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歴史・文化(日本) 1

「沖縄の城ものがたり」 むぎ社
金武正紀 田名真之 知念勇 当真嗣一 共著

   沖縄の城ものがたり―世界遺産推薦


沖縄の六つの城(首里城、今帰仁城、南山城、座喜味城、中城城、勝連城)をとりあげて、石積みやアーチなど琉球独特の技法を紹介する。また、城周辺に残る文化遺産、遺跡からの発掘品、絵巻物などを通して、沖縄の人々の生活と歴史を辿る。

 小学校高学年くらいが対象の児童書でしょうか。『しゅりじょう』なんて書かれてます (^^)。
 取り上げられているのは7世紀頃から三山時代を経て、琉球王国が終わりを迎える1879年まで。題名が『ものがたり』となっているように、歴史上の人物や出来事がわかりやすく挿絵つきで書かれてます。阿麻和利、攀安知――私は初めて聞く名でしたが、地元の小学生には馴染みの人物なのでしょうか。

 城壁の写真目当てで手にとりましたが、他に上空から城全体を撮影したものなど、周辺の地形がわかる写真があるのがよかったです。1988年発行の本なので、今では周辺の風景もずいぶん変わっているようですが。緑にのまれそうな遺跡の写真は幻想的といってもいいくらい美しいです。
 また、築城技術(土が流れないように行う基礎工事や礎石の配置について)にも触れられています。発掘段階ごとにどのような出土品があったのか、何を読み取ることができるのか――そんなことがざっくりとながら書かれていて、子供向けに丁寧に書かれた良い本だな、と思いました。
 発掘品の食器や美術品には中国風のものが多くて、写真を眺めていると交易が盛んだった様子が伝わってきました。

 いくつも取り上げられている歴史物語のなかで惹かれたのは、
・第二尚氏王統三代目の尚真と、その叔父で半年ほどしか王位についていなかったという二代目、尚宣威について。
・1609年に薩摩が琉球に侵攻したときの王、尚寧について。
・三山時代の中国(明)との関係。冊封について。

 中国が周辺の国々から貢物を受けたり称号を授けたという習慣には、チベットの歴史を思い出しました。こちらは元の時代の話ですが。
 当時の中国の大国っぷり、世界の中心であるという感覚を想像したら、眩暈がしました。
(2008.2.19)

「戦国の城を歩く」 筑摩書房
千田嘉博 著

   戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)


室町から戦国時代にかけて、政治・軍事の拠点として発展した山城。そこには社会の変化や大名たちの支配体制との関連がある。城跡を歩き、その形を見ることで、思いがけない新しい歴史像を読み取ることができる。

目次は

  第一章 城にたどる歴史
  第二章 城の探検
  第三章 花の御所から戦国期拠点城郭へ
  第四章 城の語る天下統一
  第五章 世界の中の日本の城


 第一章は城を研究することの意味、縄張り(城の平面配置)調査と発掘調査について。
 第二章は実例を挙げながら、城の縄張りの見方について。
 第三、四章は室町〜戦国時代の社会状況と、戦国期拠点城郭の出現について。
 第五章は城郭研究の方向について。

 高校時代の日本史授業のうすーい記憶を炙り出しながら読みました(笑)。

 第二章がとても面白かったです。城跡歩きの実例に取り上げられているのは富山県の城生(じょうのう)城。佐々成政によって改修されたのち、1585年に前田氏に攻められて落城するのですが、その最後の防衛のかたちを城跡から掴もうとします。

 城の外から門を通って本丸へ――現地を歩くように城の縄張り図を辿っていきます。守りの要所となる門周辺の曲輪(くるわ)の形、堀がどこで、どのように屈曲しているのか、地図と解説を照らし合わせながらゆっくり読むと、防御・抗戦の風景を思い描けるようです。
 また、進入を許した場合にはどのように兵を撤退させるか、ということにも触れられていて、そんなことは考えたこともなかったので(当たり前か)新鮮でした。「もし」「この場合」「この段階」と仮定した時の防衛線が見えてくる……ような気がして面白かったです。
 この城生城は防御に重点をおいた改修がなされたこと、つまり前田軍が撤退するまで城を守り抜く方針だったことが読み取れる、としています。

 第三、四章では縄張り図と文書、屏風絵などの史料を照らし合わせて、室町〜戦国時代の城の変化を追います。
 古代以来の経済構造がゆらいでいたこの時代、大名がめざした新しい支配体制はどのようなものであったのか――権力の集中を目指した織田信長の岐阜城と、家臣たちとの拮抗した関係の上に立っていた六角氏の観音寺城を比較して語られています。
 城の役割の変化と、新しい支配体制が整っていく時期が重なっている、という説明には何度もなるほど〜、とうなづいてしまう。

 個人的な人間関係を基礎にして権力を築く大名たちの中で、信長が組織的政治を行おうとした、という説明は面白かったです。この時代の人々の目には、信長はどんな人間に見えたんでしょうね。現代でいうと、古風な商売の義理などすっぱり捨てた、新しいタイプの企業家のように見えたのだろうか、と想像してしまいました。
(2008.3.10)

「包み結びの歳時記」 福武書店
額田 巌 著

   包み結びの歳時記


しめ縄飾り、袱紗、祭りの鉢巻……日本の行事、慣例に現れる様々な結びと包みの形。そこに込められた意味を民俗学的な視点で読み、分類し、日本文化を形づくってきた結びと包みの知恵を紹介する。

 風呂敷包みや水引の美しさに惹かれてこの本を手にとったのですが、肝心の包み・結びに関してより気になったこと。
 約100の事例が挙げられているのですが、私の暮らしにありそうなのはお歳暮や水引などのたった20だけ。亥の子餅包みなど、本で読んだり聞いたことのあるものを含めても半分くらいしか知りませんでした。知っているのは正月、冠婚葬祭関係くらい。農作業に関わる風習は全滅でした。これも相当情けないことで(汗)。
 包み・結びに込められた「護る」「区切る」「閉じる」「(関係を)結ぶ」という意味を読みながら、自分の知っている事柄と結びつけていくのは面白かったです。実感としてわかる事例は20ほどでしたが、そこから他の事例について、こんな願いのこもった習慣だろうか、と想像を働かせることのできるガイドブックのような本でした。
(2005.7.14)

「職人と語る」 小学館文庫
永六輔 著 

   永六輔・職人と語る (SERAI BOOKS)


陶器、織物、竹細工など日本人の生活の中で使われてきた日用品をつくる職人たちとの対話集。

「職人とは実用品を作る人」、作家とは異なる職であると説明して書かれた本です。 それぞれの職人さんのこだわりどころを知るのも楽しかったですが、特に惹かれたのは「新しい職人集団をつくる人たち」という章でした。

 著者は「社会からの必要性が低くなってきた時、職人はどんな努力をするのか考えて欲しい」
「その努力のあり方は、国際化する社会の中で日本の伝統を保っていくヒントとなる」と語り、岐阜の工芸村オークヴィレッジと島根の出西窯という、ふたつの集団の試みを紹介しています。

 前者では、伝統的な技術の合理性を理解した上で(単に昔からある、ということに価値を置くのではなく)、現代生活の実用品として道具、家具、家を作っています。
 百年かけて育った木を切るから百年使えるものを作ろう、という目標、さらに森を切るかわりに木を植えていくという活動もすばらしいことだと思います。
 また、出西窯は日本民藝運動の考え方「無名の職人による実用品の中に美がある」に共鳴して作り続けている陶工集団。
 出西は紙漉き、鍛冶、藍染など職人が多い土地柄だそうです。「いろいろな職人がいることで材料の無駄がない」「使い手にとっても、生活の中にいろいろなものを取り入れて手作りの良さをわかってもらいやすい」という言葉には素直に頷けました。
 手作りのものは高価になって売れにくい、という現実問題にも触れられていました。伝統的なものと新しいものの両方をつくる、販売経路を再考する(卸問屋を通す長所と短所)ことについて、職人さん側の意見を読めるのが嬉しかったです。

 こんな風に技を残していく道が探られているのは嬉しいことですが、一方に別の事態があることも書かれています。
 良い仕上げの柱をつくるために必要な鉋がある。その鉋を研ぐためには、人工石ではなく天然砥石がいい。その砥石は山には在るけれど、採算が合わないために切り出されない。
 また、伝統的な手法で古寺を修復しようとする時、使われる道具に若い職人は慣れていない。その道具をつくる鍛冶職人が少ない、二度と作る機会がないから作り方が伝わらない。
 ひとつの技術が失われると、繋がっていた他の技も廃れていく、という言葉は切実でした。

 私は学生生活を終える時に、この本に書かれているような職人さん(染織屋)のもとに入るという選択肢もあったのですが、結局それを選ぶことはしませんでした。食べて行かれるとは、当時はとても思えなかったので。ですが、こういう本を読むと、今でも職人さんに対して親近感と憧れを感じます。

 昔と変わらない美しさと昔はなかった味わいを両方知っている、新しい職人さんが育っていて欲しいと願います。
(2006.12.20)


「鍛冶屋の教え
  横山祐弘 職人ばなし
小学館文庫
かくまつとむ 著 

   鍛冶屋の教え―横山祐弘職人ばなし (小学館文庫)


茨城県に四代続く野鍛冶の語る、鉄と道具の話の収録。

「(現代は)製品だけがぽつんと消費者の前にあって、いつ、誰が、どのような方法で生産したかわからない。技術のブラックボックス化である」

 鍛冶屋という仕事の内容も面白いのですが、道具を通して使い手の姿を見ようとする職人さんの姿勢がいいなあ、と思いました。こういう人はどの職種にも居られますけど。
 大量生産の安い道具がもてはやされるようになって、時代は変わったと横山氏は言っていますが、今はまた少し変わってきたのではないかとも感じます。最近の作家ブームを良いとも悪いとも言えませんが、「使い手の自分を気遣って造られたものを欲しい」と考える風潮は、以前より大きくなってると思います。

 だからこそ、取材にあたった作者の上の一言が印象的。耳に痛い。使い手は作り手に気遣ってもらうことを安易に望みます。でも、腐心して造られた物の工夫に気づいたり、活用する手を持っているのだろうかと考えました。自戒でもあります。
(2005.7.9)

「ニッポン鍛冶屋カタログ」 小学館ショトルシリーズ
かくまつとむ  撮影・大橋弘 

   ニッポン鍛冶屋カタログ―野の匠の知恵と技を手に入れる (ショトルライブラリー)


月刊「ラピタ」に載った連載をもとに構成。尋ね歩いた全国の鍛冶屋の中から、家庭で使われる道具を生産している職人を選んで紹介する。

 巻末に簡単な用語辞典もあって素人には嬉しい本ですが、何より写真に感動しました。刃物の重みや色合いが伝わってくる、また、職人さんと家族や近所の人との撮影もあって、町の暮らしの中の鍛冶屋の空気を伝えてくれます。気に入った道具はですね……

1) 千葉で作られた大包丁。
 漁師が魚をさばいたり、薪を割るのにも使ったという鉈兼用の無骨なもの。

2) 高知で作られた肥後守。
 硬軟の鉄を重ねて文様を浮かび上がらせた品。ダマスカスという鋼材が美しい。

3) 2と同じ鍛冶屋さんの山師鉈。
 黒くごつごつした地金と研ぎ出された鋼の対比が強烈です。
(2005.7.9)

金属の文化 2
「鉄の博物誌」
朝日新聞社 

   鉄の博物誌―もっとも身近な金属 (シリーズ金属の文化 (2))


取り上げられているのは橋、鉄塔などの構築物から、箪笥や茶釜、芸術作品の鉄。
鉄を様々な形に作る文化を幅広く紹介する。

 釜や装飾品といった鋳造品、刀のような鍛造品をバランスよく取り上げています。名前もしらない農具も多いので、写真がありがたい。しかし、鉄のオブジェ作家の紹介は要らなかったのではないかな。アールヌーボー時代の作品なら普遍性もありますから、博物誌という題名にもふさわしい、とわかりますが……
(2005.7.9)

日本の文化をさぐる 7
「鉄の文化」
小峰書店
文・窪田蔵郎 絵・稲川弘明

   鉄の文化 (図説 日本の文化をさぐる)


古代文明時代の世界の鉄と、日本の製鉄の歴史について。

 たたら場の構造や、そこで働く人の組織まで説明してあります。子供向けの本なので、細かく読み仮名が振られているのはありがたい。児童書、万歳だ(笑)。
 この本だけの感想ではないのですが。この数年、鉄の本を読み漁っています。現代の鉄工所で生まれる様々な鉄材。古来の手法で作られる和鋼と、それに精神的な価値も置き続ける日本刀。町工場として操業したり、小規模で働き続ける鍛冶職人たち。鉄は人間の技術進歩によって形を変え、その鉄によって人間の暮らしも変わる。この材料に関わるさまざまな営みを本に読むと、あらためてユニークな材料だなと思います。
(2005.7.9)

雄山閣BOOKS 26
「鉄の社会史」
雄山閣
斎藤 潔

 鉄の社会史 (雄山閣BOOKS)


鉄山と周辺農村社会との関わり、鉄山経営者の視点をふまえながら、たたら製鉄の歴史を辿る。

 著者は八戸藩の製鉄史について調査研究しておられるようで、この本はどの項も東北と中国地方の鉄山、両方を例にあげて書かれています。とてもわかりやすく、また鉄山と周辺農民との交流についても丁寧に触れられていて、その時代を思い描くことのできるのが嬉しかったです。

 鞴の種類とか媒溶剤として貝殻や石灰石を投入するなど技術的な話も収められていますし、その鞴を何人くらいで踏んだのか、労働者たちの生活はどんなものだったか、二地方の史料から調べられています。
 特に興味があったのが鉄山経営の話。働き手をどうやって確保するか、どのようにして山内を統括するのか、また藩とどのような関係を結ぼうとしていたのかが書かれています。

 ちょっと面白いな、と思ったのが、たたらの設置場所について。「砂鉄七里に炭三里」と言って、砂鉄は7、炭なら3里以上遠くから運ぶと輸送費がかかって採算がとれない、としていたそうです。前に読んだイギリスの製鉄事情にも同じような例があって、木炭はできれば5マイル以内で、無理でも10マイルまでのところから運びたいものだったようです。3里は約11.7km、10マイルは約16km。輸送方法や地形が違うだろうので、あんまり意味がないかもしれませんが、ま、だいたいこれくらいが望ましかったのね、と頷いておりました。後者の例では「輸送に時間がかかると炭が古くなる、砕けて適当な大きさではなくなってしまう」のが理由に挙げられていました。日本ではこんな理由はなかったのかな、と気になりました。
(2006.1.2)

「鉄の文明史」 雄山閣
窪田蔵郎 著 
鉄の文明史
窪田 蔵郎
雄山閣出版 1991-07

by G-Tools
西アジアから中国、韓国そして日本でどのように鉄が作られ、使われてきたか。その歴史を、遺跡や現地の言葉を調べながら辿る。

 著者が鉄鋼業関係に勤めていた方とのことで、鉄生産の技術的な話がメインなのかと思ったのですが、それだけではありませんでした。化学的な隕鉄の話からシルクロードの各地で鉄が何と呼ばれていたか、という民俗史のような視点もあり、そのさまざまな鉄の捉え方が魅力的。現地の言葉や民話の表現から、どんな鉄が産出されていたかを推測できるというのが素人である私には面白かったです。
(2005.5.5)


「絆 ―いま、生きるあなたへ」 ポプラ社
山折哲雄 著 

   絆 いま、生きるあなたへ


2011年3月11日の震災によって誰もが、生きるとは、死ぬとはどういうことか、根源的な問いを突きつけられた。「方丈記」「立正安国論」に描かれた大地震の様を通して、日本人の自然観、死生観を語る。

第一章 災害とともに生きてきた日本人
第二章 私の身近に存在した「病」そして「死」
第三章 インド人の死者儀礼
第四章 日本人のゆく浄土
第五章 仏陀と親鸞と--日本人の死生観について


 一章は先日、TVのインタビューで聞いたのとほぼ同じ内容でしたので、日記から抜書きします。


 阪神、中越、そしてこの東北の大震災。これらの被災者の表情を見てきたが、共通して穏やかであることに驚かされた。これは偶然ではなく、日本人がもつ自然世界観と関係があるのではないかと考えるようになった。
 日本は古代から災害が多く、その経験から二つの無常観――滅びゆくものへの同情と共感を抱く暗い無常観と、四季が移ろいながら再び甦ることを知っている明るい無常観を持っている。「無常」を知る感性は、仏教が伝来するはるか前から育まれていた。

 また、日本人は「死」に思いをはせる民族だった。
 たとえば、万葉集。恋愛の歌が広く知られているけれど、実は半分以上が死者を悼む挽歌である。万葉の時代から、人々は災害とともに生きて、歌をつくることによって死者の魂が海や山に静まる――魂の行先をイメージした。
 現代の日本人は、この「魂の行方」に対する感性が衰弱している。失くした、と言ってもいいほどだ。
 大災害の中で、人と人とのつながり(絆)が注目されている。だが、それに加えて「死者との絆」が回復されないと、被災した人々の心は癒されないと思う。そのことに対する配慮が社会的になされていないことが問題だ。

 日本人の災害の受け止め方には、今後大きな可能性がある。
 西洋的な近代文明に対して、無常文明ともいえる日本の精神文化。この間にどのように橋をかけられるか? これが次世代への問題になるだろう。


 そして、本では日本の過去の災害について触れられています。
 鴨長明が「方丈記」で描いた都の大震災後の風景、日蓮が鎌倉大地震のあとに見たことを通して書いた「立正安国論」から読み取れる、災害の受け止め方について。また、「昭和三陸地震」「陸羽地震」の時代に生きた宮沢賢治の世界観についても触れて、「災い」に対して日本人がどのように生きようとしたのかが語られていました。

 二章以降は、おもに仏教を軸にして死や死後への関心、インドにある四住期という生の捉え方について語られています。

 特に印象的だったのは、ひとつはインドのヒンドゥー教の聖地ワーラナシの風景。
 川の片岸にだけ発展したような不可思議なつくりのこの町。多くのヒンドゥー教徒がここで家族に看取られて、死んでガンジス川に葬られることを夢見ているのだそうです。生者はやがて自分がそこに行くだろうこと、死者と生者の世界を川が流れるように魂が循環すると信じている、という死生観に圧倒されました。

 もうひとつは、1980年に著者がマザー・テレサと面会した時のエピソード。70歳を越えていたマザー・テレサがとても活動的で、快活であることに驚いたそうです。

 一般に、聖者というと、静かで不動というイメージがつきまといます。しかし、もしかしたら、本当の聖者というのは活動的で快活な人間ではないのか。死という世界にたずさわる、末期の人の看取りをする、それはしずかで平安なだけが特徴の聖者ではつとまらないのではないか。マザー・テレサのあれだけの仕事の背後に、彼女のさまざまな人間的な資質が作用していることを考えないわけにはいかなかったのです。

 災害をとおして、日本人の死生観に思いをめぐらせる――難しい内容だけれど、時に歌謡曲まで例に挙げるような(!)やわらかい文章で、一冊堪能しました。
 ほんの半年前の大災害と、900年も昔の災害とを並べて語る、これは学者の視線だな、と思います。学問の世界の冷静さを「現実には役立たない」と批判することもできるでしょう。
 でも、私はこの本に冷たさはまったく感じませんでした。
 読んだ誰もがこんな言葉を受け止められるには、まだ何年もかかるでしょうが。それでも、こういう本を読みたくて待っている人もいるだろうと思う。そんな人のために書かれたかのように、穏やかな深い語り口でした。
(2011.9.20)
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