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歴史・文化(日本) 5

 

「<満洲>の歴史 」 講談社現代新書
小林英夫 著

   〈満洲〉の歴史 (講談社現代新書)


13〜19世紀の「清朝封禁の地」から、20世紀の「満洲国」の成立と消滅へ。 近代日本が中国東北の地に抱いた野望はなぜ挫折したのか。

第1章 十九世紀初頭までの満洲
第2章 東アジア激動の中の満洲
第3章 奉天軍閥と対立する日本
第4章 「満洲国」の時代 
第5章 「満洲国」は何を目指したのか 
第6章 満洲に生きた人たちの生活と文化 
第7章 消滅した「満洲国」が遺したもの
第8章 満洲の記憶とその変容


 中国東北部の歴史は、私の中では17世紀で止まっているので(汗)、何とか現代とつなげようと手に取りました。

 中国とひとくちに言っても、長城より北東部は清朝の故地であり、南方とは政治的に異なる背景があったこと、またこの時期には軍閥が入り乱れて、不安定で複雑な状況だったんですね。
 対する日本の方も、軍、満洲鉄道、領事館の間で権利争いもあれば利用しあうような関係もあり、こちらも複雑な事情らしい。
 もうちょっと勉強しないとわからないことばかりなので、ひとまず興味をひかれた点を挙げておきます。

 一番興味深かったのは、満洲「経営」の予想と現実の食い違い、という点。
 商業活動では、漢人と同じ土俵に立たなければならないため、現地と内地の物価の差や貨幣制度の違いから多くの事業が失敗したこと。
 農業については、満洲の気候や土壌に合う農業計画が立てられないまま移住を進めたこと。
 最初から成功の確率は高くない、という意見があったにも関わらず、問題の指摘よりも「大陸進出」という声が大きく、熱気に浮かされて満洲開拓が進められた、という説明が印象的でした。
 日本人のこういう傾向は現代でもたいして違わないのかも、と考えると怖い。

 もっと大きく見るなら、国の立てた方針が現実の前に悉く崩れた時期ということなんでしょうか。
 日本本土と満洲あわせて軍事経済大国となることを計画し、そのためには「少なくとも十年の平和な時期が必要」と言われながら、実際にはずぶずぶと日中戦争に突入していく。五族協和を謳いながら現実には日本人優位社会でしかなかったように、戦争が始まれば、満洲の農業・工業発展も単に本土のための搾取になってしまう。
 結局、あとの時代に残ったのは悪感情ばかりなんだろうか。歴史ってこんなものなのかな、と複雑な思いがしたりして。

 中国東北地域のことは、ひきつづき調べたいのですが、次はどうしようかな。日本人として関わりがある満洲を手掛かりに、モンゴル、ロシアの歴史とつなげて読んで行きたいと思うのだけど。思案中。
(2013.5.28)

 

「幕末遣欧使節団 」 講談社学術文庫
宮永孝 著

   幕末遣欧使節団 (講談社学術文庫)


攘夷の嵐が吹き荒れる幕末。先に欧米に約した開市開港の実施延期を要請するため、幕府はヨーロッパに使節団を派遣した。文久二年、総勢三十八名のサムライたちは、西洋事情調査の命をも受けて、仏・英・蘭・露など六ヵ国を歴訪。一年にも及ぶ苦難と感動に満ちたこの旅を、彼らの日記や覚書、現地の新聞・雑誌の記事等をもとに、立体的に復元する。

第1章 渡航
第2章 フランス入り
第3章 イギリスへ
第4章 オランダ滞在記 
第5章 プロシア(ベルリン) 
第6章 ロシア(ペテルブルグ) 
第7章 最終訪問国ポルトガル
第8章 帰航
第9章 使節の歴史的評価


 1862年1月に出航した文久遣欧使節団の旅程を各人の覚書、報告書、当時の新聞などによって日誌風に辿った本。一緒に旅をしているような感覚で読めて面白かったです。
 以前に読んだ「ヨーロッパ人の見た文久使節団」はおもにイギリス滞在中の様子を取り上げたものでしたが、この本はフランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルをバランスよく扱っています(オランダでの記録は他国よりもやや詳しいかも)。この使節団派遣の意味合い、成果をざっくりとつかむのにぴったりの一冊でした。

 長旅の苦労、各国滞在中の様子も面白いのですが、使節派遣を巡る日本(幕府)と各国との温度差がうっすら感じられて興味深かったです。
 この使節団の目的のひとつは各国から日本に突きつけられていた開港の期限延期を求めること。それにも関わらず各国が相当な接待費を使ってもてなしているのは、日本との貿易(というか、市場と捉えていたのでしょうが)に期待を持っていたんですね。
 もっとも、プロシアはあまりに金入りだったのにうんざりしたようで、日本人がロシアから帰国する時にはなるべく国内を通らないように、通っても数日で済むように裏で画策してます(笑)
 また、日本への各国の対応をイギリスに足並みを揃えるようにしたのは、日本という市場を殺さずに生かしておきたかったのだろうし、「抜け駆け禁止」という意味もあったのかもしれない。

 ところで、各国での見学先を見ると、鋳鉄工場、動物園、植物園、オペラ(観劇)が多い。アーツ・アンド・クラフツからアール・ヌーヴォーへとつづくヨーロッパ文化の香りが漂ってくるようですね。

 そして、この本で初めて知ったのですが、遣欧使節団の目的にはもう一つ、ロシアとのカラフト国境線問題の交渉がありました。
 結局、大きな進展も後退もなかったのですが、同じくカラフトでの炭坑開発を目論んでいた米英仏から日本に「ロシアに対して譲歩しすぎないように」という働きかけがあったようです。使節団はそれをどの程度信じてロシアとの交渉に臨んだのか、気になります。
 密林で「何度か行われた遣欧使節団には、かならず函館奉行経験者が含まれていた」というレビューを読み、当時の北方への警戒感にも関心が出てきました。

 まるで小説でも読むようにどんどんページをめくってしまうのは、一人一人の人間にもスポットがあてられているからかもしれません。福沢諭吉をふくむメンバーのプロフィールと集合写真を併せみると面白いし、フランス人の日本学者レオン・ド・ロニーとの交流も興味深いです。
 このロニーという人、使節団とはとても親しくなったようです。彼は使節団のフランス滞在が終わったあともオランダ、ロシアにまで日本人を追いかけていったらしい。今でいう日本オタクみたいな人だったのではないかと(笑)
 医師の松木弘安がパリ駅でロニーに別れの短い手紙を書いたのですが、汽車の発車ぎりぎりで書き終えられず、宛名の「羅尼」(ロニ)の字が書きかけになっています。

 ゴキゲンヨクオクラシナサレ。パリスニテ再ビオメニカカリマス。 良友
 羅



 他にも、日本を出奔し、ロシアで成功した橘耕斎(ウラジーミル・ヤマートフ)という人物も面白い来歴がありそうです。

 さて、一年あまりの長旅でヨーロッパ文化を学んで帰国した使節団ですが、帰国してみれば、日本は攘夷運動の真っ只中。学んだことを幕府のために生かすところか、渡欧したことすら隠さなければならず、出仕すらできない人もいたらしい。数人が認めた見聞録も世に出されることなく散逸してしまったり、それなりの役職に就いても政策には生かされず。もったいないことですよね。
 ヨーロッパに学びたい、と武士でありながら小使いとして使節団に入った人もいたそうですが、結局、世に名を遺したのは福沢諭吉くらいだったようです。

 ともあれ、生まれて初めてヨーロッパの土を踏んだ彼らの驚きを追体験するようでした。同じ著者で遣米使節団についての本もあるようです。面白そうだから、そちらも探してみます。
(2014.10.30)


「アメリカの岩倉使節団 」 ちくまライブラリー
宮永孝 著

   アメリカの岩倉使節団 (ちくまライブラリー)


近代文明の構築のために明治新政府の権力中枢によって企てられた200余日間の大陸横断旅行。

第1章 行ケヤ海ニ火輪ヲ転シ
第2章 サンフランシスコ到着
第3章 ロッキー山脈を越えて
第4章 ワシントン入りす 
第5章 制度の翻訳 
第6章 決裂した交渉 
第7章 岩倉使節団について


 書影はカバーをはずしたところなのかな(私は図書館で借りたので、カバーをはずしたところを見られないのですが)。英訳本なのかと思うじゃないですか。日本語で書かれてますので、問題なく読めました(笑)

 同じ著者の遣欧使節の本が面白かったので手に取りました。明治4年(1871)、先に結ばれていた不平等条約改正の交渉のために渡米した岩倉具視率いる使節団を追う本。サンフランシスコまでの船旅、そこからワシントンへの鉄道の旅です。

 遣米使節のことは初めて読むのですが、9年前の遣欧使節の旅と比べると、長旅のための米や予備のわらじを山のように持参する事もなく、ずいぶん欧米風に慣れた様子で面白かった。しかし使節に与えられた権限がどこまでなのかが曖昧だったため、アメリカの国務長官にツッコミを入れられて、その場で相談しあったりしたようです。

 ヨーロッパを訪れた旅よりも、格段に民間人(経済人や関係者宅訪問)との交流が多い様子なのと、視察先に教育・福祉機関が多い。ヨーロッパ各国とアメリカの社会の違いもあったのでしょうね。

 万延元年(1860)の遣米使節の旅と比較して読む方がいいと思うので、こちらも探してみます。
(2014.11.16)


「万延元年のアメリカ報告 」 新潮選書
宮永孝 著

   万延元年のアメリカ報告 (新潮選書)


万延元年(1860年)正月、幕府遣米使節団は海を渡った。本書はおよそ三百余日に及ぶ使節団の旅の日々の精密な復元である。七十七名の使節団は、大身の旗本あり、蘭語通訳あり、地方の藩の秀才あり、水夫、料理人あり、当時の日本のさまざまな地方、階層の出身者によって構成されていた。その人々の残した日記、備忘録、回想記等の厖大な資料が整理され、再構築され、日々の感動と驚異が、巧な模型のように復元されている。

第1章 サンフランシスコへ
第2章 パナマ経由コロンへ
第3章 ワシントン滞在
第4章 フィラデルフィア滞在 
第5章 ニューヨーク滞在 
第6章 江戸への帰航 
第7章 遣米使節――検証


 遣欧米使節の本を続けて読んでいますが、幕末の方が面白いのは何故だろう。単純に使節当人たちが目新しさを感じている、ということなんだろうか。

 本の帯に『日本人最初のアメリカ体験=アメリカ人最初の日本人体験』とあるように、互いの驚きや関心が窺われて面白い。二年後の文久遣欧使節と比べても、日本側の緊張ぶりはその持参した味噌、醤油の樽数からしてもただ事ではなかったようです(笑)。
 多くの団員にとってアメリカの文化、人との出会いは刺激的だった様子。ホワイトハウスの歴代大統領の胸像をまるで「さらし首」のようだと思ったとか、大統領との接見にあたり失礼がないようにリハーサルを願い出たり、船旅を支えてくれたアメリカ人船員たちとの交流もあったらしい。

 一方、アメリカ側の迎え方も興味深い。
 米を食べる日本人のために各訪問先でライスを用意したり(但し、バター炒めのピラフだったらしく日本人は食べられなかった)、女性が晩さん会に同席することをこちらの文化として特に説明したり。英語を比較的よく話す若い随行員に「トミー」と愛称をつけたり。物珍しさが大きいのだろうけど、なかなか好意的と言っていいのではないかなあ。

 折しも南北戦争の直前、北部南部の経済構造の違いが目に見えて軋んでいた時期。新たな貿易先としてアジアを見ていたアメリカにとって、長らくオランダとしか交流がなかった極東の国との条約締結は喜ばしいことだったろう。
 あと、これは私の想像だけど、「西進」によって発展を遂げてきたアメリカ人にとって、太平洋を西から越えてきた未知の国の使節団との出会いは未来への展望を思わせたのではないかという気もします。

 さて、条約交換が淡々と行われ、もう一つの要務である銀の交換レートも決定されます。
 小判の分析(銀の含有量など)には使節たちも立ち会い、食事のためにそこを離れることすら拒んだらしい。金銀の価値の国際基準と日本のそれとの差が大きな経済混乱を生み出していたので、ある意味、条約締結よりもはるかに重要な任務だったのかもしれない。

 大きな仕事を成してアメリカ各地で歓迎された使節団ですが、帰国した彼らはそっけなく迎えられます。使節団を送ってきたナイアガラ号の艦長や士官はまるで「追い払われるように」出航した様子。幕府はある程度の礼は尽くしたものの、国内事情を外部に知られたくないと考えていたようです。

 他の本で読んでいた、横須賀に製鉄所、海軍船廠をつくった小栗豊後守忠順の写真を見られたのも面白かった。他の使節の二人(正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正)と比べて地味というか、ちょっと風采が上がらない感じですが、実務に強そうだなあ、という印象でした。
(2014.12.7)


「ロシア人の見た幕末日本」 吉川弘文館
伊藤一哉 著

   ロシア人の見た幕末日本


初代ロシア領事、ゴシケーヴィチの報告書には、開国間もない日本が生き生きと描かれている。この貴重な記録から、ロシア外交の真実を読み解き、「怖いロシア」というイメージを払拭して、日露関係史に新たな道を拓く。

T日本との出会い
 「和魯通言比考」
 シベリア横断

U攘夷運動の中で
 攘夷
 領事館の「不良」たち
 サハリン領有への思惑
 サハリンの国境画定問題

V対馬事件
 英国軍艦の動き
 対馬の重要性
 ロシア側の「戦略」
 ロシア対イギリス

W移りゆく情勢
 二人の皇帝
 なぜ箱館だったのか


 目次は抜書きです。

 幕末の本を読みながら、ロシアのイメージがごっそり抜けているのに気づいたので手にとりました。
 ロシア領事として1858〜65年にかけて函館(当時、箱館)に滞在していた外交官ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチを通して当時の日露関係を見た本です。
 これは、なかなか面白い。外務省の命令、ロシア海軍、幕府、日本の攘夷ムードのはざまに立たされて国益のために骨身を削り、しかし結局、上役の理解を得られず、疲れて日本を去った一外交官の話。ごめんね、大変だったんだね。。。

 冒頭で著者は、「怖いロシア」のイメージが蔓延しているが、この時代のロシアの内情を細かく見ていくと日露関係にも新しい面が見えてくるのでは、と問いかけています。
 なるほど、帝国主義全盛期の「ロシア」といえば、南下政策で周辺国を脅かし、イギリスと丁々発止の情報戦をしている「怖いロシア」。それがゴシケーヴィチの外交文書のやりとりや箱館赴任までの道中の苦労を読むと、確かに違う事情が見えてきました。

 「怖い」の正体は何だったのか。
 この頃のロシア外務省は、クリミア戦争を通して「力による要求」が国際社会の反発を招くことを学び、「相互合意の問題解決」というソフトな視点を持ち始めていた頃。その中で対日外交も「進んだ知識・文化を伝えて国民の心をつかみ、影響力を確保しよう」という戦略でした。
 しかし一方で、ロシア海軍は極東での影響力維持のためにサハリン領有、さらに対馬もイギリスに先んじて手にしたいと考えていた。
 外務省と海軍は反目しあっており、まるで水と油。「怖いロシア」というイメージは、海軍の暴走とそれを止められなかった外務省という対立の構図の中で生み出されたものだ、と。

 ゴシケーヴィチ個人にしても、赴任から離日までずっとこの状況に悩まされたようです。
 シベリアから蝦夷に船で渡るはずが軍艦に置き去りにされたり、海軍の情報が入ってこなかったり。本国とは丸一年かけて文書をやりとりするため(文書を運ぶのに片道数か月〜半年かかるから)ほとんど「皇帝陛下はこう考えておられる。あとは君の手腕に期待してやり方は一任する」みたいな放し飼い状況。
 人によっては生き生きと力を発揮できたのでしょうが、どちらかといえば生真面目で地味だったらしいゴシケーヴィチには苦痛だったでしょうね。

 サハリンの国境画定をめぐる話も面白かったです。どうしても戦後の北方領土問題の印象が頭から離れないのですが、幕末期は今とはかなり違う様相だったのね。
 ごく初期には、日本側にはどうしてもサハリンを領有したいという欲求はなく、一方のロシアとしては地理的に領有したくはあるけれど、それを主張するだけの根拠がなかった(そんなソフトな考えがロシアにあったことにも驚くのだけど)。
 しかし、米英仏が日本へ乗り込んでくるような状況になると、ロシア側としては下手に日本に島を渡せばイギリスなど他国に奪われるのは時間の問題と考え、日本としても「サハリンを許せば、次は蝦夷地が奪われる」と恐れるようになり、双方が疑心暗鬼となって駆け引きが過熱していったという訳です。日本側の領有の根拠も薄いとは思うのですが。
 どこに国境線をおくかで議論は続き、しかし当地にいる人たちの間では人間味あふれる交流があったようで、そんな話もいつか読んでみたいと思います。

 そういえば、他の読書とのつながりも発見。
 ゴシケーヴィチにはサハリン問題に関する権限は与えられていなかったので、幕府ははるばる欧州まわりでロシアへ交渉の使節団を送ることになります――これが1862年の文久遣欧使節団でした。
 ペテルブルグを訪れた使節団は日本風の応対を受けて驚くのですが、その仕掛け人(?)だったのがゴシケーヴィチとともに日露語辞典をつくり、ロシアへ密出国していた橘耕斎(ウラジーミル・ヤマートフ)。彼らが会った時にはゴシケーヴィチのことも話題にのぼったでしょうね。
 あと、1861年の対馬事件でロシア軍艦の退去をめぐってゴシケーヴィチと交渉していたのが村垣淡路守範正。1860年の遣米使節団の副使です。

 こうやっていろんな人物がつながってくるから、本読みは面白い。
(2015.1.5)


「プチャーチン ― 日本人が一番好きなロシア人 ― 新人物往来社
白石仁章 著

   【バーゲンブック】 プチャーチン 日本人が一番好きなロシア人


明治天皇が勲一等を与えた最初で最後のロシア軍人。プチャーチン父娘と日本の意外な交流史。

第1章 プチャーチン・ミッションの来航
第2章 明治期の日露関係におけるプチャーチン
第3章 長女オーリガにも引き継がれた親日感情


 幕末のロシアつながりで読んでみました。
 日本との通商を求めて日本へやってきたロシア艦隊司令官プチャーチンが江戸〜明治初期の日露関係において果たした役割を分かりやすくまとめた本。同時期に同じような目的で日本へやって来たアメリカのペリーと比較されていて、正直そこまで重大な役割を果たした人物とは思っていなかったので勉強になりました。あ、もちろん、面白かったです。

 日本との交易を求めていたアメリカとロシアですが、玄関口である長崎を経ずにいきなり江戸近くに黒船で踏み込んできたペリーと、シーボルトに助言され日本の事情にあわせて長崎で玄関の戸を叩いたプチャーチン――やり方はかなり違っていたようです。
 もっとも、日本側はどちらにも同じくらい動揺したし、プチャーチンもソフトとはいえ、使者の到着が遅れたり、文書の返答が得られない時などは「君子、豹変す」と描写されるほど強気を見せたらしい。そんなアメリカとロシアの外交手法を比較した箇所が印象的。

アメリカが原理原則を重視するのに対して、ロシアないしソ連はブラフ(虚勢)も譲歩も思いきって行う外交上の「特筆」あるいは「癖」がこの時代から顕著に表れている。


 さて、役人仕事(?)に散々待たされながらも粘り強く交渉を続けるプチャーチンはタフとしか言いようがない。長崎奉行所の役人たちと和やかな交流を深める中で一歩ずつ幕府との交渉の足がかりをつかんでいきます。特に、幕府の代表として遣わされた筒井肥前守政憲、川路左衛門尉聖謨とのエピソードはどこか微笑ましくて楽しい。川路とは冗談をかわし、筒井についてロシア側メンバーの一人は「このような好々爺に会えば、誰でも自分のおじいさんにしたくなる」と語ったそう。

 しかし、条約締結に向けた交渉の最中の1854年に安政の大地震が起き、津波のためにディアナ号が破損、回航中に沈没してしまいます。
 この時にロシア人水兵を救助し、替わりとなるヘダ号建造を手伝った戸田村とプチャーチンの間には友好関係が生まれます。親日的な感情は帰国後も失われることはなく、ロシア駐在外交官との交流、留学生の援助を続け、日本政府から勲章を贈られることになります。

 こんな風にプチャーチンやその娘オーリガと日本との間に深い関わりがあったことを知るにつけ、どうして二国は日露戦争を始めるような事態になってしまったのだろう、また、このような交流があったことがなぜ後世に広く伝えられなかったのだろう、と不思議に思いました。
 ロシアの国内事情も気になります。先に読んだ「ロシア人の見た幕末日本」では、クリミア戦争(1853〜56)の結果、ロシアの外交姿勢がソフトになったと書かれていましたが、プチャーチンの二度目の来日(1857)にどんな風に影響したのだろうか?

 また、明治8年(1875)の千島樺太交換条約についての箇所も気になりました。
 交渉にあたっていた榎本武揚はプチャーチンがかつて援助した学生で、彼が外交官となってからもプチャーチンが自宅に招くほど親しかったらしい。

千島樺太交換条約というのは、ロシア側が日本を信頼していなければ成立しない条約であった。何故なら千島列島を日本がすべて領有した場合、ロシアの重要な港、ウラジヴォストークから日本の領海を通らずに外洋へ出ることは不可能となるからだ。


 この辺り、のちの日露関係悪化や今の北方領土問題にもつながるのじゃないかしら、と思うので、他の本にもゆっくりあたってみたいです。
(2015.9.26)


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