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歴史・文化(日本) 6

 

「「ザ・タイムズ」にみる幕末維新
   ― 「日本」はいかに議論されたか ―
中公新書
皆村武一 著

   『ザ・タイムズ』にみる幕末維新―「日本」はいかに議論されたか (中公新書)


「ザ・タイムズ」には1852年から1878年の26年間に450の日本関係記事が掲載されている。この時期はペリーの浦賀来航から西南戦争、大久保利通の暗殺事件に当るが、政治・経済・文化・風土は勿論、単に異国の紹介というに止まらず、1864年の薩英戦争については、イギリス議会の議論内容を詳細に報道している。同時代外国紙が報道した、国際社会に入って激動する日本の姿を、他の外国人の見聞記などと合わせて描く。

第1章 鎖国から開国への道程
第2章 日本に開国を迫る欧米諸国
第3章 薩英戦争とイギリス議会
第4章 日英通商条約とイギリス議会
第5章 異文化接触と文明開化 
第6章 政治・経済を変えた開国 
第7章 文明開化の恩恵いずこ


 タイムズの記事は思ったよりも少なく、外国人の目から見た幕末という感じは薄いです。けれど、これまで知らなかった視点があって面白かった。

 特に、3〜4章を読みながら今更のように気づいてしまったのですが。
 よく明治時代についての本で、当時の日本は『一等国を目指して』とか『欧米と肩を並べることを目標にした』というような文を見るのですが、これに私が漠然と思い浮かべていたのは、技術を磨いて認められるようになる、くらいのことだったのです。……が。
「万国公法」では世界を文字通り一等国、二等国と区別して、未開国なら占領して領土に加えていい、と明文化していたんですね。帝国主義という言葉を見聞きはしても、実態についての知識はあっても、そこに法的根拠があったとは思っていませんでした。

 この本を読むと、議会では「鹿児島の町を焼失させたのは文明国の行為として適当であったか否か。戦闘行為の責任は軍人個人にあるか否か。賠償を薩摩と幕府両方に求めるのは適法なのか」と、みっちりと議論している模様。
 そうか、法というものにここまでこだわるのか。そして、適法ならば正当、とこうも自信たっぷりに主張できるのかと驚いた。欧米での、法というものに対する概念ってこういうものなんですね。さらに、そこに「未開地の占領、文明化は神から託された使命」という考えがかぶさってくる。倫理、ヒューマニティというものの考えが今とはこんなにも違うのか、と生々しく感じましたね。

 でも、こっちはいい迷惑だわさ。

 さて(汗)、開国によって日本の経済がどれほど激しく変化したかを表す数字もありました。
 例えば、米の相場は6〜7年の間に9倍も上昇。横浜にやってきたイギリス船の数は最初の年はたった2隻だったのが、4年後には100隻に。また、進歩的で知られる島津斉彬が織機を導入すると、これまで手織りで1年以上かけて生産していた数の反物が半年足らずで出来てしまった、と。

 ものの値段だけ見ても激変ぶりがわかる。また、最後の織機の例では機械が高性能すぎて、原料の糸がなくなる、買い手がつかない、織り手が失業した、と。経済バランスがまったく取れていなかったんですね。

 この話とも関連があるのですが、終章では、幕末期に重要な役割を果たしていた薩摩藩がなぜその後に文明開化の恩恵に浴して発展することができなかったか、と論じられています。
 理由として挙げられていたのが、士族階級を解体することができず、明治が進んでも旧体制が残っていたこと、そして多くの若者が戦死したこと。また、技術導入が早すぎて社会と噛みあわなかったことも挙げられていました。

 突出して優れた技術があっても、周囲との連係がとれなければ、その良さは生きないのですね。なんというか。周辺ソフトとの動作保証がなくて世界中から嫌われてるwindows10を思い出しちゃったりして。窓機ばかり立派になっても売れないんだよ、ぶつぶつ文句(笑)
(2016.6.7)


「英国人写真家の見た明治日本」 講談社学術文庫
ハーバート・ポンティング 著  長岡祥三 訳

  英国人写真家の見た明治日本 (講談社学術文庫)


「In Lotus-Land Japan」の抄訳。スコット南極探検隊の映像記録を残したポンティングは、世界を旅し、日本を殊の外愛し、この世の楽園と讃えた。京都の名工との交流、日本の美術工芸品への高い評価。美しい日本の風景や日本女性への愛情こもる叙述。浅間山噴火や決死の富士下山行など迫力満点の描写。江戸の面影が今なお色濃く残る百年前の明治の様子が著者自らが写した貴重な写真とともにありありと甦る。

第1章 東京湾
第2章 京都の寺
第3章 京都の名工
第4章 保津川の急流 
第5章 阿蘇山と浅間山 
第6章 精進湖と富士山麓 
第7章 富士登山 
第8章 日本の婦人について
第9章 鎌倉と江ノ島
第10章 江浦湾と宮島


 これまで読んでいた時代より後の、明治後半の日本の旅行記です。

 原著は全20章で、そのうちの約半分を訳出した本。著者は1902年から06年の間に三度、合計すれば3年ほど日本に滞在して関東、関西、九州を、また日露戦争の従軍記者として旅順なども訪れています。

 富士山登山や京都の保津川下り、宮島など今でも定番の観光地へ出かけているのですが、著者の好奇心旺盛な様子が楽しい。30代前半のはずですが、えらくはしゃいでいますね〜(笑)。写真を見ると人力車を自ら引いてみたり、浅間山の火口をのぞき込むなど何でもやってみずにはいられない性質だった様子。通算約3年という滞在の間に日本の風習に慣れ、かんたんな日本語会話もしていたようで、地元の日本人との自然で和やかな交流がうかがえました。

 抄訳というのはもったいない。全部訳してもらえないかしら。原書読みもこういうジャンルはちょっと私の手には余りそうなんですよね。

 読んでいて楽しかったのは、富士山、浅間山、阿蘇山への登山の章。
 ちょうど浅間も阿蘇も火山活動が活発な時期だったようで、ガスは上がるわ石は降るわという状況で帰りたがる日本人人夫をなだめたり脅したりしながら登山しています。当時の感光板カメラが硫黄を含んだ蒸気で銀が傷んでダメになってしまった、というエピソードにはびっくりでした。そして、富士山頂からの眺めは白黒写真も説明も美しいです。

 また、京都の伝統工芸の職人を尋ねた章も。
 当時の京都に多くの外国人が買いつけに訪れていたことが工房に英語の表札があったことからもわかります。でも、職人側も金次第でなんでも売っていたわけではなく、よい品は一見さんには見せなかったのですね。
 そんな中で著者が審美眼を磨きながら七宝師・並河靖之のもとを訪ねた話が面白かった。
工房の雰囲気や並河氏の応対、緻密な工程を経てどれほど美しい作品が出来上がるか、それが安物とはどのくらい違うのかを丁寧に描写しています。
 これほど真剣に見てくれるなら、職人がいい作品を見せてくれたのもわかる気がしました。

 また、日露戦争時期の章では、兵隊や彼らを送り出す妻や母たちが笑顔の下に涙を隠していたことを細やかに綴っています。また、赤十字社での上流階級婦人らの献身的な活動も写真に収められていました。

 それにしても、この時代の欧米人が持っていた東洋への偏見が著者の視線にないことが一番の驚き(少しばかり日本賛美が過ぎる気もしましたが)。日本の習慣の理不尽や人の狡さのようなものを見なかったわけでは無さそうなのに。
 それでも、道端に疲れて佇む少女を見て「大変そうだな」と感じて馬車に同乗させる――そんな小さな出来事とそれを思い出させる記念の布きれを大切にする、という細やかな言葉も印象に残りました。
(2018.4.7)

 

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む 平凡社ライブラリー
宮本常一 著

  イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む (平凡社ライブラリーoffシリーズ)


宮本常一が所長をつとめた日本観光文化研究所で行った、イザベラ・バード著『日本奥地紀行』講読の講義録をもとに編まれた。明治期のイギリス人女性旅行家の目で見たなにげない記述の中から当時の人々の暮らしや慣習のありようを読み取り、関連する、自身のフィールドワークから得た膨大な知見を圧倒的説得力を持って紡ぎ出してゆく。


 紹介文は講談社学術文庫版から。明治10年頃に日本各地を旅した英国人冒険旅行家イザベラ・バードによる旅行記「日本奥地紀行」の購読会の記録です。
 民俗学者の宮本氏(自身もフィールドワークで日本中を歩いた)がバードが見聞きした風習や生活風景を解説しています。日本人でも知らない事柄の由来、文化の伝播が話し言葉で書かれていて取っつきやすい。旅人が異国の風習に驚く視点と、それを読み解く知識を持つ視点。この二つを一度に味わえる美味しい(?)本でした。


 外国人女性が安全に旅できるのはイギリスと比較して驚くべきことであること、日本の馬は小さいが気性が荒くて乗るのに苦労したこと。各地では『異人さんを見るなど二度とないかも』と群衆が集まってきたこと、病人を治して欲しいと度々連れてこられたこと、出会った記念(?)に蚊帳の隅や自分の髪の毛を切って彼らに渡したこと――。

 こういった小さな出来事を書き残したバードと、それを紀行文の中から拾いあげて現代の感覚との違いや思い込みを解きほぐす説明が面白いのです。

 特に面白かったのは、ひとつは当時の地理感覚。もうひとつは女性の社会的な地位。

 日本各地を旅する途中、警官に道を尋ねてもわからなかったというエピソードがあって、「そんなのありなのか」と驚いたのですが。
 当時の警官は元士族階級でしょうが、江戸末期〜明治の教育を受けても地元から離れた場所の地理はそれほど知らなかったのですね。ひょっとして日本全体、県・藩規模ではわかっていても地元の地理とのつながりが薄かったか、あるいは旅する人が多い地名しか感覚としてはわからなかったのかも。
 似たようなエピソードとして、著者が昭和30年代に新潟を訪れた時のことも書かれていて。新潟に住む人に長岡への道を聞いてもわからなかったそうです。おそらく警官ではなく通りかかった人に聞いたのだと思いますが、地名として知っていても自分の生活圏と関係ないとわからなかったのでしょうね。
 つまり今、自分が持っている地理感覚は、道路標識を掲げた道を車で移動する視点を得て身についたことなのかも。


 もうひとつ、女性の立場について。
 バードが泊まった宿屋の女主人が未亡人で家族を養っていたことから、明治の初めまで女性の立場はそう低くはなかったのではないか、と著者は考えたそうです。
 実際、明治以前の宗門人別帳では、まず戸主、次に女房、そして子ども、最後に老夫婦という順で書かれるのが普通だった。それが明治になって始まった戸籍では、戸主、その父母、伯父伯母そして女房、子どもとなる。その段階で、女の地位が下がってくるようになったのではないか――というわけです。

 ああ、今の法律上の妻の不利益(義父母の介護をしても相続権は無い、など)の一端はこういうところにあったのかも、と考えてしまいました。(現実はもっと複雑で、儒学の影響や子どもの地位など慣習的なことも影響してますが)


 それともうひとつ、秋田で西洋料理にありついたエピソードも印象的でした。

『おいしいビフテキとすばらしいカレー……(略)……それを食べると眼が生き生きと輝くような気持になった』


 そうですよね(笑)。ここで初めて西洋料理を食べた――ということは、道中の北関東などでは手に入らなかったのですね。


 山形よりも秋田の方が文化が進んでいたのです。ひとつは瀬戸内海からの船がそのままここへはやって来るが、山形へは陸路を通らないと文化が入らない、というようなことにも関係があると思います。


 当時の日本海の輸送力・その影響力は現在よりもはるかに大きく、それが各地方の文化を豊かにしていたことは現代の東京に生まれ住むと想像しにくいもの。今の東京一極集中の思想を大きくひっくり返す歴史があったのですね。

 当時の日本人との交流は「日本奥地紀行」を読む時のお楽しみにとっておきます。ただ、著者の『紀行文の読み方』はとても勉強になりました。

 彼女が旅に出て最初にぶつかったの問題は蚤だったわけで、外国人としてはおそらく驚いたことだろうと思うのです。(蚤が多いことについて)日本の紀行文にはほとんど出てこない。それは日本人にとって蚤のいるのが当たり前なら書かないのです。


 通訳の伊藤という青年の猛烈な勉強ぶりにバードは感心していたけれど、日本の歴史どこにも伊藤のことは出てこない。つまり、彼の勉強が周囲の人より群を抜くものであれば、どこかに残ったはずだが、残らなかったということは、彼の周囲に必死になって外国の文化を吸収しようとしていた人たちが当時の日本にはすごくたくさん出てきておったのだろうと思われます。


 彼女の調査を見ていると、ただ相手の文化を調べて奪い取るだけではなくて、返せるものはできるだけ返していこうという姿勢がある。


 これまで読んだ幕末&明治の日本探訪ものをもう一度ひっくりかえしてみようかと思ったりして。
(2018.4.28)

 

「イザベラ・バードの日本紀行(上) 講談社学術文庫
イザベラ・バード 著  時岡敬子 訳

  イザベラ・バードの日本紀行 (上) (講談社学術文庫 1871)


原題「Unbeaten Tracks in Japan」。1878年、横浜に上陸した英国人女性イザベラ・バードは、日本での旅行の皮切りに、欧米人に未踏の内陸ルートによる東京―函館間の旅を敢行する。苦難に満ちた旅の折々に、彼女は自らの見聞や日本の印象を故国の妹に書き送った。世界を廻った大旅行家の冷徹な眼を通じ、維新後間もない東北・北海道の文化・習俗・自然等を活写した日本北方紀行。

第1信 はじめて目にした日本の眺め――紙幣――他
第3信 江戸と東京――イギリス公使館――他
第6信 横浜山手――横浜の清国人――他
第9信 通行証――警官来訪――他
第11信 日光の美しさ――地震――他
第13信 商店と買い物――交通手段と料金――他
第14信 わたしの従者――馬のわらじ――他
第16信 高田の野次馬――イギリスを知らない――他
新潟での伝道に関するノート
第19信 仏教とローマン・カトリックの形式の相似点――日本人は「永遠の命」がきらい――他
食べ物と料理に関するノート
第23信 絹と養蚕――当世風の温泉場――他
第26信 久保田の病院――師範学校――他
第31信 どしゃ降りと泥道――困難な川下り――他
第33信 子供の遊び――有名なことわざ――他
第35信 女性の化粧――縁起・夢――他
第37信 なにもかも灰色――強風のなかを上陸――他




 東洋文庫の「日本奥地紀行」の新訳らしいです。体裁が持ち歩きやすくなり、字面も読みやすくて嬉しい(^^)。上巻では東京から函館へ向かう旅の青森までが収録されてます。

 著者がイギリスにいる妹に宛てた書簡なので、珍しい東洋の風物を絵でも見せるように描写しています(少々まどろっこしいけれど)。
 初めて目にするものに驚いたり、慣れない風習に苦労したり。発酵系食品とシラミにうんざりし、『未開の地』には正直いって手こずっている模様。それでも、行き会う人の好意や美しい風景に感嘆しています。

 また、漠然と著者は若い女性、というイメージを持っていましたが、実はこの時(1878年)で47才。勇気と気骨があるなあ。
 探検旅行のスタイルも確立していて、装備の軽量化のために食料はほとんど持って行かなかったようです。現地のやり方に慣れるのが一番なのかな。とはいえ肉や卵を食べられずに苦労したよう。出発時に用意した食料が精肉エキス(なんでしょう?)、レーズン、コンデンスミルク、チョコレート程度って少ないですよねえ。行く先々で輸入食材の容器を再利用したうさんくさい瓶詰・缶詰にがっくりしたようです。冷凍餃子どころの話ではない。。。

 閑話休題。外国人は旅行するのに通行証が必要で、通るルートも決められている。しかも注意点が多い。

 通行証を所持する者は、馬上に火を携えたり、田畑、狩猟地に不法侵入したり、神社仏閣や塀に落書きしたり、細い道で馬を早足で駆ったりしてはなりません。日本人および日本の当局に対して礼儀正しくなごやかにふるまわなければならない。国内滞在中は日本人と商取引の持ちかけ、交渉、締結をしたり、必要滞在期間より長い期間、家屋や部屋を借りてはならない。


 なかなか面倒そうです。
 ひとつ、私が意外だったのは、あちこちで出会った子どもたちがずいぶん大人びてみえることでした。

 とても素直で言うことを聞き、両親の手伝いをよくし、自分より年少子どもたちの面倒をみます。…(略)…当地の子供ちは子供ではなく小さな大人なのです。


 子どもも労働力に数えられているのは予想どおりですが、子どもが総じて大人に対して静かに服従する、という説明はびっくりでした。やんちゃなガキ大将じゃないのか。

 もうひとつ、通訳兼従者の若者・伊藤が興味深かったです。
 この20才の若者のことをバードは「向上心があって機転がきく、まずまずの英語を話す良い従者」と考えているようです(経費のピンハネが多いことにも気づいてはいますが)。
 確かに、旅の行程をきちんと書きとめ、品位ある英語を身につけようと努力し、バードのために肉を手に入れようと始終気を配っているというのが心憎い。訪問地について記録する時に、確信の持てない事柄にはそのことを書き残しておく注意深さもあって、なにかしら教育を受けた人なのかな、という印象。彼が残した旅行日程表や出納帳が残っていたら面白そうですが、それらしい話はありませんでした。

 そして、「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」から気になっていた女性の地位。
 うーん……私にはそう高いとは思いませんでした。第29信に書かれた「女性のための修身・教訓書」はなかなかエグい(と現代からは思われる)。
 やはり、年長者優遇と家柄重視だから嫁の立場は低かったのでは。実の親より婚家の親優先だし、子どもが生まれることで嫁の立場はようやく若干格上げされたのではないのかしら。旅館を営む未亡人がそれなりの立場にあったというエピソードは、女であっても主たる労働者、いわば夫の立場にあたるからだったのでは?という気がしました。さて、どうなのでしょう。

 終盤では地元の人たちといっしょにカルタを楽しんだエピソードがあり、ほっとした気分を味わいました。

 下巻も読むつもりですが、気軽に読むには文章が重くて。少し時間を置いてからにしようと思います。
(2018.5.20)

 

逆説の日本史 4
 中世鳴動編 ケガレ思想と差別の謎
小学館
井沢元彦 著

  逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎


日本人の「平和意識」には、ケガレ思想に基づく偏見があり、特に軍隊というものに対する見方が極めて厳しく、「軍隊無用論」のような、世界の常識では有り得ない空理空論をもてあそぶ傾向が強い。また、差別意識を生むケガレ忌避思想を解明し、その精神性の本質に迫る。第一章/『古今和歌集』と六歌仙編・"怨霊化"を危険視された政争の敗者、第二章/良房と天皇家編平安中期の政治をめぐる血の抗争 ほか全七章。


 平安、鎌倉時代の歴史に馴染みやすいよ、と知人に言われて手にとってみました。いろいろ辛かったです(爆)

 意外な着目や発想に、こういう見方もあるんだなあ、と思った点は多い。
 この時代の人たちにとって霊・怨霊の力は実在しており、それを宥め、楽しませるために歌や物語が作られたとは面白い。「源氏物語」は源氏が輝かしい出世を遂げる話なのに、それがライバル関係であるはずの藤原氏方の紫式部によって書かれたのは何故か、という着目も言われるまで気づかなかった。また、「穢れ」を忌む思想は現代にも引き継がれており、現代のそれは科学的根拠の有無とは無関係、という話にはなるほどと思いました。

 ただ、本としては評価しないなあ、というのが私の感想。
 中世の人々の価値観を現代の感覚で理解してはいけない、という考えには賛成。でも、それなら逆に中世の価値観をそのまま現代にあてはめるのもおかしいでしょう。
 今の時代には今の世なりの思想が、現代らしい複雑な要因によって醸し出されているのです。それを『日本は〜』『日本人は〜』の一言で括ってはいけないのでは。「私も日本人だけど、そんなこと感じません〜」と何度も思いました。

 この著者の視座というか立ち位置は常に現代にあり、中世の思想を現代にあてはめたり、現代分析の根拠を中世に求めているだけでは? そして、「逆説の日本史」各巻ともこんな感じであるのなら、それはもう日本史ではなくて「著者が語りたい現代」ではないのでしょうか。
(2016.12.29)


「大名庭園を楽しむ 朝日新書
安藤優一郎 著

  大名庭園を楽しむ お江戸歴史探訪 (朝日新書)


江戸府内の1000に及ぶ大名庭園の多くは、現代のテーマパーク顔負けのエンタメ空間だった! そこで殿様たちが繰り広げた接待の裏事情を当時の日記類で明らかに。藩外交とサイドビジネスの現場だった庭園の盛衰記で知る、江戸幕末期の実相。

第1章 江戸の仮想空間 ―将軍様がやって来た―
第2章 江戸の高級サロン ―お殿様の社交活動―
第3章 庭園の政治力 ―意外な使われ方―
第4章 巨大庭園の舞台裏 ―旗本や大名のビジネス事情― 
第5章 大名庭園の消滅 ―明治維新の裏側―



 大名庭園と、江戸文化・経済の関係を読み解く一冊。大名たちの台所事情や庭園見物をめぐる風習が例とともに語られていて、これは楽しい〜。きっぱり好みです。

 江戸開府後、徳川家と他大名との主従関係を明確にするために始まった「御成」――庭園見物は、時代が下るに従って娯楽の趣を強めていく。また、将軍家と大名だけでなく、大名と家臣、そのまた家臣の主従関係を強めるためにも利用されるようになった。その末端が地主階級や出入り商人まで及んでいたのは驚きでした。

 御成では、江戸から離れられない将軍を楽しませるために道中に店をつくって買い物を楽しめるようにしたり、庭自体を観光地に見立てて山や池を造り、旅行気分を盛り上げたよう。庭園は江戸のテーマパークだったんですね。

 また、反対に家臣が殿さまのお庭を拝見となれば家運のかかったイベントとなる。中には、風邪でふらふらにも関わらず庭園見物を断れない辛い体験をした家臣も。現代のビジネスマンを見るようで可笑しかった。

 そして、長い江戸時代の間に庭園ビジネスはより幅広く、複雑に進化していきます。
 膨らむ植木需要に応えるために、江戸郊外(といっても池袋辺り)には広大な敷地で多彩な植物が育てられ、品種改良がおこなわれた。こうしてソメイヨシノが生まれたり、浅草・朝顔市が始まったのですね。
 植木にまつわる仕事も細分化され、職人の分業も進んでいった。地植、鉢もの専門の職人。梅、山茶花、松など品種による分業。なんと、松の枝を曲げる専門の職人までいたらしい。現代ならIT関連業種が多様なのと似たようなものなのでしょうか。
 ともかく、まさに大江戸ガーデニングブーム! 長崎経由で日本にやって来た中にはアロエやサボテンまであったらしい。

 こうした庭園の維持には当然、莫大な金がうごいていました。
 整備のためには職人はもちろん、近隣の農民まで駆り出していたらしい。もちろん、公共事業としてしもじもの者の懐を潤していた面もある。そして、その費用捻出のために見学対象を家臣、その家臣と広げていった面もあるし、なんと庭園レンタルまで行ったと。
 こう読むと、しみじみ『金は天下の〜』と思いますねえ。

 そして、庭園ビジネスが円滑に回っている間はよかったのですが、幕末期〜明治にかけて江戸の経済力が弱まり世情が不安定になる中で、庭園はしだいに縮小・消滅していったのでした。

 ちょっと興味をひかれたのが、御成にともなう献上品と下賜品について。

 両方に同じ品目が含まれる場合は「相殺」して実際にはやりとりしなかったらしい。物々交換でも相殺なんてできるのか、と驚いた。それなら、ありがた迷惑なものをやんわり返すこともできたのかも、なんて想像してしまいました。
(2017.8.25)

 

「古地図とめぐる東京歴史探訪 ソフトバンク新書
荻窪圭 著

  古地図とめぐる東京歴史探訪 (SB新書)


東海道は、はじめ東京を通っていなかった」「都会の秘境のごとき渓谷は、どうやってできたのか」「渋谷には城があった」「巨大古墳群が都内に残っている!」「源氏のつくった八幡神社がそこらじゅうにあるのはなぜ?」。古地図片手に、道や史跡、伝承を訪ねれば、知られざる土地の姿と歴史が浮かび上がってくる。

第一章 道を訪ねて ――初代東海道は、東京を通っていなかった――
第二章 土地を訪ねて ――地形がつくっていった歴史とは――
第三章 城跡を訪ねて ――江戸城とたくさんの城――
第四章 古墳を訪ねて ――今は寺か神社か、公園か――
第五章 人物を訪ねて ――東京に名を残した武将たち――
第六章 物語を訪ねて ――伝説と伝承から浮かび上がる東京――



 明治初期の東京近郊の地図をベースに各地の歴史を訪ね歩く、という本。
 前書きによれば、「明治初期の地図(陸軍作成)」をもとにしたのは、等高線など地形情報が記されていること、また江戸時代のそれでは東京中心部(23区)しか載っていない、という理由だそう。きちんと測量された地図は現在の土地勘と重ねあわせやすく、きれいなカラー図版をみながら遠い昔――戦国、平安、古代――にまで思いを巡らせる、楽しい読書でした。
 ほぼ全ページにカラー写真や図版があって、著者の意図がきちんと伝わるいい本! ソフトバンクはさすがに太っ腹だ!

 東京は川との関わりで形成されてきた土地だったんだな、とあらためて感じました。河川の氾濫や葦野原、治水工事で流れの変わった川でできた町のかたち、道のかたち。見知った場所を思い浮かべたり、実際に訪れたくなる場所もありました。
 渋谷の氷川神社や上野の擂鉢山古墳、等々力渓谷は行きたいです。

 また、平安時代や、さらに遡った弥生時代の痕跡も見られる、という点も。なんとなく、高校の日本史では戦国時代くらいまで東国なんて存在してない感がありますけどね(笑)。言われてみれば、自宅の近くでも遺跡と土器が発掘されていたっけ。
 地元の地域史も調べてみたくなりました。
(2019.6.1)

 

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