章 陰謀の集大成としての文化大革命 
 第6章 漢人農民が完成させた「光栄な殺戮」


 リンクは文庫版へ。
 前から気になっていた本で、連休はハードカバーも読めると手に取りましたが、やっぱり辛い内容でした。
「殺劫」で書かれたチベットでの文革の批判闘争や私刑の風景とそっくり。少数民族(とされた)が負わされた文革の爪痕は、同じ庶民ではあってもやはり漢民族のそれとは違う気がしました。そういう意味では、文革時代の新彊がどのような状況にあったのかもいずれ確認しておきたいです。

 内モンゴルが同胞の国と合流することができず、異民族異文化である中国内に留まらざるを得なかった経緯も複雑。背後にあるロシア、アメリカ、中国の思惑がこの地域を引き裂いたわけで。今の(北)モンゴルは、足を切り落とすように同胞の一部を切り捨てて袂を分かつ形でしか成立できなかったとも言えるのかも。

 また、これら大国に名を連ねていた日本は戦後は大陸から撤退したけれど、のちに多くのモンゴル人が「日本人と通じていた」という『罪状』で殺されたことを考えると、日本人はもっとモンゴルを知るべきではないかと思います。二国の歴史を功罪や感情論で簡単に解釈するのも問題だけれど、そもそもあまりに無頓着だったと自分をふり返りました。

 印象的だった話は「内モンゴルのシンドラー」と3章に書かれたモンゴル人医師・ジュテークチ。
 武器ではなく近代医学でモンゴル人を救おうと考えていたこの人物は、自身と同じように残虐行為によって重症を負ったモンゴル人を比較的安全だった自治区外の病院へ転院させ続け、同僚とともに2万人以上の命を救ったそうです。

 下巻も間違いなく辛い内容でしょうが。次の長期休暇に読もうと思います。覚書。
(2019.5.5)


「墓標なき草原 〜内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録〜 下 」 岩波書店
楊海英 著

  墓標なき草原――内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(下) (岩波現代文庫)


文革の凄惨な階級闘争は実は少数民族地域にも及んでいた。内モンゴルでは五人に一人が「民族分裂主義者」とみなされ、公式発表でも約三万人が殺害された。革命の聖地延安出身のモンゴル人共産主義者までもが弾圧の標的となり、粛清はより組織的かつ残忍になっていく。体験者の証言、同時代資料、国内外の研究を渉猟して隠蔽された過去を解き明かす。

第三部 根元から紅い延安派
 第7章 モンゴル人を殺して、モンゴル族の人心を得る 
 第8章 「モンゴル人虐殺は正しかった」
 第9章 「モンゴル人がいくら死んでも、埋める場所はある」

第四部 トゥク悲史
 第10章 「文明人」が作った巨大な処刑場
 第11章 「中国ではモンゴル人の命ほど軽いものはない」
 第12章 「モンゴル人が死ねば、食糧の節約になる」 

終章 スケープゴートもモンゴル人でなければならない 
視座 ジェノサイドとしての中国文化大革命
おわりに オリンピック・イヤーの「中国文化大革命」


 下巻は文革とモンゴルについて。でも、感想は2巻合わせてになってしまいました。
 下巻でも、毛沢東を頭とした共産党幹部の命令が末端の党員や庶民の間でどれほど残虐な事実を引き起こしたか、克明に書かれています。

 トゥク人民公社で起きた1969年の虐殺の記録他、生き残った関係者のインタビューが主体。破綻した思想の悲劇という面は当然あるけれど、少数民族地域で引き起こされた虐殺の記録を見るに、そこには異文化と異民族との軋轢という中国の歴史が大きく関わっていることを突き付けられました。

「゙文明的な漢人と野蛮な遊牧民゛という見方をもとにした、歴史的な対立の構図」とは最後の「視座〜」に書かれた著者の言葉。
 文明に内在する残虐性という視点に、私は最初は抵抗を覚えました。個人の行動と歴史認識をどこまで関連づけていいものか、と。
 しかし考えてみれば、政治思想とか一握りの政治家をきっかけに発動した残虐さには、発動の前に発生し膨れ上がる過程があったわけですよね。だからこそ、対立の先に和解も平和共存もない、という思考の袋小路に多くの人が囲い込まれていったのかもしれない、と感じました。

 中国に限らず、ドイツや日本、他の地域で起きた凄惨なできごとの種は平時からあるのだとしたら――平和な時代にも異常事態にも共通してある「何か」がいったい何であるのか、自問自答を続けることしか悲劇を避ける手立てはないのでしょうね。

 そして、あらためて今の中国について考えると、この自問自答を許されない事態に恐ろしくなります。

 この本は2008年北京オリンピックの翌年に書かれ、オリンピック・イヤーに起きたチベット騒乱や語っています。あれから10年あまり経つのに、2019年の今年も新彊ウイグル自治区では民族浄化としか思えない事態が続いている。この10年、中国は、国際社会は何をしてきたんだろうか。

 文革は終わったかに見えるが、国家による清算はなされておらず、いまだに文革を検証し語ることもできない。その意味ではいまだに文革は続いている、というモンゴル人の言葉が重く胸に残りました。
(2019.12.26)


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