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歴史小説 1

「愛の年代記」 新潮文庫
塩野七生 著

   愛の年代記 (新潮文庫)

古文書や小説に想を得た物語集。中世後期からルネサンス期にかけて、イタリアに生きた男女の愛のかたちを描く。

 資料をあたり、その上で目線をさらに遠くに飛ばして物語を描く。その飛ばし具合(って、曖昧な言い方)は時に大胆、時に慎重。その匙加減が絶妙で、さすが塩野さんだなあ、と読み返すたびに思います。もっとも、私の個人的好みからすると、登場人物の情が少しくどい気もするのですが。例えば、やや怪奇テイストの「フィリッポ 伯の復讐」、「パリシーナ侯爵夫人の恋」。どれが好きかと聞かれれば、「大公妃ビアンカ・カペッロの回想録」くらいが程良い感じ(と、言いたい放題)。

 濃厚な甘味のデザートのようなものなのでしょう。一日一話にとどめておくのが良さそうです。でも、食いしん坊は手を止められない……
(2005.11.6)

 

「チェーザレ・ボルジア 
 あるいは優雅なる冷酷」
新潮文庫
塩野七生 著

   チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 (新潮文庫)

ルネサンス期、法王の庶子という立場から枢機卿となり、後にイタリア半島を統一しようとしたチェーザレ・ボルジアを描く。

 何回も読んでいるのですが、その度に惹かれるところ、抱く感想が違うのが面白いです。 前に読んだ時は、チェーザレに対して反乱を企てた男たちの最後やダ・ヴィンチとの交流をわくわくして読んでいましたが、今回の感想は「大甘!」でした。たまたま一般教養書の後に読んだせいか、濃厚、大甘な文章に思えてしまった。小説ばかり読む時期には、とても幸せになれる一冊なのですが。また、忘れた頃に取り出してみようと思います。
 人ひとりに、その腕前について本を一冊書かせてしまうような強い個性の人を描くと、大甘か大辛な文章にしかならないのかもなあ、と思いました(人って、つまりマキアヴェリさんです)。
(2005.11.6)

「コンスタンティノープルの陥落」 新潮文庫
塩野七生 著

   コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)

1453年、コンスタンティノープルはオスマントルコ帝国マホメッド二世の手におち、西欧人の精神を古代ローマと結びつけていた東ローマ帝国は千年にわたる繁栄と緩やかな衰退ののちに消滅した。キリスト教世界とイスラム世界とがぶつかり合う戦いの物語。

 日本人には何となく馴染みの薄い感のある東ローマ帝国。どの本を読んでも、なかなかピンと来なかったので、小説仕立てのこの作品を読み返してみました。翻訳かと思うような長い長い、長い(笑)文にとまどうこともありましたが、それも含めて異国の空気が伝わってくる歴史物語をたっぷり楽しみました。ジェノヴァに辛口だな、とも思いましたけど。

 城壁を壊されては修理するという繰り返し、篭城戦のじわじわと続く様子は何度開いても読みごたえあります。現代ではなかなか想像できないテンポの戦争ですね。
 コンスタンティノープルの中の事情として描かれているキリスト教徒同士の反目(ギリシア正教とカトリック)もなるほどと思えなくもないのですが、イスラム教徒側の他宗教への寛容さをみると、そんなことしてる場合かと言いたくなりました。もっとも、当人たちにとっては重要な意見の違いで、遠い東洋の人間にはわからないことなのかもしれません。

 コンスタンティノープルの最期を見届けた「現場証人」たちの複数の視点が、この戦いの全体像を支えているという、淡々とした書き方は心地良かったです。
(2006.7.1)

「イルカの家」 評論社
R・サトクリフ 著 乾 侑美子 訳

   イルカの家

原題「The Armourer's House」。十六世紀のイギリス・ロンドンの物語。親をなくした少女タムシンはおじ夫婦のもとに引き取られる。もし男の子であったら船乗りになれたのに、と悲しみながら、それでもにぎやかなロンドンでの生活に馴染んでいく。

 子供たちの想像力が豊かで、ごっこ遊びの風景がすばらしい。ファンタジーに入れたくなりましたが、これはやはり歴史小説だろう、とここに入れました(ジャンル分けって難しいです)。

 ほかに読んだことがないほど、温かくて優しい、幸せな物語でした。大事件は起こりません(最後をのぞいて)。ただ丹念にタムシンの過ごす日々が描かれて、登場する人々は誰もが穏やかで生き生きとしています。彼らに囲まれて新しい生活に馴染んでいくタムシンが可愛らしい。光に向かってのびていく植物のような健やかさが感じられて素敵でした。

 また、ピアズとタムシンの帆船のごっこ遊びが楽しい。「西へ、ほーい!」は、わくわくして読みました(←のりのり読書)。このお話は十六世紀を舞台にしていますが、このあと現代に至るまで、イギリスにはこんな風に船乗りを夢見る子供たちがたくさんいるのですよね。なるほど海の国なのだな、と感じられて嬉しかったです。

 自分の居場所を求めて涙を流すことはあるけれど、タムシンがだんだん成長していくことが嬉しいです。望みのかなう鉢植えをピアズに譲ろうとしたり、クリスマスの贈り物を用意する……人に何かを差し上げることを覚えていくというのは、何とも幸せなことなのだとしみじみ頷きました。
 思えば、タムシン自身の願いは途中からどこかへ消えてしまったり、変っているのですね。男の子になることはもちろんできないし、デヴォンへ帰りたいわけでもなくなる。ピアズとともに船に乗るということも、彼が海へ出て帰ってきたらという慎ましいものになっている――それなのに、この幸福感は何なのだろう??

 願いがかなうのは嬉しいこと。でも、「幸福であること」と「望みがかなうこと」は同じとは限らないのかもしれない。憧れ続けることが幸せなことなのかも、と読み終わってから考え耽ってしまいました。
(2007.6.14)

「旅する石工の伝説」 新潮社
松谷健二 著

   旅する石工の伝説

11世紀につくられた、ドイツはナウムブルクの聖堂にエッケハルト二世と妻ウータの石像が残されている。それを刻んだ石工は、子供の頃に輿入れするウータの姿を見覚えていて、以来その姿は彼の憧れになった。成長した石工は職人としての腕を磨くために故郷を離れてイタリアを目指す。

 人と出会って、一緒に旅をして別れる。そして、遠く離れてからふと思い出す。そんな繰り返しが切なくて、幸せな物語でした。一番印象に深いのは、ほんのひと時一緒に過ごしたクーノーの姿でしょうか。石工とはまったく違う性質で、一人旅の最初に出会う友人だからかもしれません。
 主人公の石工の名は書かれていません。名は後世に伝わっていないのです。ですが、幸福な一生であっただろうと、豊かなものを得て地上を去ったのでは、と感じるひとときでした。

 精魂込めてつくられた像たちは石工の人生に繰り返し、繰り返し帰ってきます。親方の娘にあげた像、ローマで出会った女友達キアラへの肖像……。
 手放した作品が時間を経て自分の前に帰ってくるというのは、差し上げた相手の思いとともに戻ってきてくれるというのは、職人にとっては何とも幸せな出来事でしょう。
 ウータの石像を仕上げてのちに、主人公は一生を終えたはず。もしかしたら、ウータの像も何らかの形であの世の石工の前に現れたのではないか、などと、ふと思ってしまいました。
(2006.4.6)
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